第25話 黄色い真実③

 必死に抑えこもうにも、それでも止まらない何かが目から溢れ出ようとする。耐え切れず、彼に背を向ける。


「……何よそれ。根拠も何も無いじゃない」


 少し上を向いて、乱れそうになった息を整える。なんとか溢れ出そうになるものを押さえ込んだ。


「君と話していると、自分があんなに悩んでた事がバカバカしく思えてきたわ」

「人間の悩みなんて大体そんなもんだろ。考え過ぎなんだよ、どいつもこいつも。もっと楽に楽しく生きるべきだろ」


 彼は、ん~っと、伸びをしながら答える。


「……そんなに、人は強くはないんだよ」


 彼の、皇子代黎の言うことは、確かに正しい。でもそれは強者の言葉。


「君は、うん、しっかり自分を持っていて、自分の存在価値の程度も理解してるんだろうね。だから無理なことは無理だと割り切るし、深く考えなくて済む」

「それは、褒められてんのか?」


 彼は再び重くなった空気を誤魔化すように苦笑しながら答えた。

 しかし私は至って真面目に続けた。


「でもね、たいていの人はそうじゃない、と思う。皆、常に何かに悩んでる。葛藤してる。私だって、悩んで、葛藤して、それで今の状況を選んだ。君にとっては間違いだったとしても、私はそれが今でも正しいと思ってる」

「ま、それはそれでいいんだよ。別に」

「さっきと言ってることが違うじゃない」


 予想外の彼の言葉に、彼の真意が掴めない。彼はだるそうに後ろの机に両肘を乗せ、


「別に他人に押し付けるつもりはないってことだよ。俺みたいに楽観視して生きる方が俺は良いと思うけど、でもあんたみたいに重く悩みを持って生きる人間が悪いとは言わない。人間そうやって成長するんだろ。俺だって、昔に悩んだ末に、今のこの生き方を見つけたんだ。そういう意味じゃ一緒なんだよ。根本は」

「……そう。でも随分とわかったような物の見方だね。君って説教好き?」

「さっきも言っただろ? それはあくまで俺の意見だ。価値観だ。それを他人にそうだと、押し付けるつもりはない。俺のこの意見を聞いて、偉そうだと罵るのも、愚かだと蔑むのも、素晴らしいと真似するのも、それは聞いた方次第だ。人間そう簡単に他人の意見を取り入れられるほど器はでかくないさ」

「何よそれ……自分勝手な人。結局、意味がわからないわ」

「じゃあそれでいいんだよ。結局、悩もうが何しようが大事なのは、自分の足でその先に進むことだ。立ち止まって考えて、その結果自分の意志で前に進めなきゃなんの意味もない。流れで前に進まされてるようじゃ駄目だってことだ。未来は放っておいたって来るんだからな」

「私は自分の足で進まず、ずっとその場に立ち尽くしていた。だから君は私が気に食わなかったの?」

「ま、そんなとこだ」


 彼のそのはっきりしない返答に多少違和感を覚えたが、彼はおそらく説明が苦手なのだろう、とそう思った。自分の中にある確かな価値観。しかしそれを言葉にすることはとても難しい。言葉にすればするほど、どんどん自分の言葉にズレが生じて、どんどん自分の言いたいこととはかけ離れていく。しかしそれを言葉にしてしまったからには、相手はそれを受け取り、何かを思う。そこに自分の伝えたいものの百パーセントは詰まっていないと断言していい。彼はそれを嫌ったのだろう。自分の言葉で私に変な結論を持たれたくない。だから彼は余計な説明などせず、そこで言葉を切った。そうすることで、私は自分に都合の良い、かつ納得のいく結論を出せる。


「偏見が無いなんてことは、在り得ない」


 急に、彼はそんなことを言い始めた。視線をこちらに向けず、教室の前方を睨みながら。


「あんたが人殺しの子供で、そしてその両親が殺されて、そこにあんたしか容疑者がいなかったら、あんたがやったんじゃないかって、そう考える人間の気持ちを俺は理解できる。良いとか悪いとかじゃなくて、そう考えてしまうことは誰にも避けられない。可能性の一つとして、当然頭に浮かぶもんだ。そしてあんたの場合その可能性が少し高かった。そうだろ?」

「そう、だね」

「そんであんたの態度もそれを助長させてた」

「それも自覚してる」

「もう一回言うけど、偏見は誰でも持ってる。例えばホームレスを見たらまず、可哀想だとか、汚いだとか、邪魔だとか、って人間は思う。それが人間だから。それはどうしようもないことで、それを思わないんだったらもうそれは人間じゃない。でもその全部を道徳心や、一般常識で覆って人は善者を保っている。稀にいる、偏見の気持ちなんて全く無いですって頑なに言う人間は、ただその仮面が顔にくっついてしまってるだけだ。要は慣れてるだけだな」

「それは、私を慰めてるの? 人はそういうものなのだから、仕方が無いって。結局君は、性悪説を唱えたいってことでいいのかな?」

「それでいいや。性悪説をよく覚えてないけどな」


 なんとも適当な人だ。

 彼は椅子から立ち上がり、ゆっくりと教室の前へと移動していく。


「要はあんたはそれを受け入れなくちゃいけないってことだ。あんたは自分に近寄ってくる人間が全て偽善者だとわかってる。だからそれを突っぱねた。でも、そうじゃない人間なんかいないんだよ」


 確かにそうだ。人を全て偽善者だと拒絶して、おそらくそれでは一生私は誰も受け入れられない。だって下心の無い人間なんていないのだから。そう彼は言いたいのだろう。


「同情も、下心も、それは人が持ってる不可避の感情なんだよ。結局その上にどれだけの上っ面を重ねられるかなんだ。それをわかった上で、人間は人間と接していかなくちゃいけない。それが生きるってことだろ?」


 そう言って彼は教室の前の窓を一つ開けた。

 すると、その開け放たれた窓から一匹の蜂が夕空へと飛び立った。この位置からはカーテンで見えなかったが、その蜂はずっと、そこに窓ガラスがあると知らず、空に向かって飛び続けていたらしい。それを助けたのだろう。


「じゃあ君のそれも、偽善?」

「ああ。同情だな」


 蜂が飛び立った空を見上げながら、彼は目を細めて言う。


「そんでもって気まぐれだ。今はこうして助けたけど、明日は無視するだろうし、明後日には踏み殺す自信がある」


 そう言った彼の言葉は、それは確かに残酷な言葉に聞こえるだろうけれど、それでもどこか恐ろしさはなかった。むしろ、そんな自分を悔やんでいるような、憎んでいるような、そんな感じ。そんな醜い自分を理解しながら、どうしようもないことを悔やんでいる。


「俺だって、善人じゃない」


 彼の横顔は、少し悲しげに見える。私に向けられていたはずの彼の言葉は、もはや誰に向かって言っているのかわからなくなって、宙を舞う。


「ま、だからさ、あんたも一人で篭るのは諦めて他人と触れ合ってみろよ。どれだけ待っても世界は変わらないんだから、自分が変わって行くしかない。さっきも告白されたんだろ? そいつと付き合ってみればいいじゃないか。何か見えてくるんじゃないか?」


 一瞬だけ垣間見せた暗い顔を、彼自身が隠すようにすぐに私に笑顔を向けて、いつも通りにそう言った。


「偽善者相手に?」

「元も子もないこと言うとだな、偽善以外の善は無いってことは、つまり善は偽善なんだよ。あーなんて言えばいいのかな」


 くしゃくしゃと伝えたいことを伝えられない苛立ちを頭を掻いてごまかす。

やっぱりこの人は説明下手なんだ、とそう思った。というか多分面倒くさいのだろう。彼の場合。


「つまりだな、どんな善意にも下心はあるって言っても、それは所詮、根元であって始まりだってだけでだな。その善行がイコール見返りを求めてるわけじゃないってことだ。世の中には無償で働く人もいるし、貧しい国に無償で寄付する人だっている。思惑は人それぞれで、その中にはたしかに同情や優越感、そんでいい人間だと思われたいだとかはあるんだろうけど、でもそんなことを度外視にして、なんの見返りも求めず善行を行える人間だっているんだ。その根元が偽善であったとしてもな。そんな人間を見て、偽善者だと笑ってるのが今のあんたで、ほとんどの人は素晴らしい人間だと褒め称える。そんでそれは正しい。あっあれだ。原材料が何か不明な激安ハンバーガーでも、美味しいんだからそれでいいじゃんってことだ」


 なんとも分かりにくい。でもそれを聞いてなんとなく彼の言いたいことがわかった。

 私は今、添加物が使われてるだとか、農薬が使用されてるだとか言って、全ての食べ物を拒否している。もしパッケージに無添加だとか農薬未使用だとか書かれていたとしても、私はそれを信じない。商品を売るための賢しい作戦だと考える。そして結局何も食べない。 


 その行きつく先は、死――つまり孤独。


 しかし彼は、それは商品を売る上で仕方の無いことなのだから、それを食べるしか無いと言っているのだ。一度食べてみれば、それが目に見えて悪いものでは無いということが理解できるし、すぐにそれが当たり前で気にならなくなる。人はそうやって生きているのだから、そうでもしないといずれ私は死んでしまう。


「でも、それは食べ物の場合であって、人間には必ずしも当てはまらない。無添加って書かれた毒を食べてしまう時だってある」

「でもそんなことめったにないさ。それはたくさんの人間と付き合えばわかるようになってくる。だから手始めにさっきの男子はどうだって話だ」


 彼は大げさに扉の向こうをさして、肩をすくめた。洋画のくさい芝居を見ているようで面白い。


「……嫌。いきなり彼氏なんて作る気持ちの余裕は無いし、一人が好きだってのは本当だから。それに私、彼の顔、タイプじゃないの。私にだって選ぶ権利はあるわ」


 そう言うと、少し唖然とした後、彼は顔をしわくちゃにして笑いだした。


「それならしょーがない。世の中想いだけじゃ伝わらないこともあるわな」


 どうしようもないくらい最もな理由だった。人は中身だと言うけれど、それは一定の外見があって初めて問われることなのだ。


「……たは……って、くれないの?」


 私の口から、ついそんな勢いに任せた言葉が出る。


「ん? なんか言ったか?」

 しかし私の小さな言葉が聞き取れなくて、彼は怪訝な顔で聞き返してきた。私は自分の顔が、はっきりと熱くなっているのがわかった。身体を横に向ける。


「き、君はなってくれないの? 友達に」


 いきなり何を言っているんだ、私は。

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