第18話 強引な接触

 昼休み、誰もいない渡り廊下の真ん中で、遠くの空を見つめていた。

 昨日の大雨のせいだろうか。夏だというのに茹だる様な暑さは無く、渡り廊下には涼しい風が横切る。少し曇った空に、短いスカートだと少し寒いくらいだ。

 こんなところで何をしているかというと、空を見上げて自分の存在の小ささについて考えていた――なんてことではない。購買の人ごみが無くなるのを待っているのだ。昼休みになってすぐ行くと、大勢の生徒が蟻のようにいる。そんなところに行きたくないし、何より私が行くと周りを困らせる。

 じゃあ教室で時間を潰せばいいと思うのだろうが、教室で何も食べず、ただじっとしているのは何か気まずかった。

 ではお弁当を作ってくればいい。料理ができないわけではない。むしろ家では一人で何もすることがないため、料理を楽しむという趣味に目覚めたくらいだ。故に料理は得意である。

 初めは作って持ってきていた。しかしそれだと、お弁当を食べ終わった後の時間が耐えられなかったのだ。何もすることがない。教科書なんか好んで見るものでもないし、小説を持ってきて読んでもいいが、原則この学校は一切無駄なものを持ち込んではいけないことになっている。とはいっても、そんな校則など破るためにあるので、ほとんどの生徒が小説やら音楽プレイヤーやら携帯やらを持ち込んでいるわけだが、


 あいにく私は普通の生徒ではない。


 誰からも疎まれる存在なのだ。

 だから少しでも目立った行動をすると、ここぞとばかりに付け込まれる可能性がある。小説など持ち込んだ日には、それを理由に停学にでもされかねない。それは日本史の眼鏡の教師の態度を見れば、容易に想像できることだ。だからできるだけ目立ちたくない。そういった可能性は排除していきたい。私はそれくらいに人を信用してはいない。

 何も怒られることが怖いのでも、蔑まれることが辛いのでもない。

 ただできるだけ何もなく生きていきたいのだ。波風を立てたくない。波風がなければ、これ以上に心地良い場所などないのだから。

 故に時間を置いて人がいなくなった時に購買へと行くのが日課になっている。

 と、その時、渡り廊下に人が入ってくる気配を感じ、そちらのほうに目をやると、一人の男子生徒が歩いてきた。あの図体のでかい黒い髪は、皇子代黎だ。先日、日本史の教師や先輩に絡まれる私を助けた、偽善者。

 彼も私の存在に気づいたのか、おっと小さな声をあげた。私はすぐに目線を再び空へとやり、彼を視界から外した。

 ……。

 …………あれ。おかしい。

 彼の足音がしない。いや、自分の後ろの辺りまではしていたのだ。しかしその足音がそこから先へと進んでいない。ゆっくりと後ろを振り向く。

彼はそこに立っていた。

 進むでもなく、戻るでもなく、はっきりと、こっちを向いて立っていた。そしてその目線はしっかりと私の顔を捉えている。何の迷いもないその眼差しに、私は目を逸らしたくなったが、しかし何故彼は私を見ているのかという疑問の方が大きくてその目を離すことができなかった。するとその空気に耐えかねたのか、ゆっくりと彼が右手を胸の辺りまで上げ、ピンと親指を立ててこう言った。


「やっぱ、白だよな」


 下着を見られていた。

 確かにここは強い風が通る。そのおかげで、女子はスカートを手で押さえるなりなんなりしないと、大きく捲くれる。たまに女子がきゃあきゃあ言いながら、ここでたむろっているが、だったら場所を移せばいいのに、と思う。まあそれは女子なりに何か思うところがあるのだろう。

 ていうかこの人、堂々と見てました宣言をしやがった。なんだ、コソコソと見るぐらいなら、堂々としていた方が潔いとでも思ったのだろうか。武士か。

 何が悪い、それが男というものだ、とでも言わんばかりの彼の迷い無い顔に、私の方が気圧される。完全にこの状況の支配権は向こうが握ってしまった。私にできることといえば、向こうの出方を見ることぐらいか。


「いや、ほんとごめんなさい」


 すぐに普通に謝られた。

 そして皇子代黎は笑った。普段のしかめっ面からは想像もつかない笑顔。その笑顔は無邪気で、少し眩しかった。こういうのが本当の笑顔とでも言うのだろうか。

 とはいえ、所詮セクハラをしたあとの誤魔化し笑いなのだが。

 しかしそれでも彼の笑顔に、無理している、という言葉は当てはまらない。それくらい、自然な笑顔。本当に日常を楽しんでいるのだろう。それが伝わってくる。

 そんな毎日が送れたらどれだけ幸せだろうか――なんて考える。


「っ――」


 別にどうでもいい、とそう言いかけて、私はその言葉を飲んだ。

 危なかった。人間関係を絶つと願ったくせに、彼の空気にごまかされて、会話をするところだった。それはダメ。それは私の罰に反する。

 変に会話できる相手と思わせないように初めの一言でばっさりと関係を持つ可能性を断ち切っておかなければならない。それが今の私の処世術。おかげでここ数年で会話という会話をした記憶などもうない。基本的に向こうからの一方的な言葉に私が返事もしないことの繰り返し。したとしても、はい、いいえ、わかりません、すみません、それくらい。

 私はすぐに顔を外に向け、この関係の終了を示した。

 すると彼は私の横に来て同じように下を見る。


「何だ、購買にまだ人いっぱいいるな。さっさと消えちまえ。この蟻どもめ。その辺に転がってる蝉の死骸でも取って食ってればいいのに」


 この渡り廊下から見える購買部の人だかりを眺めて彼はそう言ったのだろう。

 しかし、なんて恐ろしいことを言うんだろうか。

 現在購買部に駆けつけている生徒たちはただ昼食を買いに来ているだけであり、彼らに悪意などがあるわけがない。そんな言葉を向けられる謂れは全くをもってないだろう。

 それにその言葉から察するに、自分も購買に行こうとしていたのだろうから、自分も所詮蟻の一匹なのだということになる。なら君は蝉を食えるのか。


「蝉か。ああいいな、蒼に蝉持ってって、そういう形のお菓子なんだって言えば食うな」

「――っ」


 びくり、としたが、それは私の心の声に応対したわけではなく、先の自分の発言に対してのものだろう。

 しかしやはり恐ろしいことを言う人である。こんな人にも友達がいるのかと思うと、自分の存在の虚しさがさらに増した。ただそういうことを言う人は、それはやはり最低な人なのだろうが、こうしてはっきりと特に悪気もなく言われると、そこまで悪い人には思えないのが不思議である。隠して陰口を叩くより、よっぽどマシ。

 でもそれは、彼の口調が、彼が本気でそうは思っていないのだろうと思わせているからだと、すぐに気付いた。あくまで冗談なのである。大して意図もなく、意思もなく喋った言葉。そんなところだろう。本気でそんなことを思っている人間がいれば、それはもう人の社会では生きてはいけない。そう、私のように。


「それにしてもあんたは怒ったりしないのか?」


 私への質問。

 答えない。私は何も話す気はない。


「そんな顔してて楽しいか? せっかくの学園生活なのに。もっと馬鹿になれよ。楽しいぞ」


 君に何がわかるの――と、そう言ってやりたかった。でもそれは私の罰に反する。だからそれにも返答できない。その言葉を無視した。

それにしてもこの人は私と同じで、購買部が空くまでここにいるつもりなのだろうか。


「無視ですか。つまんねえ奴。無視は嫌いだ……虫の方が嫌いだけどな」


 駄洒落を言いたかったのだろうか。横で「おおこれ今度使お」と言っているのを聞く限り、たまたま偶然思いついたのだろう。心の中で、それは使わない方がいいよ、と教えてあげた。


「ふん。甘いな。要は使いどこなんだよ。どんなくだらない駄洒落だって使う人、使う場所、使うタイミングでしっかり笑いは取れるんだよ」


 なんだ、その上からの意見は。お笑い界の重鎮の意見じゃないか。



 ――――――って、あれ? 今、会話――え?


 

 ほとんど反射的に私が振り向くと、彼は私に背を向け、そこから横目に一階の購買部を見下ろしながら、


「おっ。やっと空いてきた。んじゃま、またあとで。あっもう授業中に寝んなよな」


 そう言ってさっさと去っていってしまった。

 偶然? でもあれは、確かに私の心の言葉に対しての台詞だった。いや、私がそんなことを考えているのだろうと、予測して言ったのだろうか。あんなしょうもない駄洒落を聞かされたら誰だってそう思うし。


「……」


 去っていく彼の後姿を見つめる。

 何か、どっと疲れた。普段人との関係を避けているからだろうか。向こうからの一方的なものとはいえ、久しぶりに人間と向き合ってしまって、その消費エネルギーは予想以上のものだった。

 と、そこで思い出す。そうだ。私もお昼ご飯を買いに行かなければ。

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