第11話 目には目を。馬鹿にはバカを。
「遅いよ!」
黎が教室に戻ると、美登里がそう怒鳴った。
「悪いなぁとは思ってるよ。これでいいだろ?」
決して思ってもいなさそうなしかめ面でそう返し、購買のビニール袋を机の上にどかりと置いた。美登里の「しばくよ?」という言葉を無視し、 手際よく中から購入してきたものを取り出し各人の前に置く。自分には総菜パンを。2人にはコッペパンを2つずつ。
「そういえば、次の古典って、小テストだっけ?」
「待って。千載一遇のボケを何事もなかったかのように流すのはやめてくれないかな? せめて『結局コッペパンかよっ!』とかツッコませて」
もはや見飽きたコッペパンの姿に、美登里が悲鳴に似た声をあげた。
「悪いな。それしか残ってなかったんだ。許せ」
「黎ちゃんの手元にあるその総菜パンは何かな?」
「お前、俺にそんな味のしないすっかすかのパンを食えって言うのか?」
「その言葉そのまま返すよ!」
そんな二人のやり取りを気にも留めず、蒼海は与えられたパンを嬉しそうにもぐもぐとほおばっていた。その様子にどこか毒気が抜かれたのか、美登里はやれやれと自分の席に腰を落とした。
「そういえば、虹倉さんは?」
「知らねぇよ」
「……黎ちゃん? なんか嫌な事でもあった?」
「は? なんでだよ」
「なんでもないなら大丈夫だけど」
美登里はそう引き下がりつつ、訝し気な視線を黎に向ける。その後蒼海を見遣ると、彼も同じ印象を受けていたのか、珍しくまじめな顔つきで肩をすくめた。
その時、「ああ、いたいた」と、これみよがしな声が後ろから響いてきた。
聞き慣れない声に、黎がおもむろに教室の後ろを見ると、同じように戻ってきていた黄泉路の席の周りに二人組の男子生徒がたむろしていた。
知り合いか、と思ったが、黄泉路はその二人が来たのにも関わらず一瞥もくれてやることなく、じっと窓の外を睨みつけていた。
「なあいいだろ。ちょっと遊ぼうって言ってるだけじゃん」
黄泉路の席の横に立つ短髪のツンツン金髪頭が、ポケットに手を突っ込んでそう言った。
「こいつが言ってた女かよっ。うほっマジで可愛いじゃん!」
一方、黄泉路の席の前に立って、うほっ、とか阿呆みたいな声を上げたオールバックの男子は、窓枠に寄りかかってそう笑った。
しかしそんな風に話しかけられているのにも関わらず、黄泉路はそんな声など全く聞こえていないかのように反応しない。鋭い針のような目つきで、ずっと窓から空を見つめている。その表情には何も無い。教室で変な男子に話しかけられているというのに、鬱陶しそうですらない。
その顔には喜びも、怒りも、悲しみも、何もない。
まさに無表情。その様は、まるで自分とその他全てとの関わりを絶ち、ぽつんと孤独にその場にただ存在しているだけのような、そんな。周囲の光も音も空気もその全てが届いていない。それはそう、そこにいて、そこにいない――とでも言えばいいだろうか。
しかし実際にそんな状態があるわけではなく、もちろんその男子生徒らは黄泉路が無視をしているのだと考え、返答を待たず更に続けた。
「おい。聞いてんのかよ。お~い。聞こえてますかあ? ちっ。何だよ完無視かよお」
全く相手にされない事に諦めたのか、アホな男子生徒は黄泉路の顔の高さまで下ろしていた自分の顔を元の高さまで戻した。
「へぇ、噂通りめちゃくちゃクールじゃん。カッコいいよ本当――」
完全無視という失礼な黄泉路の態度を意にも介さず、短髪金髪がニヤニヤとそう言い、
「――さすが、人を二人も殺してる奴は違うな。心が凍り切ってる」
と、付け加えた。
わざと、教室全体に聞こえるように、大きな声で。夏場にも関わらず、ただでさえ冷め切っていた教室の空気が完全に凍りついたのがわかった。
黄泉路が人を殺した――そう短髪金髪が言った時、周囲の人間は驚きもせずただ顔を逸らし、状況を見るという拙い関係すら絶ったところを見ると、真偽はともかく、そういう噂がほとんどの人間に流れているのだろう。三彩希の言葉が、ある意味で通説であることを証明した。
しかしそんな噂が回るくらいなのだから、本当に殺していたら黄泉路はとっくの昔に捕まっているだろう。三年前に人を、しかも二人も殺したとして、こんな早くに一般社会に出られるとは思えない。今ここに普通の女子高生として存在しているのだから、彼女は、あくまで現在、殺人犯とはされていないのだろう。
今朝おそらくこのことで言葉を濁したであろう美登里を見ると、その目線に気付いたのか、美登里も黎を見て、そういうことなんだよ、と肩を竦めた。
それだけでは飽き足らず、更に中傷を続ける男子生徒の二人。
が、しかしもはや彼らの言葉も彼らの姿も、すぐに目に入ってこなくなった。
黎の目には、そう、黄泉路蜜だけが写っている。
――無表情。
まるで石膏像であるかのように、黄泉路は先ほどから動いてはいなかった。誇張でなく本当に全く。それは身体だけではなく、髪の毛も、顔の表情すらも先ほどから一ミリも動いていない。笑いも、怒りも、泣きもしない、その顔には不快感すらない。
――異常。
その光景は異常だった。
彼女の存在が本当に周囲と切り離されているわけがない。彼らの心無い言葉は確実に彼女に届いている。しかしじゃあそれだけの誹謗中傷の言葉を浴びせられて、人は何も感じないなんてことができるだろうか。否、普通はできるはずがない。それでもあそこまで頑なに無視を通すのは何故か。通せるのは何故か。
――強がり。
おそらく彼女はこういうことを言われるのは初めてではないのだろう。今までだって、何度も心無い人間に、心無い言葉を浴びせられてきたのだろう。そんなもの、容易に予想がつく。だから無視する。気にしない。そうすることが、一番楽だから。
もちろん初めは傷ついただろう。だがもう傷つくだけ傷ついた。彼女の心にこれ以上傷をつけるところなどない。だから、何を言われてもそれは彼女の心に届かない。そういうことだろうか。
「……ちっ」
黎がそう強く舌打ちをして席を立つと、
「黎ちゃん」
と、美登里が制止した。
「また揉め事起こす気じゃないよね?」
美登里が咎める視線で睨みつける。黎は逃げるように視線を逸らし、
「俺がそんな正義の味方に見えるか? あのゴミAとBに『大丈夫ですか? あなたたちはゴミですよ。すぐに焼却炉に向かってください』って伝えに行くだけだ」
「確かに正義の味方には見えないね。黎ちゃんは正義の味方というより、悪の敵って感じだしね」
「いいね、そのフレーズ。今度使わせてもらうわ」
「一回百円ね……というか、とりあえず先生呼んでこない?」
「先生が、あれを止めるかね」
殺人犯と中傷されている少女である。誰も否定しないところを見ると、それなりの理由はあるのだろう。それに教師が味方するとは思えない。それは先の日本史の教師を見ていたら明白だ。
「それは大丈夫でしょ。腐っても教師だから。どんな生徒であれそれに味方するのが仕事だよ。今時のモンスターペアレンツってのは怖いからね」
「そのペアレンツがあいつにはいないんだろ?」
そうだった、と失言に美登里も爽やかな顔のまま固まる。
「とにかく、こんなことでこっちが罰則くらってもバカバカしいでしょ? 特に黎ちゃんは退学リーチ掛かってるんだから」
「え、そうなのか!?」
知らなかったと黎がぎょっとする。
「ま、でもそん時はそん時だ。それはそれで楽しそうだし」
「ポジティブにもほどがあるよね。そこまで言うなら止めないよ。でも、どうする? 殴り合いは僕の好むところじゃないから、できれば避けたいんだけど」
「なんだよお前、やる気なのかよ」
「一応、唯一の常識人として模範的な行動を取るポーズくらいはとるよ。でも別に協力しないとは言ってない」
「なんだよそれ……でも確かに、真正面から喧嘩を仕掛けても、お前の言うとおりこっちが馬鹿みる結果になるからな。バカを見るのはあいつらだけでいい」
「そうだね。黎ちゃんの言う通りだ。バカを見るのは彼らだけでいい」
黎は蒼海の身体を引っ張り、ごにょごにょと耳打ちした。
「なるほどっ! さっすが黎! 頭いいなぁ! 行って来ます!」
蒼海は軍人のようにビシッと軽く敬礼したあと、意気揚々と敵地に向かっていく。
「行け、人間魚雷バカイテン!」
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