第4話 三馬鹿

いつもより遅く教室に入ったためか、教室は人が多く賑やかだった。


「黎! おっぱいようっ!」


 教室に入るとすぐ、黎が来るのを待っていたのだろう、一人の元気いっぱいの男子生徒がぴょんと横から飛び出てきて、進行方向を塞いだ。黎はそれを汚物を見るような目で見下ろし、無視して何も言わずに横に避けて進む。

 負けじと何度も、「おっぱいようっ!」と、飛び出てくるその男子生徒に対し、町ですれ違う人を避けるようにして淡々と進み、縦五列、横六列の席のちょうど真ん中、その後ろ側の席に着いた。


「友達を無視するなんて酷いなあ、れいちゃんは」


 と、その元気いっぱいの少年とは別の方向――黎の右斜め前の席に座る見目麗しい爽やかな男子生徒がそう言った。


「すみません。顔が良い人は性格が悪いって本当ですか?」

「開口一番に他人行儀な質問されたっ!?」

「しかも失礼だし!」と、顔に似合わず激しくツッコンで来た爽やかなその男子は呆れ気味にため息をついた。

「黎ちゃん。早く挨拶を返してあげれば? このままだとあおちゃん止まらないよ」

「なんだよ美登里みどり。お前はこの馬鹿の味方をするのか?」

「いや、ていうか蒼ちゃんの場合、他の誰かがフォローしてやらないと、全てを全て受け入れてしまうからね」

「生まれたての雛よりも純心だな」

「ていうかもう病気だ――ってうるさいよ蒼ちゃん!」


 蒼ちゃんこと蒼海おうみ清水きよみずの壊れた機械のような行動――おそらく本人は異常だとは思っていない。純粋に黎に返事してもらえるように頑張っていた――に耐えらなくなった衣笠きぬがさ美登里が蒼海を激しく静止した。


「黎~なんで無視するんだよぉ?」

「蒼、そういえば滝下たきした先生がお前のこと捜してたぞ。すぐ行った方がよくないか?」

「ぬ? もしかして昨日うちに掛かってきた『手違いでクラスの名簿を無くしてしまったから、クラスメイトの電話番号を教えて欲しい』っていう電話の件かな? 間違えて小学二年の時のクラスメイトのを教えちゃったから、困ってるのかも! ありがとう黎! 行って来るよっ!」


 そう適当な嘘を伝えると、蒼海はがたりと音を立てて立ち上がり教室を出て行った。もう間もなく朝のホームルームの時間ではあったがそんなことは気にしない。


「滝下なんて先生いたっけ」


 たまらず美登里がそう言葉を挟んだ。


「いないな」

「どこにどんな人間を誘いに行ったんだろ」

「わからんが、少なくともあいつ、かなり古い詐欺に引っかかってるな」

「あのバカにはつける薬もないね」


 美登里はそう言って肩をすくめる。


「それにしても始業ギリギリじゃん。何かあったの?」

「いや、校門の前で面倒なのに絡まれてな」

「面倒なの? 誰?」

「知らん。結局何の説明ももらえなかった」

「なにそれ」


 黎が今朝あったことを説明しようと口を開いたときだった。

 


 その時、教室全体の空気が一気に重くなったのを黎は感じ取った。



 何かと思って辺りを見渡すと、クラスメイトが皆、教室の後ろに目をやっているのに気がつく。といってもジッと見つめているというよりは、顔を向けず、目だけを向けたり戻したりしていて、何か見てはいけないものは恐る恐る見ている。

 黎が後ろを振り向くと一人の女子生徒が教室に入ってきたところだった。その女子生徒はそんな周囲の様子を気にすることもなく、空っぽの席の後ろ、窓際の一番後ろの席に座ってしまう。


「お」


 黎が声を漏らす。クラスメイトが全員、黎を見る。そんな目線を感じて、自分が何か不味いことをしてしまったのかと感じ、顔を前に向け直しその場をやり過ごした。


「どうしたの? 黎ちゃん」


 前の蒼海の席に座った美登里が少し声量を落として訊いてきた。


「いや、今朝川辺で見かけたパンツ――もとい、女子だなぁと思って。まさか同じクラスだとは思わなかったから」

「今確かにパンツって言ったよね……てか見た時気付かなかったの?」

「え? う~ん」

「……もうこのクラスになって結構経つでしょ。クラスメイトの顔くらい覚えようよ」

「覚えてるって」

「じゃああっちの端から名前言ってみてよ」


 そう言って美登里は教室の一番前の窓際の席を指した。そこには髪をおさげに縛った一人の女子生徒がいる。


「あれは五十嵐いがらしだろ?」

「いきなり違うね。あの人は咲長さくながさんだよ。ていうかうちのクラスに五十嵐はいないよ。そして、あれって言わない」


 一度にたくさんツッコまれてしまう。美登里はその爽やかな顔を少し歪ませ、あきれたように何度目かのため息を吐いた。


「まぁ、ただでさえ人の顔を覚えない黎ちゃんに加え、あの子、黄泉路さんはあまり目立つ行動をする子でもないからね」

「あー黄泉路よみじ……みつだっけ? その名前は覚えてる。名前のリズム的に似てるから」

「あまり人と関わらないから、仕方がないと言えば仕方がないかな」

「そうなのか。友達いないんだな」

「黎ちゃんもいないじゃん」

「わっ、ほんとだ」


 黎のノリの良さに美登里は微笑ましそうにふと笑い、


「本当に他人に興味ないよね、黎ちゃんって」

「あるって。殺人事件のニュースとか見るとその犯人の家族が、その後どんな人生送ってるのかとか知りたくなるし」

「とことんクソだよね、黎ちゃんって」


 美登里の遠慮ない罵りを気にも留めず、黎はもう一度その少女へと視線を向けた。 黄泉路蜜は何をするわけでもなく頬杖をつき、ジッと曇った窓の外を眺めていた。

彼女は、一言で言うなら、鋭い針のようだった。

 切れ長の眼をさらに細くし、窓の外を睨んでいる。線の細い顔立ちがさらにその鋭さを増している。顔は今朝見た時のように、楽しそうでも嬉しそうでもないが、だからといって不満そうでも不安そうでもない。笑っているわけでも怒っているわけでも泣いているわけでもない。


 何も、無い。


 人が持つ感情、その全てを表現していない。無理矢理言葉で表すのなら、無、だ。

 しかし逆に言えば、見方によってはどうとでも見える。そんな顔。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。さすがに笑っているようには見えないが、これだけ奇異の目で見られれば当然か。

 黄泉路はその長いストレートの髪をただ無造作に下ろしているわけではなく、肩からその髪を前に出しそれが胸の辺りまで届いている。左の前髪を耳に掛け、しかし全てを掛けるわけではなく、少しだけ前に残し、タラリと垂らしている。長い髪から曝しだされる左耳が彼女の持つ独特な妖艶さを演出している。

 が、黎にとってそんな瑣末な描写はどうでもよかった。ただ教室の隅に無表情で座る少女が、酷く哀しく感じられた。それは今朝、川岸に佇む彼女の後姿を見た時のように。洗練された、悲壮感ある一枚の絵画を見るように。その朝日に照らされる姿は、とてつもなくリアルな彫刻でも見ているかのような、そんな無機質さが、なんとも哀しい。


「ホームルームをはっじめっるよ~」


 黎にも負けない気だるそうな声で教室に入ってきた担任の教師、武村たけむら折鶴おりづるの声に、黎の意識は引き戻される。


「つまんねぇ顔」


 そう嘆息し、担任の声に耳を傾ける。担任は気のない声で生徒の名前をあいうえお順に呼び、出席を取っていく。


「蒼海~蒼海~休みか~?」


 その時、聞き覚えのある名前で担任の声が止まった。


「あ」


 つい、そう素っ頓狂な声を上げてしまう。見ると、黎の前の席は未だ空白であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る