第十話
凡そ半年ぶりに家の玄関に来て、どこか私は緊張していた。つい前までは随分と慣れ親しんだ家であったのに、今この門を通りあの退廃的な生活に踏み込むのかと思うとどんな顔をして入れば良いのか分からなかった。
この家のチャイムなど押したこともなかったが、とりあえず押してみることにした。すると警戒するようにゆっくりと玄関の扉が開いて、顔を現したのは母親だった。半年前より顔に皺が増えて、疲れが溜まっているのか、老けてみえた。
「ああ、ミー君? さしぶり」
「久しぶり。二日ほど泊まっていってもいい?」
「何やあ、偉い畏まってもうて。そんなんいつでも泊まりに来たらええのに。玲夢ちゃんも喜ぶわ」
「まあ翼の出所祝いもしてなかったしな」
「ああ……とりあえず寒いやろ。ええから中入り」
母親は一瞬表情を止まらせたような気もしたが、私を中に入れて、すぐに玲夢ちゃんを呼ぶように名を呼んだ。私は廊下を通る時、右側の子供部屋をチラッと見たが、誰も居なかった。ついで左側の方も見ようと思っていたが、扉が閉まっていて、気になったがとりあえずリビングの方で玲夢ちゃんのえ、ミー君きたん、ミー君どこという懐かしい元気な声が聞こえてきたのでそっちに向かった。
家は半年前に比べて全然変わっていなかった。茶テーブルの乱雑さやあちこちに脱ぎ捨てられた服や物が捨ててあって、唯一変わっていたのは、左側の子供部屋の扉がずっと閉まったままになっていることであった。
もうすぐ由愛も帰ってくると思うわと言って母親は私に麦茶を出してきて、客扱いをした。玲夢ちゃんは私に抱きついてきて、いつまで泊まっていくん、なあいつまでおるんと嬉しそうに跳ねた。少し玲夢ちゃんと戯れた後、一服していると由愛が帰ってきて、私の顔をじろじろと怪し気に見ながらニヤニヤとえ、キモい人おるんですけどと言って和室に逃げた。
「翼はいつ帰ってくるん? まだ仕事?」
「ああミー君、翼な……」
母親は何かに喉を詰まらせたような苦笑いをして、また捕まってんと言った。
「は? なんで」
「ほんまアホやろあの子」
「アホなんは知ってるけど、またなんで」
「歩いてたおばあちゃんの鞄ひったくって、怪我させてバイクで逃げて捕まってん」
自分でも信じられないほどの重い溜息が漏れた。本当に、本当にどうしようもない奴が世の中で稀にいるのは周知していたつもりだったが、それがまさに自分の唯一の友であるのだと分かって何と言い表せば良いのか、今私はどんな顔をしているのか、それが知りたくなくて煙草を何度もふかして誤魔化した。
「それいつのこと?」
「一か月くらい前」
確かに佑介兄ちゃんの一件もあって、それにこの頃はちょうど仕事のシーズンでもあったので連絡も碌にしていなかった。
「もしかして年少入った感じ?」
母親は静かに頷いて、ほんまアホ過ぎて笑えへんでと寂しそうに言った。私は煙を深く吐いて登っていく煙が黄色い天井を打つのを眺めて、微かに煙が壁を反発するように跳ね返ってきて、次にやってきた煙に飲まれるように合流していくのをじっと眺めていた。
私はその日の晩のうちにこの家を発つことを早々に決め、今、下宿先に戻る為の電車に揺られている。暗い夜はまだ曇っていて、街並みはぽつり、ぽつりと微かに光っていて玲夢ちゃんの悲しそうな顔を思い出して胸が痛かった。
何故私が颯爽と帰ることになったのか、大方の理由はこうである。翼の話を聞いて落胆していた私であったが、捕まってしまったのならまあそれは翼が悪いので仕方がないとして、今回帰省して一番気になっていたことを母親に尋ねたことにはじまった。
「佑介兄ちゃんはおるん?」
「おるよ。子供部屋で寝てるかもしれんわ」
「佑介兄ちゃんは最近仕事かなんかしてるん?」
「それがあんまり分からんねん」
「どういう意味」
「あの子カフェの仕事辞めてから暫く引き籠ってもうて、私らとも全然話そうとせんくてな。たまにリビング来ても用事なくなったらすぐ引っ込んでもうてな。この子もほんまアホやろ。自分で仕事辞めてミー君に悪い思ってるんやったら、まず連絡とって謝るなり、次の仕事探すなりしたらええのに。ほんまアホばっかで私も疲れてんねん」
母親が頭を抱える仕草を見せついで玲夢ちゃんがほんまアホばっかやでえと同じような真似をした。
私も何だか忘れていたものが蘇ってきたような気がして、席をたち、廊下を抜けて閉まっている扉の前に立った。中から音は聞こえず、私は一度ノックして佑介兄ちゃんおると尋ねた。返事はなく、入ることを告げて扉を開けると、まず暖房のぬるい風に異臭が纏って鼻をついてきた。部屋は遮光カーテンが締め切ってあって、真っ暗で何も見えなかった。だけど隅の方でスマホのバックライトが光っていて、ぼんやりとだが佑介兄ちゃんの瘦せこけた頬とぎょろっとした目が私を見ていた。佑介兄ちゃんは私を確かに見たはずなのだが、すぐに目を逸らし無視しながらスマホを見続けていた。
私はそんな姿を見て、つい頭に血が上っていく感覚に陥ったが、今ここで怒っても何も始まらないと冷静になってゆっくりと歩を中に進めた。
「佑介兄ちゃん。久しぶり。元気?」
佑介兄ちゃんは私を無視し続けた。近づいていくにつれて、多少暗さにも目が慣れた私は佑介兄ちゃんの隣に誰かがいることに気が付いた。だがその誰かは布団に包まっていて姿が確認出来ない。
「佑介兄ちゃん。久しぶり。聞こえてるやろ。まだ寝起きなん?」
それでも佑介兄ちゃんは私をいないものとして扱った。ぎょろっとした目は、確かに開いていて、スマホの画面一点だけを見つめ続けている。
その後も何度か声を掛けてみたが、一向に応じる様子もなかったので、それならと私は部屋の電気を勝手に付けてやった。相変わらず布団が床全部に広げられた汚い部屋で、食べ物や飲み物のゴミも山のように溜まっていた。異臭の正体はこれだった。
やはり佑介兄ちゃんは確かに起きていて、布団から覗いた上半身は何も着ておらず、浮き彫りになった鎖骨が目に付いた。
「佑介兄ちゃん。なんか喋りいや。なあ。別に怒ってないから。何をそんな気にしとん」
返事はなく、それではと流石に自分でも意地汚いと思ったが、隣で寝ている者の布団を一気にめくってやった。布団は剥がれ、着地して、付近に溜まっていたゴミの一部が跳ねた。
そこで私はしまったと思った。市販の薬品で適当に染めたのがすぐに分かる金髪の女が裸体のまま佑介兄ちゃんの方を向いて眠っていたのだ。だけど佑介兄ちゃんはそれにも微動だにせず、ただスマホを見続けていた。やがて女の方がもぞもぞと動き出して、しぼんだ目を私に向けてきた。
その女のことは知らなかったが、凡そ眉毛が見えず、女にとって化粧を剥がした時の寝起きで一番不細工な顔があるならきっと今のことを指すのだろうと思った。女はすっぽんぽんになった裸を晒して他人に見られていることにまだ気がついていないのか、何度も瞬きしたり目を擦ったりして私を見ようとしていた。
「誰……」
「昔この家に住んでた翼の友達で」
「待って」
「は」
「分かった……もしかして、ミー君?」
「……誰……ですか」
「やっぱり、分からないよね」
女は酒で焼けたような掠れた声を出して、賤しく笑った。それでも女は特に裸体を晒していることに恥じる様子もなかった。
「私、覚えてない? 加奈子」
「は」
私はその名を懐かしく思った。確かに彼女とは家を入れ替わるように出ていったことを思い出したけれど、私の記憶による加奈子なる女は、この様な破廉恥で下賤な輩ではなかったはずで、今やその面影すら感じ得ないほど別人に変わり果てていた。
それに加奈子は翼の彼女だったのではと根本的なとこでも引っ掛かったものの、先聞いた翼の近況と佑介兄ちゃんの零落ぶりを目の前にして、よもやその様な間違いが起こってしまったのかと理解はした。が、人は、半年もあれば此処まで十分に変身してしまえるものなのか。私の心に酷い穴を開けたような気がした。相変わらず佑介兄ちゃんはスマホを見続けている。私は奥歯が微かに震えているのを感じて噛み直した。
「変態、エッチ」と今更加奈子は嘘くさい演技で恥ずかし気に掛け布団を被りこっちを卑しい眼で見る。
何なのだ。この家は。一体、何のだ。私はこんな輩と一緒に屋根を共にしていたのか。怒りとも失望とも言えない何ともやるせない気持ちが湧き上がってきて私は部屋を出た。扉も絶対に閉めてやるもんかと思って、リビングに行き、用が出来たので帰るとだけ告げて、戸惑った様子の母親を後にした。
家を出てすぐに玲夢ちゃんの声が私を呼んだ。
「ミー君。どこ行くん」
憤った私であったが、その無邪気で悲し気な声に足を止めて振り返った。
「ちょっと帰ることなったわ」
「ええぇ。なんでえよ。せっかく来たばっかりやのに」
「ごめんな、玲夢ちゃん。学校行ってんのか?」
「行ってない」
「ほな玲夢ちゃんが学校行けるようになったらまた次来るから」
「ほんまにい」
「ほんま」
「ほんまのほんまあ」
「ほんまのほんまや」
「ぜったい。ぜったいやで。ぜったい玲夢が学校行ったらもう一回、うちくるんやでえ」
私は黙って親指を立ててみせた。玲夢ちゃんもそれを真似してみせた。私は背中を向けて歩き出した。廊下の曲がり角で見えなくなる場所で振り返ってまだそこに玲夢ちゃんがいてじっと寂しそうに私を見つめていた。玲夢ちゃんが見えなくなって、私はこみ上げてくるように胸が熱くなって、すぐにそれが歩く度に冷えていくのを感じた。
きっと玲夢ちゃんはこの先も小学校には行けないだろう。この家に居続けるというのは、つまりそういう事なのだ。それに玲夢ちゃんはまだ低学年で、墓場の穴から抜け出す力と見識を持ち合わせることもないし今後身に付けるすべも限りなく少ない。
それがただただ哀れに思えてきて可哀想で仕方なくて、自分がベランダで犯してしまった自己的な正義が酷く間違ったものだと思わされて静かに涙が流れた。
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