第九話
翼が捕まって二週間が過ぎた。特に家の中では何事もなく日常生活に変化はなかった。だけど私は、どうして今この家に居候しているのだろうと疑問を抱くようになっていた。もうすぐここに来て一年が経とうとしている。私の親は決して捜索願を出すような人ではないので、今まで強制帰還されるようなケースもなくここまでやってこられた。それもみんな私のような者を受け入れてくれたこの家のお陰であることは間違いのない事実で、本当に頭が上がらない思いだ。
今回翼が逮捕されてこの家から一時的ではあるが居なくなって、けれど私は毎日働きもせずに当たり前のようにここにいて、本当にその様なことがこれからも許されてしまってよいのだろうかと考えることが増えた。これは以前に起きた父親の件の時には思わなかった考だった。だが冷静になって、許されるわけが何処にあるのかと思うようになり、それもこれも先日から家に訪れた加奈子が学校に通い、働きながら、ついに住むことになったからかもしれない。加奈子はここに来てからまず母親に今は少なくて申し訳ないですが次のお給料が入ったらもう少しは入れますのでと言って、茶テーブルに白い封筒を置いて頭を下げた。母親が封を切って二万円が入っていたので、こんなんええからと断ったが、加奈子も加奈子で、いいえお母さん、それは受け取ってくれなければ困りますと断りの一切を受け付けない様子で、母親も溜息をついて、ほなもう一枚は自分の為に持っときと加奈子の手に一万円札を押し付けた。
私が思いつめたように茶テーブルに掛けて煙草をふかしていたら、佑介兄ちゃんがやってきて話しかけてきた。
「煙草買いに行くけど、ミー君も一緒に行くか?」
私は頷いて、後をついて行くことにした。外は蒸し暑かったが、微かに風が吹いていて、丸い月が眩しい夜だった。
そういえばこの時間に佑介兄ちゃんがいることに疑問を感じて、仕事の有無を確認した。佑介兄ちゃんは仕事なんかなんぼでもあるとだけ言って、夜を見ながら私の前を歩いていた。確かに佑介兄ちゃんには以前からよく仕事を休むきらいがあった。元より貧血もちのせいか、夜の仕事のせいなのかは知らないが偶に死んだように子供部屋の隅でスマホをいじって何も食べないで過ごしていることを見かけることはあった。
「ミー君って将来なんかしたいこととかないん?」
「あったらもう既に何かしらはやってるわな」
「それもそうか」
「佑介兄ちゃんはなんかしたいこととかあるん?」
「あるで」
「そうなんや。なに」
「結構シャレた感じのカフェとかやりたいねんよな」
「カフェ?」
「料理も結構本格的でな」
「はあ。またなんで」
「なんか楽しそうやん」
「まあそうかもしれんけど。じゃあ次はカフェで働くん?」
「さあ。どうしよかな。いや、それめっちゃええやん。ミー君料理とか覚えてえや。ほんで一緒に店やろうや」
「はあ。マジで言うてるん」
「マジマジ。面白そうやん。俺がオーナーやるから。経営は任せて」
いつになく楽しそうに喋る佑介兄ちゃんを見て、もしや最初からこの話をする為に私を誘ったのではあるまいかと思い始めた。だけど今まで何もしてこなかった私にとって、何か一縷の希望を見たような気もしてきて、悪い話ではないように思えた。
私はさっそく、飲食店での求人情報に目を通し始め、佑介兄ちゃんはカフェや喫茶店などを中心に調べ始めた。互いの未来構想を話していくうちに胸が熱くなるような感覚で一杯になった。こうして凡その計画は決まった。まずは互いに必要なのは、経験、知識、資金だった。それぞれに於いて人脈や技術なども必要であったが、まずは働いて、一つずつ身につけていこうというものだった。そうした期間を取り敢えず三年設けることにし、途中経過を都度報告しあって、今後の予定をより詳細なものにしていこうと約束をした。
あれからすぐに灘の方で、イタリアンレストランで住み込みの職を決めた私は、まだ翼が出所してくる前に家を出ることを決めた。母親に頭を下げ、必ず佑介兄ちゃんと一緒に成功してみせると豪語してみせた。
玲夢ちゃんには随分と寂しがられたが、今度来た時には、上手い飯を食わせてやるから、それまでに玲夢ちゃんも小学校に通うようにと約束した。家の者達はそんな私を快く見送ってくれた。
私は翼に宜しくを残して、一年ぶりに、家を出た。
家を出てから、三ヶ月ばかりの月日が流れた。風もすっかり冷えてきて、レストラン前の掃き掃除をしていると落ち葉も段々増えてきた。
初めは右も左も分からず、よく店主に迷惑を掛けたりもしたが、何とかそれなりにやっている。まだまだ雑用が多く、皿洗いが私の主な仕事で時には先輩にも怒られて気が参りそうになる時もあったが、そういう時は同じようにカフェで働き出した佑介兄ちゃんに連絡して、気持ちを明るく前向きな方へと保っていた。
だけど一週間前くらいから少し様子がおかしくなってきた。私は休憩時間を使って何度も佑介兄ちゃんに連絡をしていたのだが、一向に返事がなく、由愛に電話をしてみたら、どうやら佑介兄ちゃんは仕事を少し前に一度だけ休んだことがあって、その日はいつものよくある日だと思っていたものの、次の日も同じようにして休んだらしい。今回は流石に私とのこともあるので、まさかとは思いつつ母親も心配していたらまた次の日も休んで、その日以降、仕事にはすっかり行かなかくなって、家族の誰にもその理由を深く話そうともせず、一人で部屋の隅に籠り続けているらしい。で、そうした経緯から私には連絡しずらいのだろうと由愛は言っていて、自分たちとしてもそれを佑介兄ちゃんの口から私に告げさせる方が良いのか迷っていた次第であったと言う。
私は分かったと言って電話を切って、その日は仕事に戻ったが、何とも身の締まらない日だった。その後も佑介兄ちゃんに連絡を続けたが、やはり佑介兄ちゃんからの返事は一向になかった。
年末になって、店が落ち着いてくる次第を見計らって、私は店主に二日間の休みを貰い、久しぶりに翼の出所祝いも兼ねて家に顔を出そうと電車に揺られていた。灰色の空と殺風景な街並みをぼんやりと見ながら私は佑介兄ちゃんのことを考えていた。
由愛から真実を聞いた数日の間は、沸々と湧いてくるものがあったのは本当で、しかもそれがたったの三ヶ月も持たなかったとなると余計に腹立たしく、雑用として扱き使われる日々が何であったのかと次第に馬鹿らしくもあって、情けなくもなっていった。
私たちの決意や希望は何だったのか。楽しそうに未来を見ていたあの瞳は何であったのか。
だがこうして電車に揺られていても、今は不思議とそういった感覚には襲われず、寧ろゆっくりと話がしてみたい。そんな穏やかな気持ちでもあった。
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