第八話


 また冷房が止まることを知らない季節がやってきて、蝉がいよいよ本腰を入れるように喧しく鳴き出した頃の朝に翼が捕まった。その日は私と玲夢ちゃんと母親と由愛がリビングで各々ダラダラとしているだけの至って代わり映えのない日だった。テレビからは早朝のニュースが垂れ流されていて、誰も画面を見ることはせず音の一つとして存在していた。

 母親と由愛は、茶テーブルで煙草を吸ったりスマホをいじったり偶に話したりしていて、私と玲夢ちゃんは床で人生ゲームをして遊んでいた。ニュースの左上に表示された時間が六時になろうとしていて、もうすぐ翼や兼続君たちが仕事の為に目覚めてくる時間だと皆が何となく察知していた頃に父親の一件以来ぶりにチャイム音が鳴った。

 玲夢ちゃん以外の我々は、その異常さに一瞬無言で顔を見合わせた。特に母親の顔に緊張が走るのがすぐに分かった。数秒の沈黙があって再度チャイム音が鳴った。

 誰やろか、と母親が呟いて席を立とうとした辺りに玄関の方から男の声が聞こえた。母親は扉を開け放したまま廊下に出て、一度除き穴に目を通し、床に寝転んでいた私に向かって口パクで二度『ケ・イ・サ・ツ』と言った。私はそれに対して眉をひそめた。もしかすれば私が父親を突き落した件が今頃になって露顕して、その為に私を迎えにきたのではあるまいか。私は瞬時に身を起こし、玄関から私が見えないように、扉を半身に覗き込むような姿勢をとった。

「由愛ポリ来たって」

「うそ、なんで」

「しらん」

「どないしたん」

「玲夢ちゃん由愛の隣おって」

「うん。どないしたん由愛お姉ちゃん」

「警察来てんて。こわあ」

「こわぁ」

 母親は玄関扉を開けると、そこに三、四人の警察官が何やら話して、白い紙を見せて再度話していた。私はそれが逮捕状なのだと認識したらいよいよ心臓が強く鳴りはじめて、口内がやたらと乾いてきた。

 母親は警察官たちを背にして、そのまま子供部屋へと入って行った。その間、私は玄関で待ち受けている正義感溢れる強面の中年警察官の一人と目が合った気がしてすぐに首をひっこめた。何が起こっているのか未だ分からなかったが、どうやら私を捕まえにきたわけではなさそうで、では誰に用があって来たのだろうと模索している間に寝起きで機嫌の悪そうな人相をした翼が金髪坊主頭を掻きむしりながら出て来た。母親はその後を心配そうに様子でつけてきた。翼と警察官の一人が再度白い紙を見せながら話して、それをさも当然のように翼は受け入れるように軽く頷き、一度子供部屋に入って行った。私はその一部始終を眼に焼き付けるようにしていたら足元に小さな手が引っ付き、細くてふにふにの玲夢ちゃんが縋り付いてきた。次に私の背中に大きな手が添えられて、柔らかな身体を押し付けるように由愛が寄り添ってきた。

「え、翼兄ちゃん何かしたん」

「つばさ兄ちゃんつかまるん」

「分からへん」

 すぐにTシャツと短パンに着替えて部屋から出てきた翼は、煙草を口に銜えていた。玄関にいる警察官と一言話した後、翼は面倒くさそうに煙を吐きながら一度リビングへとやって来た。そのまま茶テーブルに腰掛け、悪い、暫く帰って来れんかもしれんとだけ言い残し灰皿の煙草山に煙草を突っ込んで、私たちに寂しそうな苦笑いを残してリビングを一分も経たぬうちに出ていった。それは余りにも突然のことで、連行されて行った翼の背中を呆然と眺めていた母親を見ていた私は、その大きくて茶色い瞳にきっと父親の姿を重ねているのではあるまいかと思えるほど疲れ垂れていた。


 九日程の時が経って逮捕された翼は、鑑別所に収容されたとのことを母親から聞いた。そして今、逮捕された正確な経緯を私と母親の前で語っているのは、目を腫らして涙ぐむ加奈子だった。その経緯がまあ何ともしょうもないと言ってしまえるほどのものであった。二人は三ノ宮まで飲みに行った帰り、翼が酔っぱらって言うことを聞かずに終電を逃してしまい、かと言って二人はタクシー代を賄う金もなくて、仕方なく神戸方面へと徒歩で向かっていたのだが、突然、翼がお前はそこで大人しく待っとけと怒鳴りつけ、アパートの駐輪場に駆け込み、数分間の間に鍵も掛かってないはずのバイクにエンジンを掛けてやってきたという。まだここまではよかったのだが、運の悪いことにバイクの持ち主である四十くらいの禿げたおっさんが突然降りてきて俺のバイクに何してくれとんじゃクソガキと吠えて追いかけてきて、翼は加奈子を急いでケツに乗せて走り出した。そしてここからが本当にドジというか仕方ないというのかおっさんは瞬時にスマホを取り出して動画撮影をしてそれを警察署に届け、各主要交差点の防犯カメラにもしっかりと二人乗りをした若者が映っていてそれがおっさんの動画と一致して川で捨てられた原付バイクもあっさりと見つけられて、ハンドルから採取された指紋も翼と完全一致したとかで即刻逮捕に繋がった。翼は中学三年の時にも一度傷害罪で逮捕されて鑑別所に収容されていた過去があるので、今回は少年院の可能性もあったが、何とか鑑別所止まりで済み、加奈子に至っては、非行歴も真っ白で逮捕されることはなかったらしいが、警察署に定期的に通う羽目になったらしい。

 だが彼女は翼を止めなかったことや、自分だけが逮捕されなかったことにどうやら呵責を感じているらしく、更にそのせいで両親との関係を悪くし、これならいっそ私も逮捕されるべきだったと嘆いていた。母親は加奈子に対し、翼が迷惑をお掛けして申し訳ない。金輪際、息子とは関わらなくても大丈夫だから、それに加奈子ちゃんが責任を感じる必要は何処にもなく、悪いのは酒に酔っぱらって加奈子ちゃんを振り回して巻き込んだ馬鹿息子の方であるから、責任を感じるのは私や息子の方であって、決して加奈子ちゃんが悪いのではない。それよりもどうかご家族との関係改善を優先して欲しいと述べた。加奈子は涙をぽたぽたと落とし、そんなことを言わないで下さいお母さん。罪は私にもちゃんとあります。それに私は翼が好きで一緒にいたのです。どうかそんな金輪際関わらなくても大丈夫なんて悲しいこと言わないで下さいと言って母親もまた加奈子の生真面目さに目尻を親指で擦り鼻を真っ赤に染めていた。

 私は私で、翼が犯した罪の罰に異議はなく、加奈子だけが捕まらなかったことにも対しても特に不当な結果とも思わなかった。むしろ事情を理解して少し安心したくらいだったので、煙草をゆっくりと吸って、ゆっくりと吐き出しながら黄色い天井を眺めていた。

 だがそこで加奈子は、強い眼差しを持って予想外の提案を口にし始めて、母親と私は驚いたように彼女を見た。

「いや別にうちはいつでも来たい時に来てくれて構わへんねんけどな、それよりご両親が心配しはると思うねん」

「二週間後に家庭裁判所でちゃんとした結果が出るので、そのあと家を出ます」

「うん。うん。それは分かんねんけどな、加奈子ちゃんは今フリーターやっけ」

「通信学校に通いながら働いてます」

「ほな学校は行った方がええやろし、それにな、こんなんおばさんから言われるのも癪かもしらんけど加奈子ちゃんは、翼と付き合うほど安い女でもないと思うねん」

「……お母さんは私と翼が付き合ってることに反対だったんですか」

「いや別に反対とかじゃなくてな、翼には勿体ない子やとは思っててん。な、ミー君もそう思うやろ」

 母親は急に私にも何か言ってくれと言わんばかりに苦笑いを向けてきた。

「えっとまあ、翼のお母さんが言ってることも分かる」

「はあ」

「翼は見ての通り酒癖も悪いし、短期な所があったり、良いところもあるけどその分悪い所も多い。それは加奈子ちゃんも付き合っていく上で分かってきたやろうし、それに今だってこうして面倒くさいことなってもうてる。こんなこと直接本人に向かって言うのも何やけど加奈子ちゃんは、俺らとは真逆の人やろう」

「真逆?」

「俺らは基本学校行かへんのも当たり前の奴らばっかりやし、でも加奈子ちゃんは違うやろ」

「そんなの付き合うことに関係ありますか」

「いや、ないな」

「それやったら」

 そこで和室から眠そうに出て来たタンクトップ姿の佑介兄ちゃんが、別に好きにさしたったらええんとちゃう。とだけ言い残して廊下を抜けてトイレへと入って行った。暫く誰も喋らずに私と母親は煙草を吸って沈黙していて、加奈子もテーブルの上に置いたあった社会の教科書の表紙をひたすら見つめていた。

「分かった。ごめんな加奈子ちゃん色々辛いこと言ってしもうて。私も翼と付き合うことに関しては何も言わんことにする。でも家を出るのだけはよおく考えてからにしいな」

 加奈子はありがとうございますと言って頭を下げた。その間ぽたぽたと涙がテーブルを打って、小さな溜まりを作っていることに気付いたが、私はどうしてそこまでしてやれるのか彼女の感情を深く理解することは出来なかった。

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