第七話
「玲夢ちゃん。ミー君。起きて! 今日から小学校行くんやろ!」
翼のお母さんの声で目を覚ました。はっとしてデジタル時計を見たら9:34と表示されていた。一瞬焦ったが、すぐに安心した。
カーテンの隙間から白い光が漏れていて懐かしい感じだった。私はカーテンを開けて、窓を開けた。網戸から冷たい自然の匂いが流れてきて、まだ眠っている玲夢ちゃんを優しく揺すった。
「玲夢ちゃん。起きや」
「ねむぅ」
「朝やで。学校行くんやろ。遅刻すんで。朝ご飯食パンでいい」
「うむ」
私は和室を先に出て、食パンを二枚、オーブントースターで焼いた。期限切れかもしれないマーガリンとジャムを塗って、オレンジジュースを用意してリビングに持って行っても玲夢ちゃんはまだ起きて来なかった。
「玲夢ちゃん何してんの。はよ起きや」
玲夢ちゃんはタオルケットを頭から被って返事がなかったので、近くまで寄って揺すってみた。
「玲夢ちゃん。学校行かへんの。パン出来てんで」
「玲夢学校行かへん」
「はあ。なんで」
「行きたくないねん」
「なんで」
「めんどくさい」
「ビビッてるだけやろ」
「ちゃうし。ちょっとしんどいだけやから」
「ほな治ったら行くんか?」
「……行く」
「今日は行かへんの」
「うん」
「明日はちゃんと行く?」
「うん」
私は和室を抜けて食パンを二枚食べて、オレンジジュースを二杯飲んだ。朝のニュースをしっかりと見た。日本人宇宙飛行士が国際宇宙ステーションISSで長期滞在をして、日本人記録を更新したらしかった。宇宙に行く体験を私は知らないのでそれがどれ程までに大変なことであるか理解出来なかったが、私も何かを頑張りたいなと思った。それは随分と久しぶりな感覚だったかもしれない。
翼のお母さんは兼続君と翼のお弁当を作って、和室に入って行った。
次の日、玲夢ちゃんは学校に行かなかった。そしてまた次の日もさらに次の日も学校には行かなかった。私も少しだけ腹を立てたが、元々他人がそこまでムキになっても仕方がないし、資格もないと思って特にそのことについて考えることなく日々を過ごすことにした。いつの間にか私の中にあった宇宙も消えていた。
六月の中旬になって、雨がよく降って、翼や兼続君たち現場組の休みが増えた。それに伴って家に集まってくる人びとも増えた。翼は頻繁に同級生か後輩か先輩かの誰かしらを呼びつけ、一週のうちの五日は宴会になりつつあって、それには翼の酒癖が要因の一つとしてあった。
私たちの周りに集まってくる者達は、だいたいの者が中学になって酒の味を覚える。それでも大抵の者は中毒になるほどのものではなく、単に年頃の背伸びや祝いの場での付属品のような扱いであった。
だが労働を覚えた者の中には、また先輩たちに仕込まれてか、酒の味を知りはじめる者もいた。その一人が翼であった。ただ、普通の酒好きならばそれまでなので、放っておいてもよいのだが、翼は特に酒が好きで仕方ないというわけではなく、ただ飲まないとやってられないといった風で酒を舐めるので、いつもあまり上手くなさそうに飲む。ロング缶を開けたらまた次の一本を開けて飲む。開ける。飲む。また開ける。飲む、を機械のように繰り返すので、自分で酒量を調節することを知らず、おまけに酒癖が悪化するにつれて父親に似てきていたので、母親は日に日に翼の様子を見て嫌な顔をしはじめていた。
そんな折に翼は彼女を家に連れてきた。私も知らない女で特に興味もなかったが、翼がどうしても私を紹介したいというので、酒の席を共にすることとなった。
私は翼と女と対面するように茶テーブルに腰掛けた。女は加奈子と言った。やはり知らない女だった。事情を聞くとどうやら九州の方から最近越してきたらしく、居酒屋でアルバイトをしていたら翼にナンパされて勢いでそうなったらしかった。
私は居酒屋で働きに行った女が客に声を掛けられて、成り行きでそうなってしまう意味がよく理解出来なかった。だが私は無職で居候者なので二人よりは、何も頑張っていない自信はあったので適当に突っ込んだり、二人の関係にちょっかいを出した所で最後はニートに会話が落ちることを覚えていたので、適当に話を合わせておくことにした。
「ミー君とはな、小学校からの付き合いやねん」
「へぇ。そうなんですね」
「はあ」
「しかも今はこの家に住んでる」
「へぇ。なんかそういうの羨ましいです。私小さい頃から引っ越してばっかりだったので」
「はあ」
加奈子は至って普通の容姿であった。髪も黒で麗しく、化粧も派手さはなく清楚で、服装もジーンズにシャツと派手さもなければ、貧乏っぽくもなく、肌の露出も少ない。それはこの家に集まる者としては異端で、加奈子の振る舞いや仕草一つ一つがその象徴を現していた。煙草も吸わないらしく、だが酒は強かった。翼がだらだらと思い出話を加奈子に聞かせているうちに、いつの間にか由愛が参戦し、酒量も自然と増えて、翼は勝手に潰れた。
加奈子は存外平気な風で頬一つ染めやらぬ状態で翼の背中をさすっていた。私も多少飲んで、良い塩梅に酩酊しつつあったので、そろそろ和室にでも引き返そうかと思っていたら由愛と加奈子に引き止められた。二人はまだ飲み足らないらしく、主に由愛が買い足しに行こうと強くせがんできたので仕方なく付き合うことにした。
三人で夜道を歩くのは、変な感じだった。由愛が男の愚痴を加奈子に聞いてもらい、時々私にも話を振ってくれたりもしたが、そもそも私は生まれてから彼女すら出来たことがなかったので、あまりよく分からないと言うと二人は驚いたような、馬鹿にしたような声を上げた。
帰ってきてからも二人から私への質問は、留まることを知らず、はてどうして彼女を作らないのか、もしやまだ童貞なのか、女に告白したことはあるのか、はたまたされたことはあるのかなどを聞いて、私が適当に答えるとまた勝手に二人で盛り上がっていた。兄の彼女とその妹が仲良くなるのは随分と結構なことであると思うが、私はそろそろ眠りたかったので、トイレに行くふりをして逃げるように子供部屋へ向かった。
ようやく一息つけた所で、視界が狭くなっていくのを感じて電気を消した。窓側に寝返り、もう少しで落ちそうな時、誰かがそっと子供部屋に入ってきて、私に近づいてくる気配がした。
この家では誰がどこで眠るかは日によって変わるので、私は特に意識することなく眠りに身を任せるままにしていた。だけど気配はより近くなって、私に寄り添うように纏わってきて、やがて肩から背中辺りにかけて柔らかな圧を感じるようになった。そこで私はそれが女の胸なのだと知覚した。だが私にはそれが単に当たってしまっているだけなのか、故意に押しつけているのかの判別がついに出来なかった。
私は困惑し身体が硬直したままでいたら、耳元で微かな吐息が触れて次に頬へと柔らかな感触が伝わった。生温い肉の感触は三秒ほどで離れ、次第に気配も離れていった。だが暫くしても肉の感触は私の身体を離れず、今もそこにあるような感覚に陥らせた。お陰で私は目が覚めてしまい、暫く寝返りを打たず、そうしていた。のちに自然な寝返りを打ってちらと部屋を見渡してみた。
誰一人、居なかった。はたしてさきのは何だったのか。幻想ならまだしも良かったのだが、明らかに身をもってした体験にどのような処理を施せばよいかが分からなかった。
心には感じたことのない芽が生えているような気がして、でもそれが悪いものには感じれなくて、股間が今までにないほど興奮しているのだけが嬉しくもあり、少しだけ切なくもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます