最終話


 また半年が経って、私は夜逃げをした。仕事を逃げ出したのだ。理由は簡単なものだった。一年経っても雑用や皿洗いの日々が続いてただそれに耐えられなかっただけだ。

 地元には戻ってきたものの、碌に計画も立てず仕舞いだったので、行く当てもなく、自然と足は玲夢ちゃんの住む家に向かっていた。年末に来て以来、家の者とは、誰とも連絡をとっていなかったし、とりたくもなかった。

 夜逃げをして、途中母親に一報でも入れようかと迷ったものの、どこか情けなくもあってついに家の前に来るまで出来なかった。

 年末の時とは違った緊張が迫ってきて、玄関のチャイムを押した。だが反応はなく、もう一度押してみたものの誰も出て来ることはなかった。もしや寝ているのかもしれないと思って、把手を捻ってから驚いた。鍵が掛かっていたのだ。

 私が知っている限り、父親の件のようなことがない限りこの家に鍵が掛かることはない。私はあらゆる事態を想定した。また父親が近づいてきた可能性や、父親が家に帰ってきてしまってまた昔のような日々に戻ったのか、或いは父親とは関係なく鍵を掛けることを単純に覚えたのか。そこまで考えて私はもう一つの事態が頭を過った。

 引っ越ししたのか。もう一度チャイムを鳴らしてみたが何もなかった。子供部屋の方の窓を見ても外からは何も分からず、人が動く気配はしなかった。まだ眠っている可能性や、皆で出掛けている可能性も考慮し、一度母親に電話を掛けてみることにした。

 だがこの電話番号は只今使われていないとのことで、由愛や佑介兄ちゃんにも掛けたが全く同じ反応が帰ってきた。まだ出所していないだろうと思いつつも駄目もとで翼に掛けてみたら電源が入ってないか電波の届かないといった一人だけ違った反応が帰ってきた。

 同級生や後輩たち、後は佑介兄ちゃんの連れ周りなどにも繋がるだけ連絡してみて知っているかどうか聞いて回ったが、誰も知らない、二ヶ月前くらいに急に誰も連絡がとれなくなったと言っていた。

 暫く玄関前の壁にもたれかかって、どうしたものかとぼんやりしていた。というよりどうして私はまたここに来てしまったのだろうか。年末に最後来た時の私は、玲夢ちゃんとあのような約束はしたものの、きっともうここには二度と足を運ぶことはないだろうと思っていたはずだ。佑介兄ちゃんとの約束はついに叶うことはなかったけれど、自分は料理の道で何とかやっていくのだろうと密かに思っていたはずなのだ。

 だが実際に今私は仕事から逃げてまたここに来れば何とかなるかもしれないと心の何処かでこの家を頼りにしていたことの弱さに気づいて、翼のことを本当にどうしようもない奴だと決めつけていたけれど、私の方も大して変わっていないのではないのかと思えてきて絶望的な底にいるような気がした。

 ふと玲夢ちゃんの顔が浮かんできて、最後に親指を立てていたのもこの辺だったことを思い出した。

「玲夢ちゃん、どうしてるんやろか……」

 そこで私は皆が本当に引っ越ししてしまったのか、ちゃんとこの目で確認する手段があることもついでに思い出された。だがそこまでして確かにいないことが分かって、私に何の得があるのだろうかとも思ったが、それでも私は縋る思いが捨てられず、ついに実行することにした。

 緩い坂を下り地下の方へ回った。ゴミステーションや駐車場があって近くに排水管が高く屋上まで伸びているのを見上げるように眺めていた。時刻は昼の三時を迎えて日が団地全体を緩やかに照らしていた。

 唾を呑んで、手を太い排水管に掛け足を壁の隙間に挟んで、一気によじ登って行った。やがて一階のベランダに到達し窓を見て驚いた。カーテンがなく、リビングには本当に何もかもがなくなっていた。傷んだフローリングや黄色い壁も綺麗に張り替えられていて、ここがあの家だとは信じられなかった。ベランダの溝に溜まっている髪の毛だけは、あの時のままだった。それから一分間くらい何もない部屋を見て、この家で過ごした日々が走馬灯のように脳裡に懐かしく駆け巡ってきて、薄っすらと哀愁すら感じていた。

 このままずっとここにいては、いつ近隣の住民に不審者扱いされても仕方ないと思った時であった。下から野太い声が聞こえてきた。

「おおい! ワレェ! 泥棒か? 誰や? その家に何か用でもあんのかい?」

 私は焦って下を向いて、それがあの父親の顔にそっくりそのままだったことに心臓が縮こまった。何故ここに父親がいるのか。そのことを必死に考えてみたものの、何も思いつかなかった。それよりもこの事態どう切り抜けるか考えることに集中しようとした。

「聞いてのか? おお? おう、我や! ぼけぇ! 我に言ってんねんど! え、はよお、降りてこい!」

 父親の声は存外大きく、近隣の住民がちらほらと私を見て、指を指しはじめたりしていた。

 私は取り敢えずこの排水管にぶらりとたれて、さがったままでの状況から抜け出す方法をとうとう突き止めることは出来ず、ゆっくりと降りていくことにした。

 その際も父親は喧しく、今すぐにでも私を問い詰めてやろうという気が存分に伝わってきて、排水管を握る手汗が尋常じゃないものになってきた。父親は小学生の時に一度だけ合っているが、流石に気付いている様子もなかった。きっと私の存在すらもう記憶にはないのだろう。

 まだ高さが二メートル以上もあるかと思われる段階で身体を支える足が震えてきて、手汗も相まって身に危機を感じた。

 下を向いた。

 鬼のような形相が両手を大きく動かして、さあこい、さあこいと私を待ち構えていた。もう私は頭が真っ白になって自然と排水管から手足を全部放していた。

 何やら自分でも分からない気持ち悪い叫び声で父親目掛けて落ちていった。父親はあまりのことで驚いて落ちてくる私をただ見ていることしか出来ず、そのまま私の飛び蹴りを身体に貰い、私たちは重なるようにして倒れた。

 右足に強い衝撃を受けて、折れたなとすぐに直感した。そこからの私は尋常じゃない程の早さで立ち上がり、倒れている父親を見た。無精ひげが生えた強面はじっと目を瞑っていて、ぴくりとも動かなかった。おでこから薄っすらと赤黒い血が流れていた。

 おい、おおい、大丈夫かあ、と誰かがベランダから身を乗り出すように私たちに向けて叫んでいた。私は一瞬、左右を見てから、その場で立ち止まっていた。息がひんやりとして、身体が震えているのが分かった。寒かった。真っ白になった頭はいっさいの機能を果たさなかった。

 そんな時にまたジリジリジリジリジリジリと喧しい警報器が鳴った。

 死体のように固まった私の身体は、雷に撃たれたかのような衝撃をもって蘇生し、その場から居ても立っても居られなくなって、逃げ出した。全ては反射的なものであった。

 ただわけも分からず。気持ちの悪い叫びを喚き散らして。走って、走って、走り去った。


《おわり》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぶらりとたれて、さがったままで 文鷹 散宝 @ayataka_sanpo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説