死の博物館

 水槽は暗闇に、青白い燐光を放っていた。見学していた若年の個体は、自分の影が床にのびるのを、いま初めて気づいたような新鮮さで眺めた。

「退屈ですか?」

 案内していた老年の個体は、気遣うように言った。

「いえ、そんなことは」

 若年の個体は弁解するように首を振った。否定を意味する身ぶりだ。案内者も見学者も、まだ肉体を持っている。最近は肉体を持たない個体も多くなった。

「死に興味を持つ若者は、年々すくなくなっているようですから。これも時の趨勢でしょうね」

「わたしは、深甚な興味を抱いています。わたしたちは、死を克服したと本当に言えるのでしょうか?」

「肉体を捨てれば、そんな疑問はなくなると思いますよ」

 しかしそう語る案内者も、高齢ながら、いまだ肉体にとどまっている。死への郷愁があるのだろうか。

「お次にお目にかけるのは、われわれに観測されたかぎりでは、世界で最初の人間の死です」

 水槽を見つめると、青い波動がゆらめいて、初めはぼんやりと、次第にくっきりとしたイメージをかたちづくっていく。

「人間とはこの場合どう定義されるのでしょう。猿人の死ということでしょうか?」

「いえ、そうではありません。最初に墓をつくられ、葬られた個体。それが最初の人間です」

「埋葬が人間の条件ですか」

「それがこの博物館の基準です」

 その定義は、死を陳列する博物館には、おあつらえ向きではあった。他者を葬り、悼む行為を、人間性と定める。とはいえ、死の観念は、時代ごとに様相を変える。死を観測し、展示するこの博物館も、古代人の基準で考えるならば、死への冒瀆ともいえた。

 水槽には、大地に倒れ伏した初期人類のイメージが浮かび上がっている。やがて、仲間がその個体を葬るまでの様子が、早回しで流れていく。これが最初の死か、と若年の個体はそれなりの感慨を抱いた。

「わたしたちは、まだ人間といえるのでしょうか?」

 ふと思いついたように、老年の個体に問いかける。

「そういう疑問を持つのは人間だけですよ」

 案内者は言下に答えた。気にするな、ということだろうか。人間であろうともなかろうとも。気にしない個体は、死を学ぼうとは思わないだろう。

「これらのイメージは、過去に宇宙に放射された光から、再構成されたものです。多少の加工は施されていますが、おおむね正確な記録といえるでしょう」

「すべて歪曲されたイメージだと、そういった批判もありますが」

「ええ、知っています。捏造とまで中傷する意見もね。とはいえ、あなたは真贋の調査に来たわけではないのでしょう? どう判断し、なにを想うかは、見学者の自由です」

 最初の人間の死を通りすぎて、二人は次の水槽へと歩いた。

「こちらは、テクノロジーによる死の記録を、ダイジェストとして編集したイメージです」

 青白い波動がゆらめき、投石で殺される人間のイメージが浮かんだ。頭蓋に石が命中し、ぐったりと倒れ込む個体。そのイメージの輪郭が徐々にぼやけ、うつろい、弓矢で殺される人間のイメージへと変化する。放たれた矢が胸に突き刺さり、馬から転げ落ちる個体。人間が死体に変えられる瞬間の数々が、淡い幻燈として次々に映し出されていく。銃でこめかみを撃ち抜かれる人間。爆弾で四肢を吹き飛ばされる人間。毒ガスで喉をかきむしる人間。核兵器で体組織を蒸発させられる人間。噴き出す血も、すべてが青く染められ、魚の群舞を眺めているような遠さがあった。

「この博物館に収集された死のうち、戦争による死はどれほどの割合を占めているのですか?」

「正確な算出は困難ですが、一割にも満たないはずです。人間の歴史は戦争にまみれていますが、死はそれ以上に、全生命体を覆っています。とはいえ、来館者の多くは戦争による死を見たがるので、目立つように展示しているのは事実ですが。キュレーターの趣味というわけではありません」

 二人は次の水槽へと進む。

「先ほどと同じく、ダイジェスト版の水槽です。こちらのテーマは、自殺者の記録です」

 崖から飛び降りる人間。自分を刺す人間。自分を燃やす人間。自分の首を吊る人間。

 車に追突される人間や、電車に轢かれる人間のイメージもそのなかにはあった。

「これらは、テクノロジーによる死ともいえるのではないですか?」

「そうですね。重複しているところもあります。殺戮に歴史あり、自殺にも歴史あり。その手法は時代によって変遷します。だから隣り合わせの水槽なのですよ」

「なるほど」

 案内者と見学者は、その後も死のイメージを映し出す水槽をめぐった。青白い燐光以外は薄闇に包まれた博物館は、閑散としていて人影もなく、まるで、世界はこの二人を残して、とうに滅んでしまったかのようだった。

「さて、これで主だった展示は大体まわり終えました。もちろん、あなたにその気があるなら、まだまだ興味深い展示は尽きませんよ。今日のコースは、いわば入門者向けです。一日ではとても、当館はまわりきれませんから」

「ええ、また後日にでも来ようと思っています」

「それはよかった」

「今日は楽しかったです。ありがとうございました」

「では最後に、少し変わった展示をお目にかけましょう」

 老年の個体はそう言って、若年の個体を出入り口近くの水槽へと案内した。

「こちらの水槽は、あなたの先祖の死を展示しています」

「わたしの先祖、ですか?」

「ええ。来館時に、あなたの生体情報を読み取らせてもらいましたね。そのデータを解析し、系図を割り出し、歴史上からあなたと血のつながりのある個体をランダムにひとり選んで、その死のイメージを映し出すのです」

「血のつながり、ですか。正直、ぴんと来ない観念ですね」

「もちろんそうでしょう。ただ、古代人にとっては、一定の価値を持つ観念でした。アナクロな博物館の、変わり種の趣向の一環です」

 青白い波動がゆらめいて、この博物館で散々みたように、またもひとつの死のイメージが、二人の前の水槽に浮かび上がった。

 アパートの一室で、フローリングの床の上で、虫のようにのたうちまわっている人間の個体。

「これが、わたしの先祖ですか」

「ええ、先祖のひとりです。日付は……西暦二〇二〇年八月九日。場所は、北半球に位置する島国のようです」

「八月九日……。それは確か、二発目の核爆弾が投下された日ではないですか?」

「よくご存知で。投下されたのも、この国ですよ。でも、世紀が違います。その死は一九四五年の八月九日。こちらの死とは、一世紀近くの隔たりがあります」

「そうですか……。実のところ、歴史は苦手でして。いくつか興味ある事象を知ってはいても、一世紀や二世紀ほどの混同は、たびたび犯してしまいます」

「学者でもなければ、当然の話ですよ」

「二〇二〇年とは、どういった年なのですか?」

「新型のウイルスが世界的に広まり、蔓延した年です。この個体も、その病による死と思われます」

 水槽に映し出された個体は、ぜいぜいと苦しそうに息をつき、なおものたうっている。

「わたしの先祖……。しかし、古代人の住居に詳しくはありませんが、イメージから見受けられるに、これは単身者向けの住まいでは? 子孫を残す古代人は、家族という制度を営んでいたのではなかったですか?」

「そのとおりですね。ただ、離婚や別居、もしくは婚姻せずに子をなすこともありましたので、死ぬときに単身者であるのは、別に不思議ではないはずです」

「そうなんですか。すみません、あまりに無知で」

「いえいえ。知らなかったことを知るのは、とても楽しいことですよ。そうでしょう?」

「ええ、確かに」

 のたうちまわっていた個体が、動かなくなった。死んだようだ。そのとき、水槽に映し出されたイメージに、ノイズが走った。糸がほどけるように、イメージがほどけていく。

「これは……」

「おかしいな……。ちょっと、すみません」

 案内者である老年の個体は、だれかと通信を交わしたようだった。

「申し訳ない。いまのは、エラーです。映し出されたイメージは、あなたの先祖ではなかったようです」

「わたしとは無関係の個体ですか?」

「ええ、縁もゆかりもない個体です。どうも、身寄りのない単身者の死が、まぎれこんでしまったようで。なにぶん、最近始めたばかりの、新奇な趣向ですから。不具合も多くて。申し訳ない」

「いえ、構いませんよ。もともと、血縁という観念に、あまり関心はありませんから」

「もう一度やり直しましょうか?」

「まあ、それは今度来たときの楽しみに。今日はこの辺で帰りますよ」

「ありがとうございました。では、また後日」

 老年の個体に見送られながら、若年の個体は、先ほど見た死を反芻していた。なんの縁によるものか、たまたま目撃した、遠い過去の、だれかの死。それは本当に、自分とは無関係の死なのだろうか。肉体を持ち、病にさらされ、のたうちまわりながら死んでいった、身寄りのないだれかの死。遠い未来の無関係な他人にしか観測されなかった、孤独な死。

 二〇二〇年八月九日。二十一世紀初頭の夏。北半球に位置する島国で。身寄りのない人間が、ひとり死んだ。

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