ポケットに墓場を入れて
koumoto
ホログラムと少年
少年は夜空を見上げたが、星の観測の作法を知らなかったので、おおぐま座、こぐま座という、彼の最愛の動物の名を冠した星座がどこに見出せるのか、皆目見当もつかなかった。
崩れ果て、朽ち果てた高層ビルたちのあいだに風が吹き、ガラスの破片の落ちる音がした。そしてまた、静寂。動くものたちの気配はない。
外套の長い裾を引きずって、少年は再び歩き始めた。
手にしたブリキの缶を軽く振ると、からからと中にある宝石たちが音を立て、少年は思わず破顔した。今日の収穫物は特段の苦労もなく手に入れることができたのだ。
“熊は、すばらしい生き物だよ”
少年は、彼を造ったエイン・シェルドン博士の言葉をまた思い出した。そうして、もういちど空を見上げる。やはり相変わらず、星の並びが熊に見えることなんてない。
なぜ博士は、熊が好きだったのだろう。生きているうちにもっと訊いておけばよかった。
辺りに漂う放射能にまみれながら、少年はエイン博士のことを懐かしく思い出す。博士がふとした時に洩らしたその言葉の影響で、少年は熊が好きになったのだ。だから、今日もいつもの場所に赴いて、熊に会おうと決めている。
さて、その前に――
少年は、ここ最近に
人間の死に絶えた理由もその過程も、少年は正確には知らない。少年には、高度な解析能力や状況把握は期待されていなかった。ただぼんやりと、うすぼんやりと日々を過ごすという、猫のように気ままなアンドロイド。ある部分では、合理を追求した機械よりもはるかに造ることの難航した、エイン博士の完全なる道楽の産物。
なにか慌ただしくなってきたな、と少年が思っているうちに、人々は次々に死んでゆき、景色はどんどん荒れ果てていった。
白血病ウイルスの変異種、というものがその滅亡に一役買ったことは知っている。エイン博士がそのウイルスについて語っていたからだ。しかし、そのウイルスがどんなものなのか、それがどんな風に滅亡のきっかけとなったのか、少年はまったく知らなかったし、博士の言う、変異誘起がどうの、という話もさっぱりわからなかった。
もっと簡単に説明してもらおうにも、博士はもうこの世にいない。自分の頭を銃で撃ち抜いて、死んでしまったのだ。そして、少年にとって興味を持てる人間はエイン博士だけだったから、もしもどこかにまだ生き残りがいたとしても、少年は関心を抱けない。少年にとって、人類はもう終わった生物だ。恐竜のように、化石や残骸だけの存在だ。そしていまではもう、大半の生物が恐竜と同じ道をたどった。
エイン博士が死に、人間の姿を見かけなくなってから、どれだけの時が経ったかも、少年は覚えていない。とても長いということだけはわかるが、少年にとってはどうでもいいことだ。太陽光と水とスクラップさえあるなら、少年の営む日々に差し障りはない。
エイン博士はビデオゲームを好んでいた。特に、仮想の世界を自由に歩きまわれるゲームを好んでいた。開発者の設定したクリア条件を満たし、プレイヤーのやるべきことがなくなってからも、遊びつづけていた。むしろ、クリアする前よりも、その後の方が、プレイ時間は長かった。
“ゲームも現実も同じだよ。目的を失ってから眺めるときが、いちばん美しい”
博士のその言葉を、少年はよく覚えている。優先して保存し、メモリーから削除しようとしない。終わった世界を気ままに歩き、死に絶えた風景を眺めることに飽きないのは、そんな博士の言動が影響しているのかもしれない。
少年以外にも知性を持つアンドロイドたちはいたが、彼らは少年よりももっと頭がいいか、もっと人間に依存しているかのどちらかだった。前者はどこか遠くへ行ってしまい、後者は人間の後を追った。理由はどうあれ、少年は自分と同じような機械に出会うことも稀だった。
そして、そのことに対しても、少年は関心を抱かない。孤独感も感じない。目下のところ、彼が胸を躍らせて会いに行くのは、熊だけである。
その迷宮のように入り組んでいて巨大な廃墟、ナウマン象の共同墓地のような、ビルを寄せ集めた集合住宅は、看板に残された文字情報によると、
もっとも、少年がここを
人間の滅んだその時節、もっぱらの流行りだったのは、歴史上の文物や事件の再現にひた走ることだった。
文化に新たな潮流は生まれ得ず、停滞を解決する見通しも立たず、人間は現在から逃避するように、過去の遺産を食い潰すことに狂奔していた。過去を掘り起こすことは、いずれは未来の創造につながるはずだ――歴史を知る有識者は、再現された模造品の趣味の悪さには閉口しながらも、そう期待して待ちつづけ、そうして、待ちくたびれているうちに死んでしまった。
ふんふんふーん……
上機嫌な鼻歌を奏でながら、少年はその集合住宅の一室、窓も割れ、壁紙も敷物も剥がれ、歳月の爪痕がそこかしこに見られる部屋で、ブリキ缶から今日の彼の戦利品、彼の宝石――色とりどりのビー玉を取り出した。
その輝きを一目みてわかったのだ。きっとこれは、遊びに使う玩具に違いないと。
少年は、玩具を集めることを趣味としていた。太陽光と水とスクラップが絶えない限りは、ライフワークとして続けようとも思っている。
部屋には、少年の収集品が散らばっており、割れ窓から差し込む月の光が、そのささやかなコレクションを照らしていた。幻獣の絵が描かれたカード、可動域の広い少女人形、ひとりでに跳ねるボール、スイッチで変形する刃先の丸い短剣――龍をかたどるぬいぐるみもあり、テディベアと呼ばれていた壊れたロボットもあった。そこは遊びの小宇宙、少年の帝国だった。
この世界はもう終わっているのだから、少年には為すべきことなどなにもなかった。残されたものを使って、時の果てまでただただ遊び続けるだけだ。そして少年は、そんな日々にこれといった不満はない。
少年はしばらく、床に転がったビー玉を弾いて遊んだ。一人遊びに習熟した少年は、ゲーム性を高めるルールを自分で考え出し、床に塗料で陣を描いて、ビー玉の可能性を追求した。
すっかり夜も更けたころ、少年は、まだ今日は熊に会っていないことを思い出した。そこで、ビー玉遊びは一旦取り止めることにして、部屋を出た。外套の裾を引きずり、迷宮のような廃墟を走り抜け、熊の待つ場所、少年が入り浸る施設へと向かった。
夜闇に雪が降っている。雪の降る中に、少年は立っている。目の前には、内に囲炉裏の見える小屋。女性に男性、それに多くの子どもたち、合わせて十人ほどの人間が、火に当たっている。
少年は外からその
音のない闇夜の雪景色を、少年は見まわした。もともとは音声も設定されていたのかもしれないが、いまはもう失われてしまっている。景色だけが、無音で展開されていく。
やがて、少年のトーテムはのっそりと姿を現した。
神話上の巨人のような、規格外の図体をした、黒い影。遠目にも空気が震えるような、禍々しい死神のような影。熊だ。
少年は笑った。今夜もまた彼に会えた。たとえ一方的な片想いではあっても、そこには逢瀬のような心躍りがあった。
熊はのしのしと雪を踏みしめてこちらに向かってくる。少年は抱きとめるように腕を開いて待ち構えた。
熊は少年と真っ向から衝突し、そのまますり抜け、鼻をひくつかせながら、火影の揺らめく小屋へと近づいていった。
抱擁が空振りしても、少年は驚かなかった。これは熊の影であり、遺された夢でしかないのだから、少年に触れられる道理はない。それでも、アンドロイドの少年は、失恋の疼きをいつも感じる。その痛みは熊と出会うことで、少年が初めて知ったものだった。
熊は窓から小屋の中を覗き、
熊は獲物をとらえ、慈悲もなくかぶりつく。
レーティングによるものなのか、流血表現は抑えられている。血も流さないままに喰われていく殺戮の光景は、音声がないことも相まって、ひどく抽象的だ。雪が溶けるみたいな死に方だな、と少年は思った。エイン博士が頭を撃ち抜いたときは、もっと赤い血が流れていた。
人々をなぶり、引き裂き、喰いちぎった熊は、やがて小屋を立ち去り、夜闇にまぎれてしまう。少年は名残惜しげに熊の後ろ姿を見送った。
いまの場面は、この幻燈のハイライトだ。場面は転換し、それに続くいくつかの情景。しかし結末は決まっている。
朝方の山頂、傷つき、木のそばで休息を取っている熊に、二発の銃弾が撃ち込まれ、真白い大地に黒褐色の巨体がくずおれる。
人間を殺し、
結末を見届けると、世界に暗幕がかかったように少年を取り囲む景色は消失し、ひとときのあいだ暗闇に包まれた後、周囲はふたたび明るくなる。
そこは雪などひとかけらも見当たらない、だだっ広い無機質なホールだった。
少年の前には操作盤があり、空中に浮かんだディスプレイには、リプレイを促すアイコンが点灯している。操作盤に手を伸ばした少年は、リプレイは選ばずに、別の映像メニューにカーソルを合わせ、再生を実行させた。
また、しばしの暗転。そして周囲が明るくなると、少年は今度は船の上にいた。
人間を満載した、蜂の巣のような豪華客船。その甲板の上で、混乱と恐怖に駆られた人々が、右往左往していた。例によって音声は失われているので、人々が口にする怒号も、嘆きも、祈りも、少年には聞こえない。
本来は臨場感を持たせる揺れも伴っていたはずだが、音声同様、それもまた失われている。そのずれによる所為もあってか、映像のところどころに、虫食いのような空白がちらつく。人々が固唾を呑みながら船の揺れに翻弄されているというのに、ひとり平衡を保って突っ立っているのは、なにか申し訳ないような気さえした。
混乱の渦中にいる楽団が、なにかを耐えるような表情を浮かべて、一心不乱に演奏していた。おそらくは製作者が力点を置いて演出した場面でもあり、きっと感情に訴えかける音楽を奏でていることだろう。それを聴けないのはつくづく残念だと、少年は思った。
場面が転換し、少年はいつの間にか、すし詰めとなった救命ボートの上に座を占めており、沈んでいく客船を眺めている。
人類の滅亡という、世界規模の終末には及ばないかもしれないが、これもまた、ある文化圏での、
またも、暗転。明かりが戻ると、少年はホールにある操作盤をいじり、
ふたたび少年は、
ひしゃげた木造の家屋に巻き込まれて死んでいく人々は、もしかしたら少年にも無縁ではない姿かもしれない。熊に襲われたり、船の沈没に居合わせることは、これからもなさそうだが、たとえば少年が
あちこちから火災の煙が立ち上り、瓦礫が積み重ねられ、その混乱の
やがてその映像も終わった。人々の影は消え、走馬燈のように流れていく夢は失われ、静寂を湛えたホールに、少年は相変わらずひとりだった。
やっぱり、熊のやつが一番ほころびが目立たないな、と少年はお気に入りを
ホールの空中に浮かぶディスプレイには、いましがた少年の再生した映像の履歴が表示されている。
少年のいるその場所は、二十世紀初頭に起きた死傷事件を展示している、玩具箱のようなホログラム施設だった。
過去を再現することに何事かを見出だそうとした時代の最後の
死者を
しかし、死の幻燈を楽しんでいた上客たちも、製作者たちも、非難していた者たちも、いまではその再現された死者たち同様に、影と成り果ててしまった。
遺されたのは、夢に駆られた人間が未来に向けて投射した、過去の残像だけ。
破損して電源も落ちていた施設を、何年もかけて少年は修復し、ここまでの状態に持ち直させたのだ。
少年はカーソルを動かして、もういちど熊のホログラムを再生した。お気に入りの絵本を繰り返し読み聞かせてもらう子どものように、少年は胸躍らせて、過去との恋を育んだ。
ホログラム施設を後にし、少年は彼の
外套を引きずって歩きながら、少年は、書斎でエイン博士が、紙の本という、アナクロな情報媒体のページをめくっていた光景を思い出す。
“Before me floats an image, man or shade,
Shade more than man, more image than a shade.”
(私の前に一つの幻像が、人が、あるいは影が、漂う。人というよりむしろ影、影というよりむしろ幻像)
夢みるように、エイン博士はかすれた声で、そんな一節を唱えた。
それはなんですか、と少年は訊いてみた。
“イェーツの詩だよ”
そう答えて、エイン博士は先を続けた。
“I call it death-in-life and life-in-death.”
(私はこれを生の中の死、死の中の生と言う)
夜闇の道を歩きながら、少年は、幾度も繰り返し浮かんだ疑問を、今夜もまた思い浮かべた。エイン博士はなぜ、自ら死を選んだのだろう。
あらゆる人間は、雪崩を打つようにばたばたと彼岸へと旅立っていった。博士にも為す術はなかっただろうから、死んだこと自体は不思議ではない。ただ、博士は世界の終末を望んでいたはずだ。博士のその暗い秘密を、少年だけは知っていた。なぜ、残された時間いっぱいに終末の光景を見届けず、自ら幕を下ろしたのか。
しかしいまでは何となく、少年にも博士の気持ちを少しだけ察することができる。ぼんやりとした少年にも、長い年月を過ごすあいだに、おぼろげながら自分なりの考えが浮かんだのだ。
きっと人間は、本当の終わりには耐えきれないものなのだろう。たとえそれが、エイン博士のような、絶望を抱えていた人間であっても。
少年は、エイン博士を愛してはいなかった。愛とはなんなのか、少年にはよくわからない。涙を流す機能を少年は備えていたが、必要性を感じたことはないし、博士の死に一滴の涙すら注ぐことはなかった。博士が自殺したときも、少年は止めようともしなかった。
エイン博士は、まず少年に銃を向けた。凶器を構えたまま、少年の眼をのぞきこんだ。少年は無言で見返すばかりだ。銃を持つ博士の手が、震えていた。そして博士は首を振り、銃口を自分の頭に向け直した。
長いとも短いともいえる時間が経った。博士がためらっているあいだも、少年はただ見つめていた。そのときに、もしも少年が止めていたとしたら、博士はあと少しだけ生き長らえていたのかもしれない。
しかし現実には少年は言葉を発することもなく、やがてエイン博士は引金を引き、自らの命を絶った。
エイン博士は人間を愛していなかったし、少年もエイン博士を愛してはいなかった。それでも、少年は博士の残像をその記憶から消すことはないだろうし、形見の外套が、すりきれて使い物にならなくなったとしても、継ぎをあてながらでも
廃墟の建ち並ぶ、死に絶えた世界を歩きながら、少年は夜空を見上げた。
すると、星影がこころなしか鮮やかに見えて、そこに熊の輪郭をたどれるような気がした。おおぐま座、こぐま座――それがどこに見られるものなのか、少年は知らない。しかし、少年が勝手に星座を定め直したとしても、もう咎め立てする人間などいないのだから、別に構わないだろう。天の光はすべて星、そして、少年の見上げるところ、そこには必ず熊がいる。
明日も、少年は熊に会いに行くだろう。あのようなホログラム施設は、この世界のあちこちにまだ残されているはずだ。玩具を集める旅のついでに、それらの復旧を目指すのも悪くない。そこにもまた、熊のようにすばらしいなにかが待つのかもしれない。
人も熊もとうの昔に滅びたが、その残像はまだ遺されている。たとえ遺されたものを楽しむ者が、アンドロイドの少年ただひとりだけだとしても、そこに遊び、見つめ、思い出す観測者がいてくれるのならば、人間の文明も、あながち無意味なものではなかったのだろう。
少年が熊に抱く感情は、もしかしたら愛なのかもしれない。人間は、熊に殺され、脅かされながらも、一方では熊を
死んだ世界でもなお美しい夜空を眺めながら、少年は、人間と熊の死を
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