神様の在り処

藍本

第1話 爛れる空白、水、波、編々

そっか、なぁちゃんは所謂ところの、命というものを冥土に送る仕事をしているんだね。


これは保健所で働き始め落ち込んでいた時に叔父に言われた言葉だった。

こういったポジティブと言われている、もしくはお綺麗が好きな人間にとっては拒絶とも言われる反応をみせるかもしれない言葉を口にするのは、勇気がいる行為だと20を少し超えた頃の私は思っていた。

しかし、それが「個人の価値観や感情を喚き立てるだけの意見」だと知ったのは感情をとうに越えた生活に身を置いてからだった。

明確にいつの時代だと言われると「電話中の親にビンタされた」時かもしれないし「頑張って仕上げた仕事を褒められはしたが評価をされなかった」時かもしれないし「恋人がいる人にキスをした」時かもしれない。

薄々分かっていて目を細めていた、ある意味秘めた思いを露呈しなければならないことに苦痛を感じるように、私はひとつのボタンとレバーを引いていた。


白や黄土色や黒が悶えて朱を吐き出す度に見ないようにしていた時代も、彼らの最後を心に刻もうと見つめた時代もあったが、結局のところ全てを無にすることで手を震わせることも嘔吐することも絶望を友達だと思う感覚も亡くなったように思う。


「異動届け出してもいいんだからね」


毎回の面談という名ばかりの行為を残す時間で言われるこの言葉はもはやエピローグやもしくは誘導尋問を繰り返す単調なものになっていた。

音楽の譜面が同じ音符を辿るように、地下鉄が同じ線路を行き来するように、生命が繁殖を繰り返すことを本能で分かるようにわたしは答える。


「大丈夫です。」


今日は新潟県から、ひとつの家族が保護犬の面談に来る日だった。

捕まえるなり、家族に捨てられるなり、いきなり人間という個体の驚異に晒された犬や猫達はヒステリックな反応を見せることが多い。言葉を交えることの出来ないわたしとその生き物達は上辺だけの分かってるような分かってないようなやり取りを繰り返す。信頼と呼ぶのか偽善と呼ぶのかは各々の視点によるものだと思う。


面談室と書かれた部屋の取手に手をかけ、この扉を開く度に神に祈るような気持ちになると同時に棺桶を開けるような好奇心に苛まれる。


「こんにちは、担当者の美浜です。」

「はじめまして。お時間頂いてありがとうございます。」


そう丁寧に返した夫婦は如何にも犬猫を保護しそうな成り立ちだった。仲睦まじく、清潔で、忍耐力のありそうな感じ。旦那さんは白いシャツにグレーのズボン。先のとがってない靴先にひし形とチェックの混ざった靴下。奥さんはカーキの半袖に白のパンツ。それに紺色のスニーカーだった。この家族に連れられる子は上手くいくのだろうと思った。本当になんとなくだけれど。

その期待に応えようとわたしは勝手に聞き分けが比較的によく人間に不信感を持っていない子犬を表に出す。大きくなりそうな子ではあったがきっとこの家族であればそれに順応する環境を提供してくれるはずだという確証のない希望を心に抱きながら。


書類と、簡易的なこの子の歴史と、検査結果を引っ張り出し、その家族に提示する。署名に拇印とトントン拍子で事が進む。上手くいく時は何時もそうだ。そうして、読みすぎておぼえてしまったトライアル期間という規約を口にし、その子を送り出した。名前は「マレア」にするんだと言った。スペイン語で潮という意味だそうだ。

怯えるような笑うような顔をした子犬を見つめていい名前ですね、とぼんやり呟いた。






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神様の在り処 藍本 @aimoh

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