第2話 辛子明太子を手作りしたい
【三章:12歳時点】
冬のなかば。おうちの人たちに黙って、趣味の
「おや、この
彼女の目の前にあったのは、ぴかぴかしたタラの尾頭付きだ。
スサーナが暮らしているヴァリウサ、「白き内海」の周辺に位置する国家では比較的よく食べられる魚、それがタラだ。
寒いところの魚という前世のイメージ通りこの世界でもどうやら外洋の魚らしいのだが、外洋に接する北部ではよく漁獲され、さらにスウェビアやクヴィータゥルフロンからの有力な貿易品であり、塩干しで内地にも流通する安価で庶民的な食材の一つで、魚料理をなにか、というと深く考えずに塩干しタラと玉ねぎでスープにしようというような食材で、大きいものも小さいものもよく食べる。
今スサーナの目の前にあるのはその中でも小ぶりなタラの種類だ。臭いもなく、目は透明で、多分締めてから数時間以内。ちょうど産卵期らしく腹はぱんぱんに太っている。
ちなみに、塔の諸島ではなぜか外洋の魚も運次第で新鮮なものを手に入れられるのだが、だいたいその手のやつは魔術師の関係なので気にしたら負けだ。低温活魚輸送だとか瞬間冷凍だとかが謎に運用されていると見え、高価だが手が出せないほどではない。多分、食文化伝播とかを研究している学者は意味不明すぎて泣くと思う。
「これだけ新鮮なら……」
スサーナはつぶやき、ごくり、と息を呑んだ。
「作れますかね、辛子明太子……」
前世は書庫の虫で、エッセイやら旅行記に端を発し、釣行ブログやら料理ブログやらを読み漁る少女でもあった彼女は普通に生活していたらまったく役立たない「男の手料理」系の記憶が無駄に豊富だ。
大学時代、四畳半に住んでいそうだったり
まさか、異世界転生してからその手のムダ知識が役に立つとは思ってもみなかった。……まあ、役に立つと言ったって、たまに湧き上がってくる和食への望郷の念をごまかす、という程度なのだが。
「確か……お酒と、塩、粉唐辛子は用意できる……鰹節は代用が効くはずで……醤油は無理としても……」
スサーナはタラに目を据えてぶつぶつと呟くと、よし行ける!!!と気合を入れ、それから決然とお財布を引っ掴んだ。
おうちにタラを大急ぎで持ち帰ると、鬼気迫る勢いで捌く。身の部分は普通に食べるため、大人しく塩を振って調理台の上に置いた。
卵を崩れないように確保する。
そっと平たい器に置き、塩を振って砕いた氷の上に置くと、スサーナはまず今日の料理当番を買収しに掛かった。
冬のうちの夕食はスサーナのおうちではお針子を含む家族達が交代で料理を作る。何故買収が必要か、というと、この辺でもタラの卵は普通に食べるからだ。ただしタラコとしてではなく、軽く茹でてから油で煮てコンフィにしたりマリネにしたりする。それはそれで美味しいものの、スサーナの食べたいのは明太子である。下ごしらえ中に料理されてしまってはたまらない。
焼き菓子数個で今日の料理当番のお針子を無事買収し、塩を振ったタラの卵をガーゼで拭いて更に酒で洗ったスサーナは、無事酒塩で浸けて12時間、ザル上げして氷と一緒に冷暗所で寝かすこと10時間の工程をこなすことに成功した。
――ここまできたら後は一息ですよ!!!
漬ける時間を考えれば工程の最初程度ではあるのだが、邪魔が入る可能性となるとここまでが一番だ。スサーナはうきうきと意気込み、鍋で白葡萄酒を煮きった。
完全に同じものというわけにはいかないが、出来るだけ温和な味で酸味が少ないものを選べば、まあなんとか酸度高めの日本酒の代用にならないこともない、ぐらいにはなるのだ。実物と比べたらしょんぼりするかもしれないが、比べる手段がないのでこの際仕方がない。いつか魔術師さんがジャポニカ米近似物を開発してくれたら日本酒だって夢ではないかもしれないのでその時まで我慢だ。
「そう、つまり、大体辛い漬物液が出来ればいいんですよね。基本さえ押さえておけば食べられないものになるってことはないはず……!」
悪い顔で段取りする。出来た煮切り酒に昆布を入れ、冷えた状態で静置したのちに取り出し、干し鰹を削って入れ、塩と、アミノ酸の種類確保の意図で干し茸の戻し汁もすこし加えてひと煮立ち。味が複雑になることを祈って赤砂糖も一匙入れておいた。
そしてそれをガーゼで濾しながら粉唐辛子に注ぎ込み、器を氷に刺して冷やし、完全に冷えたところで満を持して待機していたタラの卵を漬け込む。
そのまま、冬の気温と氷を生かして冷暗所で氷温保存すること一週間。
端っこを切って食べてみて、お腹が痛くならないことを確認したスサーナは、晴れて辛子明太子が完成した、ということにすることにした。
「うふふ、さて、これをどうしましょう。」
完成したからには料理したい。米があれば載せて食べるだけでいいのだが、残念ながら島には米食文化がどうやらない。
しばらく楽しく夢想して、それからスサーナは、侍女もどきをやらせてもらっている貴族の家に辛子明太子(仮称)を持ち込むことにした。
春のさなかに本土からやって来た、「セルカ伯」と呼ばれる貴族の娘さんとその従姉妹である二人のお嬢様たちにひょんなことから気に入られたスサーナは、それから日給制の侍女とご友人の中間、というような行為を続けている。
おうちだと、「ご飯用のタラをさばいておいたよ」だとか「保冷庫の隅を使いますね」は可能でも、商売をしている多人数のおうちなので、よほどタイミングを見ないと好き放題に台所を使えるというわけではない。むしろ空いている時間が長い貴族のお宅の厨房の方が自由度が高い。
その貴族のお宅と関わったことで、ちょっと大規模な面倒事……ありていに言えば、誘拐事件に巻き込まれたりもしたため、お屋敷の使用人たちは今スサーナに非常に甘い。つまり、台所を借りることだって可能なのだ。
「さて、何にしましょうね。」
無事に台所を借りられたスサーナはうきうきと手をすり合わせる。
――ええと、生地を包丁切りにして、スパゲッティ風に出来ますかね。あとパンは焼いて塗るだけでいいから……。
このあたりだとあまり麺状のパスタは食べないものの、シート状のものは出回っているので一手間加えてフィットチーネ風に出来るかとチャレンジするつもりだ。できるだけ細くすれば明太子パスタでもいけるのではなかろうか。
「まずは明太子ペーストからですね。そのまま食べないのはちょっと寂しいですけど……」
ぶつぶつ言いながらもスサーナは明太子を一本丁寧にほぐし、来る途中にこのために買ってきた、市場で一番高いバターを刻んで少し温める。レモンを絞り、全体をさっくり混ぜ合わせた。
そうしている間に湯が湧く。
「スサーナさん?」
そこにひょいと首を覗かせたのはこの家で勤めている使用人の一人、レミヒオだ。
彼は青帯奴隷と呼ばれる奴隷の一種だが、主人であるセルカ伯にことのほか気に入られ、彼の侍従めいた役割に従事している、それなりに重用された立場の使用人だ。今日はくすんだダークグリーンのお仕着せを華奢に見える体に着こなし、いかにも上級使用人の少年、という風情である。
「ああ、レミヒオくん。なにか御用です? もしかしてお嬢様たちが呼んでいたり?」
「いえ。なんだかこちらで音がしていたので。湯が沸くような音がしていたので、何をしているのかな、と。」
傾げた目元に、スサーナと同じ黒髪が掛かっている。
彼は漂泊民、鳥の民と呼ばれる一族の出身で、「肌刺繍」と呼ばれる、この世界では希少な魔法の技術を使いこなす。なにやら戦いなどにも慣れていて、どうやらただの奴隷というには秘密が多そうだったが、ひとつ歳上ということもあり、どうやら同族、同じ混血らしい、というよしみもあってスサーナは結構な親近感を抱いている。
本当は、レミヒオと呼ばれる少年は鳥の民の特殊な氏族、暗殺士と呼ばれる存在であり、名前も偽名、使命のために潜伏していた、というような事情なのだが、そんなことは彼はおくびにも出さず、スサーナには知る由もない。
「ええ、台所を借りて料理を。あ、レミヒオくん、よろしかったら味見してみませんか!」
というわけで、スサーナが彼を試食に誘ったのは当然の帰結であった。
「味見――ですか。ええと、それ、それは……なんでしょう。その……色の悪いといいますか、妙に赤くて鮮やかな、と言いますか、魚卵は……。」
誘われたレミヒオは調理台の上を一瞥すると、なにやら喉元で引きつったような声を出す。
彼はスサーナの作るものに対しては、実は結構な警戒感を抱いていたりするのだ。
それはまあ、それなりに無理もなく、これまで「健胃の為の激苦茶」だの「口の中の水分を纏めて全部持っていくたまごボーロ」だの、第一人者と言っていい被害を受けてきた為であった。一応スサーナの名誉のために言えば、おばあちゃん特製の茶葉だったり、島では一般的なレシピだったり、現代日本再現料理の毒牙にかかった、というだけではないのだが。
「ええと、タラの卵を唐辛子とか……調味液に漬けこんだ、魚の卵の漬物、と言いますか。ともかくそういうものです!」
そんな引きつりを預かり知らぬスサーナに弾んだ声で返答され、レミヒオはしばらく逡巡したものの、それでも結局台所に入ってきて椅子の一つを引いて座った。
何やら色々思うところがあるらしく、この少年はスサーナに比較的甘い。
試食係を確保したスサーナは機嫌よく料理の支度に掛かる。
細く切ったパスタ生地を沸いた湯に放し、切ったパンをあぶった。
それと同時に小鍋にクリームを少し入れて温め、ニンニクと削ったチーズ、家から持ち込んだスープストック、ハーブ塩を加える。そこに先に作った
それを皿に盛り、きつね色に色づいたパンに明太子バターを塗りつけるとそのフチにちょんと置いた。
「さあどうぞ、食べてみてください!」
勧められたレミヒオは深呼吸を一つ。
「その、これは……そちらの、色の悪い魚の卵……を使って?」
「はい、そうです」
「……失礼ですけど、傷んでいるとかそういうことは」
「無いと思いますけどねえ。食べてみましたけど、お腹を壊したりはしていませんので!」
「そうですか……」
ひと問答の後に覚悟を固めたらしく、なにやら悲壮な顔をした彼は食器を取ると、まずパスタをいくらか取って口に入れた。
ソースを落とさないようにしながら口の中に啜り込む。
「ん……」
口に入れた小麦の生地にとろみの強いソースが絡む。
クリームの穏やかさとチーズの風味、ハーブの香りと塩気にぷつぷつとした食感の粒が混ざっている。どうやら、クリームベースの温和な風味の中に立ち現れる辛味と塩気はそれに由来しているようだった。
「あ、これは……嫌いじゃない、気がします。」
「やった!パンの方も食べてみてください!」
はしゃいだスサーナに示され、レミヒオはあぶったパンを取る。それはくすんだ赤い魚卵が表面に塗りつけられており、クリームソースよりもずっと味を紛らわす要素はなさそうに見えた。
――ええい、ままよ。
腹を決めて食いつくと、ざくりとした食感の一瞬後に口の中に溶けたバターが広がった。噛むと、パンの熱で焼け固まった魚卵が崩れ、口の中に辛味と塩気、じわっとした旨さが広がる。
恐れていたほどの生臭さはなく、多少海のものらしい風味はあるものの、唐辛子の香りとレモンの香で紛れて気にはならない。
「……旨いものですね。」
半ばぽかんとして言った少年の嘘ではなさそうな様子に、スサーナはようし、と勢いよく拳を握ったのだった。
その後、レミヒオの証言を得たスサーナは調子に乗り、屋敷に滞在している騎士のフィリベルト、その従騎士のアラノが台所に顔を出したのをきっかけに、彼らにも明太クリームパスタと明太フランスもどきを振る舞い、酒に合いそうだ、などと概ね好評を賜った。
しかし、当然の流れであるのだが、ふと気づけば自分の分が無くなっており、結局悲しみに沈んだことである。
どっとはらい。
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