EP.Ⅱ‐ 5 安穏と困惑
その日、ククイは初めて建物から出た。
「森……?」
目の前に広がっていたのは、エリクの記憶でのみ見たことがある森だ。こんなにも木が密集しているのを彼は初めて目にした。冥府の街の近郊にも存在していたのだが、ククイは街から出たことはなかったし、市街跡は大きな崖に囲まれており周囲は望めなかった。
振り返り自分が入っていた建物を望む。白亜の屋敷は存外に大きく、装飾の激しいその様は、エリクの記憶にあった上位街区の貴族邸に似ていた。
首都レイリッツの近郊に森は存在しない。どうやらここは首都から離れた場所の様だ。周辺から聞こえるのは鳥のさえずり程度のもので、人の気配などは一切ない。近くには町すらないのかもしれない。
「……どこなんだろう、ここは」
ククイは全てに困惑していた。捕まったにしては自由に過ぎる。
彼は目覚めてから三日間、この屋敷で待遇の良い生活を送っていた。
ククイは重たい体の回復を待ち、昨日まで屋敷内で安静にしていたのだが、その間は屋敷のメイドと思われる人たちが丁寧に世話を焼いてくれた。生まれて初めて入浴もした。回復するまでことだろうと思っていたのだが、それは今日こうして、出歩けるようになっても変わらない。行動に制限を付けられることもなかった。このまま逃げることだって出来るだろう。
「何のつもりなんだ……」
相手の意図が全く読めなかった。これまで何度も殺しに来た敵が、いきなり媚びへつらってきたようなものだ。全てが疑わしいのに害はない、なんて気持ち悪いにも程がある。
「こんなに良い朝なのに、どうしてそんな難しい顔をしているの?」
悩んでいるククイの横から、んー、と伸びをしながらエリスが声をかけてきた。ククイが反射的に視線を向けると、純白のネグリジェ姿のエリスが目に飛び込む。
反射的に目を逸らした。なんだか彼女を見ていると気恥しくなったのだ。ククイの反応にエリスは自分を顧みて、口元に手を当てて楽しそうに笑った。
「素敵な反応だわ。でもそっか、見せたのは初めてだもんね」
「……どうして、いつもの服じゃないの?」
「寝る時はこれに着替えているの。いつものドレスじゃ寝苦しいもの」
「そういうものなんだ?」
「そういうものなの。あなたも追々、解って来るわ。ここで暮らしていればね」
つまり彼女はずっとここに彼を住まわせるつもりらしい。
ククイは訝しそうに顔を歪め、素直に疑問を口にした。
「……僕が逃げるとは思わないの?」
エリスは笑って答える。
「思っているわ。もちろん監視役の騎士だって居る。まあこの森の外に、だけどね。屋敷の中は私が居るから必要ないもの」
監視……それはあの青い騎士だろうか。
そう思い至ると、ククイの内からぞわぞわと殺意が滲み出す。
しかしそれを断つ様にエリスは言葉を放った。
「でも、あなたに危害は加えさせないわ。絶対に。だから安心してね」
強く自身に満ちた言葉は、ククイの内なる炎を完全に吹き消した。
だけど困惑する。
「……なんでエリスは、そんなにも僕に親切なんだ?」
彼女が自分に気を遣うのには理由があるはずだ。
それが彼には怖い。だからどうしても聞いておきたかった。
例え返ってくるのが望まない答えだろうと、こうして不安と疑心に苛まれるよりは絶対にマシだろう。
そんな覚悟を持って放った言葉に、エリスは顔を赤くさせた。
「んん。まあ、それはほら。ね。ふふふ」
「?」
彼は全く想像していなかった反応に困惑した。
ククイの見てきたエリスは自身と気品に満ちた発言をして、行動を見せて、いつだって胸を張っている様な人物だった……筈なのに。
視線は下に反れているし、手を後ろに組んで身をよじっているし、顔はどんどん赤くなるし、誤魔化すように笑っている。これはどういう反応なんだ、とククイは一層目を見張った。
「そんなに見ないでよ。恥ずかしいじゃない……」
「なにが?」
「それは……いいのよ。話しても分からないわきっと」
酷い事ではなさそうだが、やはりエリスには何か目的があるんだとククイは確信する。自分とこうして一緒に居るのもその為。だけど危害を加えるという意図はないらしい。
「うん、お腹が空いたわ! 中へ戻って朝食にしましょうククイ!」
「え、あ、ちょっと!」
不安を拭う事は出来なかったけれど、しかし当面は身の危険もないようだ。ククイは彼女の言葉から自身の空腹を自覚する。何かを誤魔化す様に彼の手を取り走り出した彼女に身を任せていれば、きっとまた美味しい食事にありつけるのだろう。こんな日を迎えるなんて、想像もしなかった。
――今、此処に彼が居たのなら。
そう考えたククイはしかし、すぐに首を振った。
彼がどんな力を持とうとも。
もう……彼には会えないのだから。
HADES ARK かんばあすと @kuraza
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