EP.Ⅱ‐ 1 浄化の日

 

 二日間後も彼は同じ場所で体を丸めていた。

 あれから一度も起きずにじっと眠っている。体は回復していたのだ。しかし彼は目を覚まさない。それはまるで、目を覚ますのを拒んでいる様にも見えた。

 

「……なん、だ」


 そんなククイが目を覚ましたのは、変な臭いがしたからだ。もちろん彼の周りには腐臭が立ち込めているのだから、生半可な臭いでは彼に届きもしないのだが……それでも、明確にその臭いは彼の鼻腔を不快に突いた。


「……焦げ臭い?」


 体を起こす。辺りは明るい。今は昼のようだ。ククイは反射的に空を見上げた。そこにあったのは真っ青な空……ではなく、凄まじい速度で動く黒い雲だった。


「……煙……燃えてる?」


 ぼんやりとした頭で理由を考えれば、すかさず脳裏に深く刻まれた例の鎧が浮かぶ。ククイの瞳孔が一気に窄んだ。髪は逆立ち、四肢に意識が通う。そこでやっと彼は敵を取り逃がしていたのを思い出した。


「……エリク!!」


 外が焼けているのなら、彼の遺体も――そう思い至った瞬間にククイは居ても立ってもいられず、四肢が千切れんばかりに走り出した。


 一番大好きな人。最初の家族。心を与えてくれた神様。

 そんなエリクが……このままでは燃えて無くなってしまう。


「いやだ。いやだ! エリクー!!」


 泣きながら走った。大声で彼の名前を何度も呼んだ。絶対に答えてはくれないことを知っているのに、叫ばずにはいられなかった。彼が生きていたのなら自分で逃げ出せたのに、彼はもう……自分では動けない。


 外に出ると、一面が炎と黒煙で塗りつぶされていた。

 炎の壁は高く聳え立ち、ククイを上から嘲笑うように揺れている。これではどこまで火が広がっているのかも分からない。


 彼はより一層、その心に恐怖を抱えて走る。


 黒煙で何度も咽せた。炎が何度も体を焼いた。でも止まれなかった。怖くて止まれなかった。残された最後の希望が消えてなくなるなんて、そんなこと怖くて考えられなかった。鼻を塞ぎ胸を締め付け眼を歪ませる感情を払いたくて、何度も叫んだ。助けを呼ぶようにその名前を何度も叫んだ。応えたのは家屋の爆ぜる音だけだ。


 ククイは焼け崩れて風景の変わった道を、それでもなんとか見分けて走った。途中、炎で通れない箇所が幾つもあって、その度に遠回りを強いられる。顔は煤で真っ黒になっていたけれど、眼の周りと鼻の下だけが薄っすらと綺麗だった。


 やがて彼は家に辿り着く。


「エリ……」


 それはごうごうと燃えていた。


 見る影も無かった。炎の中に見えるのは黒い影だけだ。それが踊っている様に見えるのは、揺らめく火影によるものだけではない。家が徐々に崩れている。


「あぁああああああああああああああ!!」


 ククイは叫び飛び込んだ。熱いとか痛いとか感じることも忘れていた。だが中に飛び込んだ後は息が出来ない。喉も目も焼けて、前に進むのすら困難だ。黒く濁っていく視界の中で、しかしククイはソレを見つけてしまった。


 「――――――」


 全て焼けたのだ。声が出る筈もない。ただ大きく口を開けて、その全身を炭に変えながら、それでもククイは『真っ黒になったエリク』に向かって手を伸ばし、歩き続けた。歩き続けて、たどり着くと膝を落とし、重なる様に倒れ込んだ。


 それで、もう満足だった。

 後はどうでも良くなった。


『………イ』


 だからきっと、最後に彼の耳を打ったその音がなんであろうとも、ククイは幸せだったに違いないのだ。


『馬鹿野郎。こんなところでくたばるなんて、許さねえぞ』


 あれ狂う炎は収まる事を知らず踊り続ける。その中で炭になったエリクの身体が傾き、ばさりとククイの上へ崩れ落ちた。

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