Ep Ⅰ‐12 とある商人の息子


 ククイはその日、夢を見た。

 それはとある商人の家に生まれた―――どこかの青年の夢だ。


……


 周りの家よりも遥かに裕福で、欲しい物は望めば全て手に入ったのに、青年が家族と呼べる存在は妹しか居なかった。


 その妹というのも実の妹ではない。彼女は腹違いの妹だ。父がどこかで産ませた子を引き取ったらしいのだが、母は強く反対もせずに引き取った。母は父に逆らうことが出来なかったし、十分な時間と金を貰えるなら別に良いと言う人だったから。


 結果として当然、妹は両親から愛情を注がれなかった。


 父は仕事に奔走して構うことがなかったし、母は趣味と娯楽に没頭して構おうとしなかった。俯瞰してみれば、そもそも家族というには繋がりがあまりにも希薄な関係だったのだ。


 父は得意先の権力を得る為に母と結婚した。母は父の強欲を見抜いていたけれど、むしろ自分に興味がない事へ利点を見出した。母は絵画の為に生きているような人で、眠る事よりも、食べることよりも、絵を描くことを優先する。


 母の絵はとても繊細で、止まっているのに動的で、鮮やかだった。


 幼い青年は何度かその絵を見たことがあって、その時は素直に感動した。だけど見つかるたびに叱られ、追い出されたので、やがて見ようとしなくなった。


 母の絵はとても高く売れるらしく、綺麗な服を着た人がよく母に頭を下げていた。絵を褒められた時の母の顔はとても嬉しそうにほころんでいて、整った顔立ちと相まって、それはそれは綺麗だったのを青年は覚えている。


 それを青年はいつも物陰から見た。

 彼に対しては、絶対に向けてくれない顔だから。


 彼と妹は、父母ではなく家事手伝いのおばさん方に育てられた。どんな我儘を言っても許されるし、呼べばすぐに来てくれる。だけど彼女たちは別に自分を愛しているわけではない。お金の為に接しているだけだ。


 彼女達は気づいていないが、青年は自分たちの愚痴を吐く彼女らを何度も見ていた。だから彼はいっそ開き直って我儘を言い続けた。


 それをいつも制したのが、妹のスノウだ。

 人を困らせてはいけないと、彼女はいつだって青年に微笑んだ。


 彼は妹と一緒に過ごした。妹は本当に同じ環境で生きてきたのだろうかと疑いたくなるほど、純粋だった。他人に迷惑をかけることを嫌い、我儘を言うことを嫌い、そして喜ばれることをこそ行った。


 なんでそんなに他人なんか気遣うんだよと彼は言った。別にあいつらは金のために言うことを聞いてるだけなんだと。でも妹は首を振った。難しいことはわからないけど、同じことをされたら、自分は嫌だからと。


 お前は優しい奴だと青年が声を掛けると、私は臆病なだけだよと彼女は眉を寄せ、困ったように笑って言った。


「だって誰かを困らせてしまったら、きっと、また捨てられるもの」


 その瞬間、彼は目の前の存在から目を離せなくなった。


 愛おしくてたまらなくなった。

 情けなくてたまらなくなった。


 彼女は捨てられたのだ。母親に捨てられて、父に引き取られたのだ。その恐怖を抱えてこの家に居る。その恐怖に怯えながらずっと暮らしてきたのだ。

 

 なら、俺が守ってやらなくちゃいけない。

 彼はそう強く思った。


 両親はこの孤独な妹を愛したりはしない。絶対に。家政婦たちもそうだ。彼女に愛を寄せたりはしない。ならば、愛してやれるのは自分しかいないではないか。


 そしてなにより―――彼女が自分と、だぶってしまうから。

 だから、愛さずにはいられない。


 彼はたまらず妹を抱きしめた。


 お前は一人じゃない。絶対に俺はお前を捨てたりしない。我儘だって言っていい。甘えたいときは甘えていい。何も遠慮なんてしなくて良いんだ。俺はお前を嫌ったりしない。


 そんな思いがぐるぐると脳裏を巡る。

 だけど彼はそれを言葉にできるほど成熟しておらず。


「そばにいる。ずっと」


 それだけしか言えなかった。


 幼い子供のつたない気持ちではあったけれど。

 妹にとっては、これ以上ない宝物を得た瞬間だったらしい。


 それからは二人で行動することが多くなった。

 何をするにしても二人でやった。

 そしてスノウに影響されて、彼も我儘を言わなくなった。


 彼らは変わらず、周りの誰からも大切に扱われることはなかったけれど、寂しいと感じることはなくなった。大きくなっていく二人には、やがて友人と呼べそうな存在も出来ていたけれど、真に信じられるのはお互い以外には存在しなかった。


 そんなある日、父は妹に縁談を持ってきた。


 それは街でも有力な商人の息子で、彼自身も有名人だった。容姿端麗にして、博愛主義の好青年だと。彼は初め渋ったが、スノウの為ならばと見守ることにした。対するスノウはとても嫌がっていた。この家を出ることは、とても嫌だと。兄から離れたくないと。それを彼は無理矢理、説得した。


 本当はそう言ってくれた事が嬉しくて、そのまま引き留めてしまおうとも思った。しかしそれが彼女の幸せになるとは思えなかった。スノウは外の世界を知り、より知識を深めてより良い人間に愛され、幸福を手に入れるべきだろうと。


 結局、彼はいつでも会いに行くこと、困ったことがあればすぐに助けることを約束し、スノウを説き伏せた。スノウは数日後に商人の息子、ドラジオと食事をして、そして一週間後には、婚約を決められた。


 その二日後にスノウは姿を消した。一日遅れてその話を使用人の噂話から知った彼は、ドラジオのもとへ向かった。事情を知りたかった。何があったのか、何か手掛かりはないのか。とにかく何でもいい、スノウの情報が欲しかった。


 屋敷に行くとちょうど門から出てきたドラジオと出くわす。彼は自分がスノウの兄だと名乗り、彼女がどうしているかを尋ねた。ドラジオは顔を歪ませて言った。


「あの女は僕に屈辱を味わわせた挙句に、顔に泥まで塗ったのだぞ。お前が兄だというのなら、責任を取ってあの女を僕の前に引きずり出せ」


 噂とは違う、負の感情を剥き出しにする男の言動を見た。

 彼は自分の行いが間違いだったと悟った。


「まあお前の父にも話している。どうせ、すぐに見つかるだろうがね」


 話を聞いて急ぎ自宅へ戻った。スノウが飛び出してどこへ行くかなんて、決まっている。それは願望に過ぎないのかもしれないが、彼にはそうとしか思えなかった。「きっとスノウは、俺に会いに来る」彼は家に戻ると急いで妹の姿を探した。


 ――しかし、誰もいない。


 力が抜けて、膝に手を着いた。乱れた呼吸はしばらく収まらない。その最中に騒ぎが聞こえた。玄関の方から甲高い声。誰とも判別できない『音』だったけれど、彼は乱れた息をそのままに駆け出した。間違いないと思った。確信していた。


 そこには怒鳴り散らす父親と、彼に腕を掴まれて泣きはらす……纏う衣服もボロボロの、スノウが居た。彼は何を問うこともなく、駆けるそのままの勢いで父親を殴り飛ばす。父親が商品の入った木箱に突っ込み倒れていくのを見もしない。


 スノウは言葉も無く、静かに、抱き着いてきた。

 それだけで全て伝わった。彼はもう限界で呼吸しか出来ず、スノウは泣きはらし嗚咽しか出せない。お互いに何も言えない酷い状態で、ただ寄り添って立ち尽くす。


 やがて3人の使用人が騒ぎを聞きつけて集まって来たかと思えば、何事だと母親まで現れた。父親がのっそり起き上がるころには息も整って、彼は口を開く。


「スノウをどうする気だ」


「勿論、ドラジオ君の元へ連れていく」


 スノウが首を振る。ここまで明確に否定を示す彼女を見るのは初めてで、それだけでも何事かがあったのが解った。


「行かせない」


「そうはいかない。スノウの婚約はもう決まったことだ。スノウはもうドラジオ君の所有物なのだからな」


 父親は自身が倒れ込んだ木箱、その中から剣を取り出す。

 それは死体置き場から回収してきた品の一つだった。


「もう邪魔をするなエリク。殺すぞ」


 剣を突き出しゆっくり近づく父親の眼は、息子を見るようなものではない。自分の利益を奪う敵へ向けた明確な殺意があった。けれどエリクは悟る。


 ――ああ、そうか。いつだってアイツは、俺をこんな目で見ていたな。


「スノウは、俺が守る」


「成るほど。よく言った――死ね」


 剣を振りかぶり迫る父親。スノウを後ろへ突き飛ばし、離れる俺。振り下ろされる剣。叫ぶスノウ。エリクは大きく凶刃を躱し、そのまま父親の顔を殴りつけ、奴が落とした剣を拾った。


「……お前らがスノウを苦しめ続けるのなら」


 倒れた父親は地面に伏して唸っている。

 使用人は悲鳴をあげて顔を隠す。

 母親は興味なさげに目を向けている。

 その中で、


「俺がその鎖全てを、断ち切ってやる」


 エリクは自分の父親の腹に、迷いなく剣を突き立てた。

 腹から滲み出す血液と共に、周りから悲鳴が幾つも上がる。

 エリクはしかし、それらが遠ざかっていくのを感じていた。

 何かがプツリと切れた気がした。


 彼はそのまま使用人たち全てを切り殺し、事態を飲み込んで悲鳴を上げた母親を切り殺した。全てを終えて、息をついて、背後のスノウに振り返る。

 スノウはゆっくりと首を振り、目を見開き。


「ごめんなさい」


 そして逃げた。


「なんで……待ってくれ、スノウ!!」


 逃げるスノウを血に濡れたまま追いかけるエリク。殆どの体力を使ってしまったせいで、普段なら容易く追いつける筈の彼女に追いつけない。やがて街に流れる河川へと辿り着いたスノウは、大きく引き離したエリクを振り返り、ゆっくりと一礼し。


「………」


 そして何事かを呟いて、川へ飛び込んだ。


「   」


 駆け寄った頃にはもう何も見えない。夜の川は底抜けに暗く、周囲の闇となんら変わらない。飛び込んだところで、死んで終わり。


 叫んだ。


 胸に込み上げるものが困惑なのか怒りなのか悲しみなのかも解らずに。ただひたすら、喉が枯れるまで叫び続けた。何かを吐き出せるまでずっと、ずっと。だけど一番吐き出したいものは、絶対に体から出てこない。


 気が付くと彼はドラジオの家に居た。ノックすると、使用人が出てきた。こちらの身なりに悲鳴を上げる彼女へ「スノウを連れてきたとドラジオに伝えろ」と小さく話す。ややあってドラジオは喜色に大きく歪んだ笑顔で現れ、かと思えばエリクの身なりに顔をひきつらせた。そんな彼に何を言う事もなく、エリクは躊躇わず剣を突き立てる。


 そしてそのまま逃げた。

 後はどこをどう逃げたのかも覚えていない。


 夜の街をひたすら走り。走り。走り。街を出てからも走り続けて。もうどうしようもなく疲れ切ったところで倒れた。このまま死んでしまえれば良いのにと目を閉じて……自分がやったこと、スノウが川へ飛び込んだことを思い出し、吐いた。吐くものがなくても吐き続けた。そして意識を失った。


 どれほどの間そうしていたかはわからない。

 起き上がってからは何も考えずに歩いた。

 ただ道なりに、ぼんやりと歩き続けた。


 そしてエリクは、死体置き場に辿り着いたのだ。

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