危ない取引は女子トイレで『百合ぽい』

赤木入伽

危ない取引は女子トイレで

 場所は学校のトイレ。


 時刻は既に三時限目が始まっているとき。


「本当に、返してくれるの?」


「もちろんだよ。ただ、薫子ちゃんが弓実のお願いを聞いてくれたらだけどね」


 岩田薫子の低い声の問いに、安本弓実は笑いました。


 ただ薫子はその笑みを信用しきれず、つい学生鞄を胸の前で強く抱きしめていました。


 もっとも、どれだけ弓実が信用できなくても、薫子はここから立ち去るわけにはいきませんでした。


 弓実からアレを返してもらうためにも。


 もともと薫子は堅物真面目な性格であるのに対し、弓実は遊びを生き様とするような性格でした。


 そのため二人の関係はクラスメイトを超えるものではなく、初対面のときに義務的にLINEのID交換をしただけです。


 ですが、ID交換から三ヶ月がたった今日、体育の授業を終えて疲れ果てていた薫子のスマホに、突如として弓実からメッセージが届いたのです。


『薫子ちゃんの大事なものを預かったよ。身に覚えがなければ、自分の胸に聞いてみて。変えしてほしければ、すぐにトイレへ』


 誤字を含む剣呑な文書に薫子は首をかしげました。


 しかし自分の胸に聞いてみろという文面を眺め、急に思い立ちました。


 ――大事なものって、まさか。


 薫子は先生に『今日は重い日で』と嘘をつき、鞄を胸にかかえ、トイレへと急ぎました。


 そしてそこにいた弓実はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて、


「薫子ちゃんの大事なもの、返してほしかったら、弓実のお願いを聞いてほしいな」


 そう言ったのです。


 ただ、これを素直に受け入れる薫子でもありませんでした。


 なにせ薫子は堅物なために、クラスメイトにも嫌われている傾向にありました。


 そして最も薫子を嫌っているだろう子と弓実の仲は良好なのです。


 お願い――と言いつつ、どんな無理難題を突きつけられるか分かったものではありません。


 とは言え、


「まず、あなたが私の――アレを持っているって――証明してくれる?」


 ここにソレがないとなれば、何も話は進みません。


 だから薫子はそう聞きました。


 それに弓実は頷きます。


「ちゃーんとここに持ってきたよ」


 弓実は言うと、自分の水泳袋の中をまさぐります。


 ――まさか、あの中に?


 薫子は、自分のソレが濡れてしまったのではないかと不安感を覚えますが、ともかく弓実は懐からソレを引っ張り出します


「たららったらー! 薄紫のブラジャー!」


 ドラえもんの効果音付きで、弓実は言いました。


 そして薄紫色のブラジャー(イオンで購入。三一九〇円)を高く掲げました。


 薫子のブラジャーを。


「ちょ、声が大きい!!!!」


「いや、そういう薫子ちゃんの声のほうが大きいよ」


 言いながら弓実は、薫子のブラジャーをぶらぶらと揺らしました。


 まるで見せつけるように。


 人の大事なものなのに。


 薫子は一気に顔に熱がこもるのを感じました。


「えへへー、ビックリしたよ。弓実、水泳の授業が終わってすぐトイレ行ったから、着替えも一人だけでしてたんだけど、更衣室のはじっこにこんな可愛いものが一人ぼっちだったんだもん。それに薫子ちゃんって、けっこう隠れ巨乳なんだね。羨ましいなー」


「だから、声が大きいって――」


 薫子は背後を気にしつつ、胸にかかえる鞄をまた強く抱き直しました。


 そう。薫子のシャツの下は、素肌そのままなのです。


 今は鞄を抱えているおかげで胸の形が外にはわかることはありませんが、弓実のメッセージが届くまではその盾もなかったのです。


 その事実に気づいたとき、薫子は愕然としました。


 もしこの恥ずかしい状態が誰かにバレたら、堅物真面目で通ってきた薫子にとっては人生の破滅と言っても過言ではありません。


 ただ幸いにして、教室を見渡す限りでは、薫子の異変に気づいているクラスメイトはおらず、ともかく薫子は鞄を抱えて弓実に会いに来たのでした。


 ただ、


「それで、お願いって何?」


 先ほど、弓実は言ったのです。


 お願いを聞いてくれたら、ブラジャーを返すと。


 もし、このお願いが現状よりさらなる羞恥を伴う無理難題だったら、薫子は転校を覚悟しなければいけません。


 ところが弓実は呑気なものです。


「あぁ、お願いね、お願い。弓実のお願いはねぇ――」


 弓実がわずかに言葉を区切り、薫子は緊張します。


 そして、


「弓実のお願いはね――、今日の放課後に薫子ちゃんとデートすることです」


 と、言った。


 薫子はそれを聞いて、上を見て、右を見て、下を見て、左を見て、口を開きます。


「え?」


 しかし弓実は子供みたいな笑顔で言います。


「あのねぇ、弓実はクラスのみんなと友達になりたいの。でも薫子ちゃんはいつも怖い顔で勉強ばっかしてるでしょ? だから、これを機会にね、弓実は薫子ちゃんとお友達になりたいなーって思ったの」


 薫子はじっと弓実の言葉を聞いて、ふと思い出します。


 確かに弓実は、薫子を嫌うクラスメイトと仲が良いですが、他のほとんどのクラスメイトとも仲が良いのです。


 特定の誰かを嫌うような言動を薫子は見たことがありませんでした。


 薫子は弓実のことを馬鹿っぽい口調で自分を嫌う子と仲良しな馬鹿だと思っていましたが、どうやら本当に馬鹿なようです。


 だから、薫子は頷きました。


「いいわ。――ただ、今日は塾があるから、明日でもいい?」


「うん。もっちろんだよー」


 弓実はまたも笑顔で言い、約束通りブラジャーを両手で差し出してくれました。


 なんだか賞状授与みたいな形です。


「あ、着替えはそこの個室使って使って。弓実がね、薫子ちゃんのために除菌シートであらかじめ拭いておいたのですよー」


 弓実はなぜか嬉しそうな顔で言い、さすがの薫子も「あ、ありがとう」と素直にお礼を言い、促されるまま個室に入りました。


 受け取ったブラジャーは水泳袋に入っていましたが、幸い濡れていませんでした。


 弓実はちゃんと配慮してくれていたようです。


 しかも、弓実の配慮は続きます。


「ゆっくりでいいからね」


「え?」


「弓実はね、トイレで誰かと会ったら、いつも長話しちゃうの。だからリアリティ出すためには薫子ちゃんと一緒に帰ったほうがいいと思うんだ」


 そう言われて、薫子は自分の考えが足らなかったことに気づきました。


 なにせ既に三限目の授業は始まっているのです。


 なのに弓実が先生に言い訳もせず、トイレにいるとなれば、やや不自然です。


 であれば、弓実は化粧直しのためにでもトイレに寄り、そこで薫子と遭遇して話し込んでしまったと言えば、筋は通ります。


「分かったわ。でも、できるだけ急ぐね」


 薫子は先ほどまでとは打って変わって、穏やかな口調で言いました。


 それに対し弓実は「別にいいのに」と言いますが、薫子は弓実に不要な面倒をこれ以上かけたくありませんでした。


 新しい友達であることだし――。


 しかし、


「あ――!!」


 薫子はある事実に気づき、声をあげました。


 自分でも驚くほど大声を。


「え、なに? どうかした?」


 弓実も、突然の薫子の声に驚いた様子でした。


 ただ、薫子はこの気づきを誤魔化そうか逡巡しましたが、


「――ツ――れた」


 つい口走ってしまい、弓実が「なーに?」とさらに声をかけてきます。


 弓実は聞き取れなかったようでしたが、一度口に出してしまった薫子は、意を決してもう一度、はっきりと言います。


「――パンツも、忘れてたみたい」


「……」


 今度は弓実も聞き取れたみたいですが、さすがの弓実もその心情を言葉にできなかったようです。


 ただ、すぐに薫子が欲しいセリフを言ってくれました。


「それじゃ、もう一回更衣室に行ってくるね。二分で戻るからね」


「ありがとう……」


 薫子は、本当に素直にお礼を言いました。

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