第4話

 英語の授業において朋彦は、二レッスン先の本文を読み進めていた。恐らくこういう仕組みを新たに学ぶだろう、というところを押さえておく。


 暇なので、こっそり生物の教科書を展開する。生物の授業であまり触れられなかった箇所を自分で学ぶ。この前英語の時間に生物の教科書を大っぴらに出して同時並行で勉強していたら、英語教師のルナ先生に怒られてしまった。だから今ではこっそり教科書を覗く。露見しないように学びを進めるのはそれ自体がスリルがあって、何やら憶えもよくなりそうなものだと感ずる。


 ふと、右前に座る芳野のほうを見る。今はノートに何かを書く時間ではないから、右手は無造作に机に置かれる。左手は肘をついて頬杖をつくような姿勢をとる。これは彼女の癖なのだが、左の中指あたりを左の鼻筋にそえるように頬杖をつく。足をちょっとぶらぶらさせて、そして伸ばして右脚を左脚に置く。退屈そうに授業を受ける姿もやはり様になっている。


 外は強く雨が降っていて、風が雨を、校舎の窓に打ち付ける。


 そのありさまが気になるのか、芳野はときおり窓の方を見つめる。左後ろにいる朋彦は、芳野の横顔を見られる場所にいる。鼻も唇も何が良いというわけではないけれど、全体として調和している。少しだけあるそばかすに混じって左ほほのやや上に小さなほくろがある。これがアクセントになっている。


 《視覚透過装置》を用いて、彼女の私生活を覗くのはどうだろうか?


 芳野には彼氏がいる。バスケットボール部の川上慎之介だ。川上は男前の風貌で、誰にでもわけ隔てなく接することができる性格と立場にあった。学校祭の時、オタクグループの男子と、女子の一軍グループの歴史的ともいえる橋渡しを担ったのが川上だった。坂本竜馬のような男。普段も、教室内外のあちこちで、色々なグループの話を聞いている。何か裏話を調整しているのだろう。


 チャイムが鳴って授業が終わって、芳野は涼やかに立ち上がる。川上に目くばせ。そしてこれを逸らす川上ではない。芳野がとことこと川上の席に近付くのを見やりながら、朋彦は隣のクラスに行く。


 隣のクラスの最後尾の窓際に、朋彦の友人の平田進がいた。程なくして、D組の高橋も現れる。最近はポケモンの新しいシリーズの話題で持ちきりだ。ネット対戦が盛んで、三人はそれぞれの戦法や、対戦の成果を語る。


 この他、仲間内ではパソコンゲームが流行っている。巨大な都市構造を延々と探索できる仮想現実空間が人気で、三人は時間を併せて一緒に探索しており、今日の夜はどの方面を探索するべきか相談していた。この仮想現実を提供するサーバは惑星最強のデータ量を誇る。イギリスのマン島の四%の領域が巨大なサーバ施設になっているという触れ込みで、太陽系が巨大な都市構造に呑まれたという日本の古い漫画がゲームのモチーフになっている。世界中で一千万人くらいがプレイしているのだが、都市空間の全貌は供用開始三十五年を経ても全く明らかにならない。朋彦たち三人も、先人たちの「開拓」の成果をもとに都市空間を彷徨う。一応目的はあって、そこにたどり着いたプレイヤーもいるそうなのだが、今もなお巨大な仮想世界に「ハマる」人は後を絶たない。


 平田は割かし進取の精神に富んでいて、未知の空間に飛び込みたがる。一方高橋は慎重派で、ネット掲示板の攻略情報をもとに綿密に装備の耐性を整えてじっくりと都市空間に挑む。


 すぐに休み時間は潰えて、六時間目になる。古典の選択授業。隣のクラスへ移動したのは、ここが古典の選択授業の会場だからだ。指定された席に移り、若い国語教師の授業に耳を傾ける。


 この講師は若いくせに古臭いデバイスを好んで用いる。それぞれの机に取り付けられた、斜方拡張ディスプレイが淡い青い色に光って展開する。机の先に電磁的なディスプレイが投影される装置で、開発当初は持て囃されたと朋彦も聴き及んでいる。だが昨今これを使う教師はほとんどいない。結局黒板に注目させる方が学習の効果があるのだ。だがこの国語教師は斜方拡張装置を用いて、連体形や未然形や係り結びについて図解を用いて解説する。


 朋彦は、古典に意味があるのかないのか、は考えなかった。折角授業でやるのだからそれなりに覚えておく。もしかしたら役に立つかもしれない。


 七時間目はホームルーム。ロングの方だ。学級指導要領の度重なる改訂により、毎日ホームルームの時間が充分にとられている。二十世紀に定められたお題目が順守され、生徒の社会性の涵養が目指される。と朋彦は聞かされている。社会見学やインターンの準備や事後指導など、教科書では学べないことがらに触れられる一方で、なし崩しにテスト勉強に充てられることだってある。


 朋彦が教室に戻って自分の席に戻ると、陸上部の浅尾が近付いてきた。浅尾は長距離が専門の女で、体育のシャトルランでアホみたいなスコアを出したことでクラスに知られる。百七十二回。口数少ない性分で、クラスで二番目の女子のグループにいる。


 朋彦と浅尾とはクラスの広報委員に属している。朋彦が自分のことに気付いたことがわかり、浅尾は口を開く。


「今日の委員会、……ってさ、……何やるんだっけ?」


「ああ、なんだっけ」


「この前のプリント」浅尾が手に抱えていたファイルから紙プリントを差し出す。朋彦は紙プリントを右手で掴んで、瞥見して答える。


「思い出したわ、学祭の報告集を出すから原稿を作るんだ。クラスの出しものとかダンスとか仮装とかまとめて文章にする」


「あーそうだ。写真は委員会の先生が持ってるから選ぶ」


「そうそう」


「ふぁー、一緒にいこ」


 浅尾と連れ立って教室を出る。広報委員会は第二地学室が集会場所だ。第二地学室はおもに一学年と三学年とが使用する教室で、二年の二人には馴染みがない。地学を選択しなければ来年も縁がない。場所は、二学年の教室群から玄関を挟んで向こう側の四階。図書館の近傍、人の多いところからやや外れてある。


 歩く間、会話が続かない。朋彦の部活動のランニングコースは、陸上部も兼ねて走るところなので、浅尾を見かけることがある。朋彦は何度目かの同じような話題を振る。


「しかし走るの早いよね。体力もあるし」


「え……」


「俺は体力がないから、卓球の試合で最初の方のゲーム取っても結局負けることがある。というか多い」


「そうなの?」


「体力つけたいし、そうするようキャプテンから言われるんだけど。でもいくらランニングしても体力がついた気がしねえ! 体力つけるコツってあるの?」


「どうだろ? 私はタイムを縮めることしか考えてないかな」


 広報委員会に二人が選ばれてからこのかた、朋彦は似たような話を何度も繰り返していた。そのことに気がつきながらも、話題と言えばそればかりしかないのだ。




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