第5話
卓球部はこの日も遅番だが、午前からの雨がやや落ち着きつつも降り続いていた。
この場合、体育館の練習までさしたるトレーニングは組まれない。朋彦はこれ幸いと、体育館の更衣室に籠る。いつものように一人で読書をしていると、そとで何やら音がする。弱まって来ていた雨が止んでおり、外で誰かが何かをしている。
カーテンから彼らの挙措を覗く。すぐに昨日のサッカー部の連中とわかる。彼らの探しているモノは、今、朋彦の部屋の押し入れの中にある。絶対に露見することのない秘めごとを噛みしめる。見つからないという結論は出ている。秘密を持って、秘密を持たざる者を覗く。結論は出ているので、しばらくして更衣室の奥、いつものスペースに立ち戻る。いつの間にか頭の中は、《視覚透過装置》をどのように用いるべきかいっぱいになっていた。
やはり、森川芳野を覗こう。それも、家に一人でいる時だ。
交際相手の川上だって届かない領域。いくら仲睦まじかったとしても、パーソナルな時間、パーソナルな空間での一挙手一投足を見ることは叶わないだろう。交際相手にすら見せないしぐさを見られるかもしれない。
クラスの男子が芳野で話すような下世話な妄想を悠々と乗り越え、彼氏で立派な男である川上の見聞きした事柄をも乗り越えて、森川芳野に触れるのだ。森川芳野は寝る前に何をするだろうか。
完璧とも言いうる美少女は、なにか、たとえば足の甲をぼりぼり掻いたりとか、小指で鼻の穴をほじったりだとか、だらしないことを家ではするだろうか。
朋彦は、頭の中が想像で充満していることに気がつく。もしこれを実行に移せば……。
その時、外の声に女のそれが混じっていることに気がついた。
聞き覚えのある声で、かつ、サッカー部とつるむような女と言えば一人しかいない。岡田哉子だ。
カーテンから改めて外をのぞく。サッカー部のユニフォームに混じって、他の女子よりいくばくか短いスカートを身に付けた哉子の姿が見える。
長身の身柄に、この地域に降る粉雪のような肌の色。禁ぜられた化粧をして、生来のゆるやかなくせ毛を活かした長い髪。髪色はまた生来の栗色。服装頭髪検査で必ず指導が入る項目。そのたびに、哉子は激しく教師と対立した。中学の終わりころから、哉子は高校生と遊ぶようになった。高校に入ってからは社会人の先輩との噂が立った。
練習が始まる頃合いに、体育館の廊下で哉子とすれ違った。
「おっす」と挨拶し、哉子は左手を軽く上げる。右手はスカートのポケット。薄化粧の施された顔はなんだかテレビに出てくるモデルや女優のような雰囲気だ。
「何してるの?」と朋彦は返す。
「なんか、さ」
「バドミントンの練習は?」
「いやー、久しぶりに出ようと思ったんだけど、出られる雰囲気じゃなかったからバックレ」
「そう」
哉子は去っていく。内履きのかかとを踏んでいた。
練習の帰り、薄暗くなった駅前の交差点。朋彦が信号で待っていると、向かいの信号に止まる車の助手席に、哉子が見えた。車の運転手は髪を明るく染めた男で、発車するエンジン音は大きかった。しかし明日も高校で会えば、哉子いつも通りの普通の挨拶をしてくることだろう。
家に帰る。居間には誰もいない。昔ながらの電磁行火が付属した炬燵テーブルがある。改良ノーメックスの布団が付随する。これは最近取り換えたもの。
昔ここで、哉子と一緒にお菓子を食べたり本を読んだりしたことがあるのを思い出した。朋彦と哉子とは、家が四軒となりで、それぞれの両親は、同じ年の子供が近くに住んでいるということで仲が良かったのだ。結局二人は保育所・小学校・中学校・高校と一緒の環境にいた。
小学三年生のころ、この居間で、哉子がクラスの男子で誰が好きかを順位をつけて話したことがある。あの時、そんな言葉は未だ知らなかったけれど暗黙の了解らしきものがあった。すなわち朋彦の名前は、順位のランキングから除かれていたのだ。朋彦は、自分が哉子と同じくクラスの女子の順位を言ったか、もう思い出せない。
小学校高学年の時、何人かで集まったお祭りのあと、二人で帰ったことがある。花火の残りを家の前でやった。あの時は、何を話しただろうか。中学校一年の宿泊学習の時、男女ペアで肝試しをしたことがあった。たまたまくじ引きで哉子と朋彦とが一緒になった。あの時は、どうしたのだったか。
そのころまでは一緒に遊ぶことも多かったけれども、思春期に突入すると、この時期からの特有の男と女とのありふれたぎこちなさと、それを支える周囲の雰囲気に曝される。それでも哉子は、昔からの軽妙な態度で朋彦に話しかけてきた。
あるいは覗くべきは、哉子なのかもしれない。
朋彦は、クラスの男子たちが芳野に対して語るような、半ばヴァーチャルな表現や感情や感覚を、自分は哉子に対して持っているのではないかと思い始めていた。
一緒に遊んだ女が、今は同じ高校生であるにもかかわらず、知らない世界に棲んでいる。一般に知られる美少女よりも、覗く距離感としては、こうした女が相応しいのではないか。
四軒隣にいるのだ。それがまた気持ちを昂ぶらせる。芳野の家は鉄道を挟んで向こう側の、あまり知らない地区にある。芳野の家をのぞくのであれば、芳野を追跡して家を特定せねばならないだろう。だが、哉子ならば。今から五分でできる。
そのとき、エンジン音が聴こえて来た。帰りの交差点で聞いたものだ。《視覚透過装置》を持ち出す。「コンビニ行って来る」と母に告げて、上着を着て外に出る。
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