獣の愛

小林 梟鸚

第1話

 物心ついたときから、私は自分を人間では無く、獣なのだと感じていました。どうして自分のお尻には尻尾が生えていないんだろうかとか、そういう事を私はいつも考えていました。しかし実際の自分は、牙も毛皮も無い、か弱い人間の女でした。身体が弱く内向的な性格なので、学校の休み時間は、大抵は小説や漫画を読んでいました。カフカの『変身』や中島敦の『山月記』が、私の愛読書でした。

 そんな青春だったので、私は他人に心を開くことはありませんでした。私には友達と呼べる人間は1人もいなかったし、欲しいとも思いませんでした。当然恋人など、考えた事もありませんでした。ただ、自分が雄狼とつがいになる、みたいな妄想はしょっちゅうでしたが……。こういった妄想は、思春期の私の心身の慰めでした。

 私の内なる葛藤とは裏腹に、私の人生はそれなりに無難に進んでいきました。高校卒業後は、東京のそこそこのレベルの大学に入学しました。そこでもやっぱり私は、必要最低限以上の交友関係を持とうとはしませんでした。当然周りからは「あいつは変な奴だ」というイメージを持たれましたが、自分を一番変だと思っていたのは、他ならぬ自分自身でした。そんなこんなで大学も無難に卒業し、私は地元の小さな会社の事務員として就職しました。この頃になると私は、最早自分自身の欲求について、一種の諦めの境地に達していました。事実として自分は人間であり、獣では無い。妄想や物語で自分を誤魔化しながら、静かに孤独に生きる。それが私の人生だと思っていました。しかし、そんな私の諦観すらあざ笑うかのような運命が、私を待ち受けていました。ある日私は、職場の先輩男性から告白されたのです。

 彼が私に惚れた理由が解りませんでした。最初は冗談かと疑っていると、彼は、今までろくに会話もした事が無いのに急にこんな事を言われても戸惑うよね、でも僕は一目惚れだったんだ、最初は友達からでいいから付き合ってくれ、と言うのです。どうも彼は本気っぽいとわかって、私は大いに戸惑いました。本音を言えば、人間の彼氏など興味はありませんでした。しかし、内気な私には、異性からの告白の断り方が解りませんでした。そこで仕方なく、友達からなら、と、相手のお願いにとりあえずOKしました。

 付き合い始めてからも、私は彼を理解できませんでした。彼は、容姿端麗、スポーツ万能、仕事も完璧と、非の打ち所がない男性でした。私のような冴えない女を選ぶ理由がありません。正直、遊ばれてるのかな、と思っていました。むしろその方がこちらとしては気が楽だったのですが、実際には交際を続ければ続けるほど彼が私にぞっこんなのが伝わってくるのです。一縷の望みにすがる思いで、私は探偵を雇って、彼が浮気をしていないか調査してもらう事までしました。でも、結果はシロでした。これで私が、彼を拒否する理由は無くなりました。

 やがて彼は私に求婚し、私はそれに応じました。婚姻届けを出し、彼との初めての夜――私達は、正式に結婚するまでずっと清い交際を続けていたのです!――、明かりが消えた薄暗い部屋の中で、私は彼の裸体を見ました。確かに彼の肉体は美しかった。ただ一つ物足りない点があるとすれば、それはやはり……獣性でしょうか。彼の肉体の美しさは、あくまで人間としてのそれであり、獣の獰猛さ、残酷さとは別の物でした。私は、彼の肉体から欠けている要素を、何とかして引き出せないかと思いました。そこで私は、彼に、噛んでもいい?と訊きました。

 彼は少し戸惑った様な顔をしてから、優しい声で、いいよ、と答えました。そこで私は彼をベッドに押し倒すと、左手で彼の目を塞ぐと、口を思いっきり大きく開け、彼の喉笛に深々と嚙みつきました。彼は私が甘噛みでちょっとじゃれるだけだと思っていたのでしょう、予想外に本気で嚙みつかれた彼は咄嗟に抵抗しようと試みましたが、私の方も何としても相手を離すつもりはありませんでした。私は死ぬ気に食らいつきました。彼は気道を塞がれているため、叫び声も出せません。最初は私から必死に逃れようとしていた彼も、やがて動かなくなりました。そして、彼の鼓動が完全に止まったのを地肌で感じると、私は最後に渾身の力を込めて、彼の喉笛を食いちぎりました。

 彼の頸動脈が切断され、真っ白なシーツに赤い血が広がりました。これこそ私が、心の底から見たかったもの。獣性の証。人間は誰しも、内なる獣を秘めている。普段は柔肌でそれを覆い隠しているだけ。彼の人間的肉体美の内側に、こうも野生的なパトスが秘められているとは。私は、初めて彼を、心から愛しました。と同時に私は、生まれて初めて、自分自身の事を受け入れられる気がしました。私の身体にも、彼と同じ赤い血が流れているのだから。

 私は、人間です。人間という獣です。今までも、そしてこれからも。

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獣の愛 小林 梟鸚 @Pseudomonas

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