2

 時は少し巻き戻る。


 医務室として割り振られた一室に二人の女性の姿。日中だと言うのに窓は天枠から降ろされた布地で覆われ、薄暗い室内を角灯の炎が淡く周囲を照らしている。見渡せば寝台に腰を下ろして座るアストレアは壁を向き上着を脱いで裸身を晒し。背中に流れる銀髪を手で掬い右の肩口へと纏め上げている。


 美しくうなじから柔らかく伸びる背に白磁の肌が残照に映え、艶かしく影を地に映す。未熟さすらも可憐と表す言葉のままに目を奪われる肢体は名画の如く一つの芸術品と呼べるモノ。その背に立ち、眼差しを送るのも女性。ネセサリアの添う指先は左の肩口に。肌を撫で滑らせる指の動きにアストレアの白磁に朱が混じる。


 薄闇に佇む両者。だが、時を計れば長くなく、軈て触診を終えたネセサリアの指先はアストレアから離れ往く。


「ご苦労様。もう服を着ても良いわよ」


 身を引く気配に短く息を突き、アストレアは纏めた髪を背に流す。さらりと落ちる銀の髪先は腰まで届き。名残を残す柔肌を合間に覗かせる銀の乙女の情景は高名な絵描きをして一画として切り取れぬ事を生涯悔やんだであろう構図であった。


 寝台の横。アストレアが置かれていた上着を手に取り羽織る姿を。流す横目に確認したネセサリアが窓辺の掛紐を引く。さっ、と音を立てて布地が分かたれ。姿を見せた窓から差し込む陽光が室内の濃淡を変化させ。眼鏡に届く光の照り返し、アストレアは栗色の瞳を僅かに伏せる。


「貴女の状態について私の見解は不要......でしょうね」


 問う声に沈黙こそが応え。口数の少ない少女の瞳がそれを物語り。ネセサリアも理解していたのだろう、求めぬゆえに追及の手を緩める事もない。


「分からないのは何故私に診察させたのか、と言う事。事前に聞かされた活躍ぶりと経緯を知る私が今の貴女に対して何を思いどう結論に至るか......予想出来る結果を前にして何一つとして手も打たず運に任せる程に貴女が浅慮だとは思ってはいないのだけれど」


 それとも、と。


 鋭さを増す流美な蒼き泉の眼差しに。視界の隅に映すは身の丈と並ぶ程の鉄刀。運用する概念としてエドヴァルドの大剣と同じくするネセサリアの鉄刀は。しかし刃抜きされ、より先鋭化された形状は、決して折れず歪まず曲がらぬ一個の鋼。全てを打ち砕くネセサリアの信念が体現されていた。


「私を舐めているのかしら」


 纏う気配を凍らせて、殺意を孕む視線がアストレアに向けられる。僅かな沈黙──今度は明確に意思を。アストレアは否定を籠めて首を横に振った。


「私には......」


 可憐な口許を強く結ぶ。


「君が抱いているだろう疑念に対して肯定も否定も許されていない。それが時間を与え......託してくれた彼女の制約ねがいだから」


 見つめる眼差しは真っ直ぐに。


「私の旅には目的があり終わりがあり。語れぬ事柄も話せぬ真実も多くある。けれど......話せぬ事と偽る事は異なるモノ。一時ひとときなりと望まれて羽を休める泊まり木に私なりのけじめは必要だ」


「秘密は明かさない。けれど最低限の誠意は示すとでも? それは随分と都合の良い言い分ね」


「分かっているさ。私が此所に居る事で起きる全てに責任は負えない。だからこそ厭われ拒まれる理由が私にはあり、君たちには私を拒絶する権利があるんだ」


 互いにの瞳が交差して。ネセサリアの腕が窓辺の鉄刀へと伸びる......が、眼差しをそのままに寝台からアストレアは動かない。


「最後に遺言代わりに聴いてあげるわ」


 鉄刀の柄を掴むネセサリアの問いは気紛れゆえでなく、今に思えば生い立ちゆえの必然であったのだろう。


「然して所縁もない者たちの為に身の不利益を承知してまで。何故そうまでして拘るの? 貴女なら分かっている筈。例え村人たちを救ってやったとて......感謝などされない事を」


 己の不幸を嘆き。失われた命に涙して。未来に絶望する。その怒りと悲しみの矛先は甘えとなって救った者へと向けられる。どうしてもっと早く、と。こんな事になる前に と。ただ救われるだけの者たちの弱さに溺れる愚かな思考をネセサリアは良く知っている。


「笑ってくれていい......けれど不幸になりたいと生きる人間はいない。理不尽に嘆く誰かが居たのなら。まだ視界に届く手を掴むのに理由なんて必要ないだろう? 弱さゆえ誰かを傷つけて、絶望ゆえに制御の利かぬ怒り。その向けられる矛先が私なら尚の事。それは救わぬ理由にはならない」


 自嘲に近く......なれど微笑むアストレアの揺るがぬ瞳の信念に。重なる誰かの面影をネセサリアは遠き己の過去に視る。


 小さな農村。


 黒煙を吐いて崩れ往く神殿の養護施設。


 周囲には怒りと憎しみに満ちた多くの眼差し。


 罵声が飛び交い、石が投げられる。


 それは自分の手を取る一際背の高い傭兵に向けられて。


 ──どうして助けてくれるの?


 幾度となく問うた事だろう......自分が、後ろに続く子供たちが。聡い子らは皆が知っていた。この行為が男にとって何一つ得になど為らぬと言う事に。


 ──がたがた五月蝿ぇな餓鬼共。理屈も理由も関係ねぇ。俺がそうしたいと思ったからだよ。文句あるのか馬鹿野郎っ!!!!


 そう言って傷を負い血を流しながらも飄々と歯を剥き出して笑う男の表情を。地獄から掬い上げてくれた恩人の笑顔を今にネセサリアは思い出す。


 人間は一皮剥けば其処に獣を住まわせる。善意の仮面の裏で養う孤児たちを滾らせた欲情の捌け口とする神官たち。神殿の庇護で生計を立てる村人の盲信は真実をねじ曲げて最も弱き子らに憎悪の牙を向く。そんな獣たちが人間と呼ばれる存在であるのなら、己の我儘と知りながら誰が為に損得を越えられる少女の生き様を誰が魔獣の擬態とそしれよう。


 人間が人間たるのは繕った外見に非ず。内なる魂の気概に在るのだと。誰よりもネセサリアはそれを知るゆえに。


「なるほどね......エドが。父さんが気に掛ける訳だわ」


 アストレアと過去の残影を重ね視てしまった時点でネセサリアの敗北は必然で、ゆえに深く......深く嘆息し。そして、ううんっ、と肩を上げて伸びをする。日差しに照らされるその顔は憑き物が落ちたかの様に晴れやかで美しい。


「まぁ、アレね。少し猶予を与えてあげなくも......ないかしらね」


 こほんっ、とネセサリアは最もらしく小さく咳をして見せ。鉄刀を窓際に戻して歩む先。寝台の前の長椅子にアストレアと向き合う様に腰を下ろす。


「腹を割って女同士。少し話をしましょうか」


 一転する状況と柔らかく表情を変えるネセサリアの態度にアストレアは困惑するが、主導権を持たぬ身ゆえに受動的。言われたままに会話の糸口を探して考え込むが......。


 ......。


 ......。


 ......。


「天気が良いね」


「いやっ、下手くそかっ」


 間を開けて絞り出した一言をネセサリアに一瞬の間に否定され。始まらぬ会話の前の沈黙と自分を見つめる穏やかで澄んだ蒼き瞳を前にして。期待に沿わねば解放されぬと悟ったアストレアは別の意味で苦境に立たされる。


 それが気に入った相手に対する儀式の様なモノ、と訊かされるのは勿論、後の話であった。



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