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 膨大な熱を帯び纏う蒸気は朧の内に。浮かぶ影は悪夢のままに。這う事なく身を立たせる異形は見上げるに高く八尺を越える。異常に長い腕を伸ばして爪を地に佇む凶影が人間たちを見下ろしている。


「まったく......冗談が過ぎるぜ」


 忌々しげに呟くエドヴァルド。立ち上がるアストレアに背を。巨躯は油断なく魔獣に向ける。間近で目にした少女の異変。魔獣と同じ緋色の瞳に何も思わぬ筈もない。然れど緊迫した戦場で余談を挟む愚かさを知るゆえに......何より仲間と認めた者に対する信頼は瞳の変質程度で揺らぐ程、半端な生を歩んでき来たエドヴァルドではなかった。


「もう一度連携で押し潰すぞレイア。お前の速度と技術なら必ずやれる」


 得体の知れぬ魔獣が相手。それでも要となる前衛を任せると告げる信頼に──答える声はなく。背中越しに黙する気配は否定を現し横に振られる。


「此処は私に任せて欲しい」


 予兆があり予感もあった。ゆえに反応は鋭く。瞬間に振り返るエドヴァルドの腕がアストレアの胸ぐらを激しく掴む。荒々しくも乱暴に......しかし眼差しに宿す苛立ちは怒りからのものではない。


「分かっちゃいたが、そうやって何でも自分一人でやれますって済まし顔。いい加減に下手くそな演技は止めろや餓鬼っ。もっと仲間を信じて背中を預けてみろ。人生なんてもんはなぁ、結局どう生まれたじゃねぇ......どう生きたかで決まるもんだぜ」

 

 お前の生い立ちや素性なんて関係ない、と。今のお前を見て知って、それでも共に在る俺たちをお前も信じろみせろ、と。エドヴァルドの眼差しはアストレアを。緋瞳を真っ直ぐに揺るぎなく見つめる。


「君は善き父親だなエドヴァルド」


 初めてその名を呼ぶ声は。


 抗するでもなく返す言葉は穏やかで、アストレアらしくない......いや、本来の彼らしい声音であった。それは偶像の英雄としてでなく嘗てエリアスとして仲間たちと生きた日々。今は乙女の身姿ゆえ。微笑む可憐な花の在りし日の追想に.....エドヴァルドの腕の力が僅かに緩む。


「その君が育てた武士もののふたちを私は信じている。でなければあれだけの呼吸を併せた連携技。成せる筈もないだろう」


「なら──」


「あの子を私は知っている」


 その一言が想いの全て。緋瞳の奥の焔が揺れる。


「闇に彷徨う迷い子を君たちの力を借りて化け物として屠るなど......その理不尽を私は許せない。それが例え運命の交差路で擦れ違った程度の縁だとしても......」


 視界に映す不条理を見過ごす事は出来ない、と。


「お前さんは人間が嫌いなんだろう」


 言葉とは裏腹に単身で魔獣の群れに挑む程に。人知れずとも村に残る者たちの為。己すら顧みないアストレアの献身を。一人先頭に魔獣に挑むのは自尊心ゆえの蛮勇からではない事を。常に他者を気にかける不器用な少女の在り方をエドヴァルドは当に気づいている......ゆえに。


 何故其処まで、と繋ぐ言葉に応えるアストレアの微笑みは先程とは異なり寂しげに。


「ああ......大嫌いだ......」


 虚空に消える揺るがぬ決意の悲壮さにエドヴァルドは己の敗北を知る。だからこそ最後に敢えて訊く。


「勝算はあるんだろうな?」


 それは言葉遊びの如く。


「人間にばけものは殺せない」


 と。


 去り際にエドヴァルドの腕を離れた銀の乙女は歩みを進め。それを追う声は最早......ない。顧みぬ銀の背を見送るユリウスと目で合図を交わし後ろに下がる巨躯は前を往く銀影を離す事なく見つめていた。


 動かぬ異形。進める足を止めたアストレアが対峙する。


「久しいな少年」


 掛ける声は優しく穏やかに。応える魔獣の唸りは冥府に漏れる怨嗟の如く。握る白刃の切っ先を地に沿わせるはアストレア固有の下弦の構え。


「知っていたか少年よ。英雄の条件とは何を成したかではない事を」


 例え想いの先に、無念の果てで、何一つとして成せずとも、冥府に堕ちる迄に抗い続けたその生き様を誰かの胸に刻めたら......。


 ──ラグナ·アクタ。


 アストレアを中心に周囲の空間を魔力の奔流が逆巻き唸る。この世界において魔法の名称とは籠められた魔力量によって名を変える。大気に伝導するは撃ち焼き払いたる紅蓮の炎。



「誰が認めずとも私が認めよう。アデル......君は英雄だ」


 ───エスト。


 ゆえに発現するは最高位の撃の一字を以て。現す名は炎撃。


 刹那、異変は顕著に。


 本来は放射線状に放出される熱波となって一切を焼き払い灰燼に帰す筈の炎撃の炎は圧縮し差し伸ばすアストレアの左手に。核となる焔から伸びる紅蓮の炎は複尾の蛇の如く。銀の乙女は螺旋の蛇を己に纏う。


 その情景は壮麗にして厳かに。


 炎を支配し君臨するかの如く麗人に、離れた傭兵たちは陶酔の。魔術師たちの驚愕を。秘めた眼差しがアストレアに注がれる。


「赤の女王......」


 佇む勇姿は染まる赤。ゆえにかたち成す名に漏れた想いは賛美か畏怖か。この場でそれに答えられる者はいなかった。


 猛る緋瞳が魔獣を見据える。


「勇敢なる男子おのこ。人の内なる英雄よ。君の怒りも悲しみも未練の全てで挑むがいい。英雄に立ちはだかるは私の定め。ゆえに全霊を以て応えよう」


 緋色の魔神が人の子に。それは対等と認めたゆえの闘争の始まりを告げる宣言であった。



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