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木々の合間。差し込む陽光が抜き放たれた刀身に反射して大地に長い影を伸ばす。切っ先から反り返る特異な形状。浮かぶ波紋は精巧にして美しく、重ね打ち鍛えられた玉鋼と鉄が織り成す芸術は名匠の匠の技を形に現す。
議論なき名刀。恐らく儀杖用の刀剣として最高峰であろう......しかし飾剣として非の打ち所がないゆえに、本質を反せば実践で扱うには強度に脆く打撃力に乏しい欠陥品。知識に浅いアデルでもその優美な刃が硬質化した魔獣の表皮に傷を付けられるとは思えなかった。
アデルは揺らぐ希望を手繰る様に知らず拳を握り締め.....対照的に皮肉な形で反応する存在がいた。
──それは魔獣。
絶えぬ低い唸りが静寂を打ち破り、獰猛に上体を落として威圧する魔獣の姿に先程までの余裕は既にない。最大の警戒心を宿す真なる魔獣の気配にアデルは己が如何に遊ばれていたのかを知る。対する少女は眼鏡越しに瞳を魔獣に向け、傾けた剣の切っ先は低く地に添っている。構えとしては自然体。魔獣を前に泰然として対峙する少女に年齢に起因する経験の浅さは垣間見られない。
じりじり、と横に移動する事で死角を窺う魔獣の動きに少女は目線だけでそれを追い──瞬間、激しい音を立て蹴り上げられた後肢が驚異的な脚力の起点となり魔獣の四肢が矢の如く少女に放たれる。直線的ではあるが巧みに前肢を交差させ重心を操る事で捉え切れぬ不規則な軌道を描き出し加速する魔獣の全体像を生じた残像が霞ませる。
人間が反応出来ぬ速度。対応出来ぬ柔軟性。迫り来る黒き死に......少女は呆然と立ち尽くし映し出す理不尽な現実にアデルは愕然とする。
牙を剥く必要も爪を立てる必要もない。そのまま激突するだけで全てが終わる。少女の細やかな肢体が要因に非ず、盾を構えた屈強な騎士であろうとも結果は変わらない。魔獣の突進は石壁すら穿つ程のモノ。誰であろうとも脆い人間の体で坑せる筈もない。全身の骨を砕かれ、圧し潰された臓腑を撒き散らす......瞬きすれば訪れる少女の無惨な最後の光景が脳裏に過りアデルは嘔吐していた。
刹那の境界にアデルは──風の歌を聴く。
澄んだ音色が奏でた旋律は一瞬。続いて響く鞘に収まる刃の音に見上げるアデルの視界は少女の眼前に迫る魔獣の凶影を映し──両者が交差する。
「えっ?」
アデルの困惑と驚愕は映すがままに。魔獣は直撃の軌道を自ら反らし少女と触れ合う間際をすり抜ける。近接した圧力で生じた風が銀の髪を舞い散らせ、魔獣に傾けた可憐な面差しの先、緋を宿した栗色の瞳が虚空に流れる。
勢いを殺す事なく凶影はそのまま背後の樹木に激突するかに見えた......が、瞬時に失速する四肢は二つに別たれ地に堕ちる。続く間に眉間から尾までを縦に両断された魔獣の黒血が森の大地を黒色に塗り潰し、去った脅威を目前にアデルの思考は尚も困惑の内にある。
結果を伴う現実を前にしても......それでも理解が追い着かない。少女が振るった見えざる剣の軌跡。魔獣を両断する凄絶なる剣の冴え。その全てがこれまで生きてきたアデルの世界には一つとして存在しないモノ。迷走の果てに抱いた感情は、諦めと言う灰色の常識を覆し塗り替えてくれた存在に対する強い......強い憧憬。人間が抗えぬ脅威などないのだ、と。人間はそれに立ち向かえるのだ。と。焼き付けた現実に溢れる涙が止まらない。
「立てるか少年?」
肩越しに掛けられた少女の声でアデルは我に返る。僅かな刻、惚けていたのだろう、声に導かれ、ふと見上げた先で自分の様子を窺い屈み込んでいた少女の銀の髪が頬に触れその美貌を間近に望む。
次の瞬間、訪れたのは激しい羞恥であった。我に返れば否応なしに意識せざるを得ない。今の自分の惨めさを。上服は汗と泥と吐瀉物に塗れ下服を尿で濡らす己の醜態に。アデルは自分が放つ悪臭を気にして慌てて少女から身を離す。多感な年齢にある少年が美しい異性を前にして感謝より羞恥に意識が先んじてしまった事はある意味で責められない性と言えようか。
「私の名はアストレア。君はセネ村の子供なのだろう? 丁度良い巡り合わせだったよ。協会の依頼で村を訪れる最中だったのでね」
恐らくアイナから簡単に事情を説明されていたのだろう、アストレアからは事態に対する困惑は見られず......敢えて自分から視線を逸らすアデルを見つめる表情にも嫌悪の色は皆無であった。気を使うでもなく、装うでもなく、自分に普通に接して来る少女に対してアデルは応じるべき言葉が見つからず黙してしまう。
「君は何を恥じている」
「あ......いや......」
アデルにとってそれは最も訊かれたくない残酷な問い掛け。狼狽して返事に窮する少年に、少女の伸ばされた両手が頬に触れ、柔らかな感触に驚く間もなく、ぐっ、と前を向かされる。
「もしも君が今の自分の姿を恥じているのなら改めるべきは君の心の内にある。大切な者を守り抜いた代償に恥ずべきモノなど一片もない」
アデルを真っ直ぐ見据えるアストレアの眼差しは誇らしげで......それに、と。視線で促す先には心配そうにアデルの安否を気遣うアイナの姿が在る。直ぐにでも駆け寄りたい衝動を必死に我慢している様子は幼き身にして状況を理解する聡明さを窺わせた。
「あの子にとっての英雄は君だ。なら慕ってくれる妹の為にも空意地を張ってこそ兄と言うものだ。あの子が成長して一人歩けるその時まで君はあの子の英雄であり続けなさい。それが格好の良い
そう微笑む少女の表情は余りにも可憐で──アデルは羞恥とは異なる胸の高鳴りに頬を熱くする。決して全てが吹っ切れた......訳ではない。
──それでも。
「助けてくれてありがとう」
今度は逸らさず真っ直ぐに。前を見て命の恩人に感謝を告げるアデルであった。
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