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蹴り上げた足を大きく前に踏み抜きアデルは駆ける。
進む先、大きく
「そうだっ、相手になってやる!!」
未だに立てず地を這うアイナを視界の隅に映しアデルは全力で走り出す。追ってこい、と己に死を齎す存在に真摯に祈り、想いの先に魔獣の視線は一度アイナを捉えるが抵抗の薄い少女から活きの良い少年の背へと視線を移す。
ぬるり、と始動する魔獣は一歩の跳躍で離されたアデルとの間合いを一気に詰めてその背に肉薄する。驚愕すべきは強靭な四肢が生み出す俊敏性。予備動作なく始点から終点に最速で加速せしめる圧倒的な運動能力。比べ見てどれ一つ人間が到達し得る領域にない。
更に瞬歩、魔獣の首がアデルの肩口に伸び噛み砕く──刹那に眼前の樹木の影へと滑り込む。砕け散る破砕音。幹の半ばを抉り取り悲鳴を上げて倒れる木の枝の合間からアデルを捉えて離さぬ緋色が覗く。
集中しろ、と。意識しろ、と。
息つく暇なく再び駆けるアデルは己を叱咤する。勝ち目なんてないのは知っている。生き残れないのは覚悟の上。それでも必死に足掻くのは自分の命が尽きるまで、この一瞬が、先の瞬間が、アイナの命を繋げるからだ。自分が生きている限りアイナが襲われる心配はない。ゆえにこそアデルは無心に己の全てを懸けられた。
森の内、と言う条件も圧倒的弱者である筈のアデルに味方した。巧みに木々を利用して瞬間を凌ぐ判断力は北の民ゆえの機転。開拓民は魔獣を恐れ、恐れるがゆえに誰よりも魔獣を知る。
──アイナにはちゃんと読み書きを学ばせたかった。
魔獣の鉤爪が幹を削る死の反響を耳元に聴きながら、魔獣の次なる動作を予測して素早く視界を切る様に眼前の樹木の影へと滑り込む。
──文字が読めれば、文字が書ければ、街で生活する事も其処で仕事を見つける事も決して夢ではない。その先で普通に異性と出逢い、当たり前に恋をして、新たな家庭を築き育んで欲しい。
アデルが意識するのは直線的な動きを避け木々を利用した円の動き。魔獣は補食対象に執着する余り狩りの最中は全体的な視野が狭くなる。その性質をアデルは最大限に利用する。
──妹には北の地に縛られた人生ではなく、自らの選択で未来を選び取れる自由な生き方をさせてやりたかった。
「だから俺は」
全身を濡らす大量の汗。絶え間なく脈打つ心臓の鼓動が切れる息に連動する。それでも全力で駆けるアデルの集中力が切れる事はなかった。
★★★
一瞬が命を磨り減らす攻防。彼にとってそれは永遠。現実は束の間なれど、アデルは良く凌ぎ......だが、必然の先に終わりは必ず訪れる。
木々の合間に走り込む......筈のアデルの足は意識だけが先走り疲労の限界を迎えた体は思うに動かず地を滑る形で仰向けに倒れ込む。しかしそれが幸いしたと気付けた状況はアデルにとっての不幸であったろう。
倒れ込まねば確実に背中を抉られ絶命していた魔獣の鉤爪が鼻先を掠め過ぎ、頬に奔る痛みに滲む血の一筋を見る。そのまま倒れたアデルは地面を転がり木の幹に背中を強打して止まり、激痛に息を詰まらながらも何とか上体を起こした視界の間近、鼻先が触れ合う距離に緋なる絶望を見る。
生臭い特有の獣臭。伸びる魔獣の舌が頬の血を舐めとる
──覚悟したこの結末に後悔はない。
しかしそれが恐怖を和らげる救いの言葉にはならぬ事を目前に迫る死を前にしてアデルは思い知らされる。絶望は消えず恐怖は去らず......震えが止まらぬ体は無意識に魔獣に許しを乞う様に頭を下げて行く。
「俯くな少年」
それは凛とした音色であった。
瞬間──目前の魔獣の気配が消える。いや......一足に跳躍して距離を離したのだ。刈り取る寸前の獲物を前にして躊躇なく現れた声の主を警戒する不可解な魔獣の行動にアデルは困惑する。執着する標的を簡単に手放す......それはアデルが知る魔獣の行動にはない行為であったゆえに。
続く現実に理解が追いつかず虚ろな眼差しが宙を彷徨い......求める視線の先に掛けられた声の主の姿を見る。纏う外套が全身を覆い隠す人影と──心配そうに、泣き出しそうな表情で隣に立つ救った筈の妹の姿に極まった感情が零れてアデルの瞳に涙が溢れる。
それは悔し涙。それは嬉し涙。
聡い妹は自分の意図を察した上で、それでも助けを呼んで来てくれたのだ、と理解していたからこそ、自分を想ってくれるアイナの気持ちが嬉しかった。魔獣と言う名の理不尽を前にして辿る結末が変わらぬ事を知るゆえに想いに応えてやれぬ己の無力さが悔しかった。
眼差しの先、涙で霞む人影に抱くのは巻き込んでしまった事への罪悪感。アデルの胸中に入り混じる感情は整理出来ぬ程に複雑に。それでも無責任だと悔やみながら、無理だと知りながらも願わずにはいられなかった。
「妹を......アイナを助けて下さい」
と。
少年は僅かに残された奇跡に縋り、外套の主は魔獣と対峙する形で前に出る。
「君の勇気が紡いだ
抜き放たれる刃の旋律に美しき音色が色を添え、気紛れな風の悪戯か、森を駆ける強風が外套を揺らめかせ、
顕となるは可憐な剣の乙女の姿。
それはまるで物語の一場面を想起させ、絶望を払拭するに足る美しい情景であった。
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