魔獣

 辺境と内地を隔てる北壁は境界の地として広く知られている。勿論の事、脚色された神話や伝承とは異なり長城の外壁の内外で一望する風景に劇的な変化が見られる訳ではない。曖昧に人が示した色分けは残酷に明瞭に。不毛の忌み地に隣接する北の地は瘴気が発生し易い土地柄ゆえに突発的な魔獣の被害が絶えぬ寒季の厳しい痩せた土壌が広がり、現在に至るまで其処に生きる開拓民たちを悩ませ続けていた。


 北壁陥落から二十日。


 北の境界での激戦の残影。今尚燻る黒煙を丘陵の遥かな先より望む内地の森に二つの人影がある。街道からは少し外れ、広がる平原の内に高き木々が生い茂る光景は空より覗けば森と例えるより林と呼ぶべきであろうか。しかし体格的にも小柄な両者の視覚の低さを思えば樹木に囲まれ広がる世界に名称の違いなどは無意味なものなのかも知れない。


「お兄ちゃん......もう帰ろうよ」


「アイナ、あと少しだから、な? ちゃんと兄ちゃんに離れず着いて来るんだぞ」


 不安げな少女と勇ましい少年。対照的な兄妹の様子は年齢的な差異によるところもあるだろう。見た目、十に届くかと言う妹に比べ成人前ではあろうが五つは年上に見える精悍な兄の姿に幼さは見られない。


 少年......アデルは不安そうに周囲を見渡しているアイナの様子に同行を許した事を後悔する。普段であれば絶対に村から離れた森に大人の付き添いなしに連れて来る様な真似はしない。しかし人手が足りない今の村の現状では冬を越す為に少しでも多くの薪が必要だったのだ。


 アデルの村は人口にして二百を越えぬ開拓村。しかも三分の一が国の突如の避難勧告に従って村を後にしていた。冬越えの準備も佳境を迎えるこの季節。それだけの人手を失う事は村に残る者たちには正に死活問題。まだ幼いアイナの背では然したる量は背負えぬ事を承知の上で、それでも持ち帰れる僅かな差が惜しまれアデルが決断を誤る程に村の状況は切迫していた。


 これまで集めた薪の量は自分の家族が冬期に暖を取るには十二分。しかし皆が助け合い共生によって成立している村社会ではそんな理屈は通用しない。村全体で冬越えに必要な量の薪を確保する事は食料の調達と家々の修繕に追われる残された大人たちに代わり子供たちの責務となっていた。補い合い生きる村での暮らしの内で責任感の強いアデルが無理を重ねてしまった事を責めるのは酷と言うものだろう。


 ──だが、犯した過ちが取り返しがつかぬ後悔へと繋がる事がありふれた日常として語られる世界。不注意が招く不条理な理は努力家の少年も年端もゆかぬ少女にも等しく平等に訪れる。


 落ちた枝から薪に適した状態の良いモノを探し拾い集めていたアデルの手が──不意に止まる。屈み俯く頭部の先、草木が大きく揺れる音。伴い伝わる大気の震動にびくり、と体を震わせる。


 北の地は狩猟が成立せぬ程に際立って動物の生息数が少ない。小動物を含めた獣たちの大半が転化してしまう為だと言われてはいるが確かな理由は今だ解明されてはいない......が、今の問題は其処にはない。アデルが抱く恐れの根元はこの地で大型の獣に接するより遥かに高い確率で遭遇する脅威が存在する事にある。


 ──それは。


「ああっ......いやああああああああああああああああああっ!!!!」


 気紛れな風の悪戯......なのだ、と。認めが難い最悪の想像を振り払うアデルの耳にアイナの劈く恐怖の絶叫が否定出来ぬ現実として木霊する。恐れと共に頭を上げたアデルの眼前にソレは姿を現す。前方の茂みから覗くは黒き四肢の獣。災禍の魔獣は爛々と焔を宿す緋なる凶眼を二人に向けていた。


「アイナ......逃げろ」


 反射的にアデルはアイナを庇い前に出る。咄嗟に動けたのは妹への想い。立ち竦まなかったのは開拓民の子としての教えゆえ。


 豊かな大陸の中央とは異なり未開拓の北の地で生きる開拓民と魔獣は歪な共生関係にある。正確には廃せぬ脅威ゆえに前提として魔獣の被害を受け入れる覚悟を幼少期より教え込まれるのだ。恐れていてはこの地では生きられぬゆえ......知恵と言うには残酷な教えと言う名の諦めを。


「大丈夫だアイナ。此所は兄ちゃんが何とかするから......お前は父さんたちに知らせに行ってくれ」


 アイナを安心させようとアデルは無気なけなしの勇気を振り絞り嘘を吐く。例えこの場に大人が何人駆けつけたとしても与える餌が増えるだけ......この先に待つ結末が変わらぬ事をアデルは知っている。人間が抗えぬからこその脅威。魔獣とは理不尽を体現した存在に与えられた忌み名なのだから。


「お兄ちゃん......怖いよ」


「大丈夫......ゆっくり、ゆっくりでいい」


 くぐもった魔獣の呻きが低く大気を揺らし怯え掠れるアイナの声は弱々しく霞みに消え、一方で魔獣から目を逸らさず刺激せぬよう慎重にアイナを促すアデルは自身の死を覚悟したからこそ僅かに生まれた希望に縋る。


 村は街道を挟んだ向こう側。幾ら離れているとは言っても子供が二人で行ける範疇の距離にある。であれば、どちらか一方を救う術はある。アデルは恐怖を噛み殺し魔獣の異形を見据える。魔獣が人間を襲い喰らうのは生きる為の術としてではない。ゆえに魔獣は人に執着する。時に荒々しく喰らい、時に時間を掛けて嬲り、時に性別の区別なく犯し尽くし本能のままに悦楽を享受する。


 それを知ればこそ魔獣の性質を逆手に取れる手段すべもある。獲物を前に踏み出す魔獣の気配を察したアデルは最後にアイナに笑顔を向ける。


「兄ちゃんを信じろ」


 と。


 瞬間──アイナが何かを伝える前にアデルは駆け出していた。全力で対峙する抗えぬ黒き死に向かって。





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