5

 魔神王が行使した秘術は魔法の領域を越え世界に新たな理を刻み付けた。それは世界に満ちる魔法の源たる魔素に法理を廃して干渉する事で原理を歪め瘴気を発生させる空前絶後の大魔法。指して人々は転化の秘術と呼び恐れ、然りて現在に至るまでその脅威は続いている。


 ──真理に潜む裏表。


 魔獣を産み堕とす最悪の外法として知られる転化の秘術は......だがしかし大陸史には記される事のないもう一つの醜悪な秘密が隠されていた。魔神王を討った者にしか知り得ない......それは......。


★★★


「頼まれていたモノは小屋に置いておいたぞ。全く、老人を酷使させおって」


「尊ぶべきは友の存在だな。カーティス......本当に助かったよ」


 頼るべき者が他にいないのは事実なのだろう。だが口許を緩めて謝辞を伸べる少女の姿に嘗ての友の面影を重ね見た老人は苦しげに表情を曇らせる。


 もし誰かに語り聴かせればアレを運命と呼ぶのだろう。しかし当事者の一人としてあの場に、共に魔神王と相対した者としてそんな簡単な言葉で表されたとすれば胸中の平穏を保つ事は難しい。


 一人の英雄の尊い犠牲によって魔神王は滅び去り世界は救われた。それは確かな歴史の史実。同時に隠された真実の欠片が決して世に出る事がない事を老人は知っていた。己を含めた当事者たる六英雄の全てが黙して語らぬ......言わば歴史の改竄に加担した側の人間であるからだ。


「旅に出るのかエリアス。まあ、それもよかろうて。あれから半世紀......世代も移りベアトリクスを知る者も多くはあるまい。なによりそなたが全てを背負う必要などないのじゃからな」


 緋瞳を欺く為に魔術的な細工が施された眼鏡。細身の女性でも扱える様に鍛え直された特注の剣。旅装に適した衣服の数々。頼まれた品々を見れば目的は自ずと察せる。


 六英雄の全てが在野に降った訳ではない。望まれ国を興した者。求められ国に仕えた者。それら世俗に関わる仲間の内には己が存命の内にエリアスが再び世に出る事に危惧を覚える者たちは居るだろう。当然だ。数多の犠牲と悲劇を越えて手にした平和を脅かす堕ちた英雄の再起を望む者はいない。


 だがそれでも、と。


 老人はそれでも自由に生きるべきだと思っていた。


 英雄の犠牲の上に成り立つ世界。その歪みは何れ必ず訪れる。運命とやらが必然の結果であるならば、背負わせた業に向かい合うべきは英雄に非ず、祭り上げた大衆の側にあるべきなのだから。


「旅には出るつもりだ。少し先の未来の話になるだろうけど」


「なんじゃ、先の話だとっ!! 送り付けてきた手紙には急ぎの用に書きおって。お陰で儂がどれ程の手間と労力を使わされたか。大体この地に転移する為の準備にしても儂が......」


「そう怒るな、俺にしてはましな口実だっただろ」


 肩を怒らせて抗議する老人に曇りなく、しかし何処か照れ臭そうに笑う少女の仕草に、実に彼らしい不器用な様子に、懐かしさが先に立ち自然に言葉を飲み込んでしまう。


 自身を殺した相手を強制的に転化させ復活を果たす──魔神王の輪廻の法則すら捻じ曲げる恐るべき転化の秘術。事前に知る術がないゆえに避け得ぬ狡猾で最悪の呪い。しかしエリアスはそれに打ち勝った......それを信じたからこその現在いま


 肉体の変質に至る侵食と支配に及ぶ精神汚染。他者には窺う事すら敵わぬせめぎ合の果て、その先に困った様子で剣を手渡してきた彼を例えて表すは不撓不屈。窮しても敗せず。不倒の旗の如く誰もが憧れた生き様の......失われる事なく変わらぬ片鱗を見出せたからこそ──。


「このど阿呆めっ。まあ良いわ、無駄な名声と権威が邪魔をしてな、この歳にもなって酒の相手に困っておったのだ。儂とそう歳が変わらぬと言うに乳臭い小娘に変わり果てた馬鹿者を酒の肴に大いに騒ぐのも一興よ」


 一方的に捲し立てる老人に賢者と讃えられる叡知の影はなく、だが既に遠い過去、未熟な冒険者たちの危うい冒険譚。少年期に嘗て見たお調子者の友の面影に、偏屈な爺さんだな、と呆れた少女の澄んだ鈴の音は何処か楽しげであった。


 踵を返し小屋へと向かう少女と老人。先導する小さく華奢な背に老人が掛けた言葉は必然か......遥かな過去の残影を今に思えどもその真意を知る術はもうない。


「なあエリアスよ。先の世で六英雄などと言う下らぬ偶像が廃されておったなら、その時は名は捨てよ。名に縛られて生きるなど過ぎたる業をお主が背負う必要はないのじゃからな」


「カーティス......俺は」


 不意に背を押す老人の手の温かな感触に少女は続く言葉を詰まらせる。


「晩年は星見に嵌まってしまっての、星読みの最中に気に入った星が一つあるのじゃが、餞別にそなたにその名を譲ってやろう」


 かっか、と愉快げに笑う老人。星の名を勝手に与えると言う理屈に外れ正当性の欠片もない暴言を咎める者など居る筈もなく──語るは極北に輝く一等星。高く高く遥かな空より闇夜を照らす孤高の星。見上げ仰ぐ古の女神を冠した星の名はアストレア。


 空の大海に輝き誇る美しき極星であった。

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