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ナグア王国領─セイレム─。
王国領内でも最も辺境に近いセイレムの街は冬の到来を間近に控え、長年続く隣国との戦も例年に倣い休戦協定が結ばれるこの季節、旅人の往来も少ない北の街は本来であれば閑散とした街並みが広がっている──筈であった。
が、北壁陥落の一報が領内を駆け巡って数日。今や一躍最前線の地として、最重要拠点として、例年には見られぬ活気と喧騒に包まれていた。
人の往来が絶えぬ大通りに目立つのは旅人とは異なる雰囲気を漂わせる男女の一団。名の知れた者から経験浅き者まで。北壁で戦った者や新たに集った者。経緯の程はそれぞれではあるが新たに公布された褒賞金を求め各地から傭兵たちがこの地に最集結を果たしていた。
セイレムの街の中程、通りの面した一角で宿屋を構える子羊の営み亭は、各々が物騒な得物を脇に携え騒ぎ酒を飲み交わす傭兵たちの姿で溢れ、客層こそ好ましくはないものの、宿泊部屋も一階の酒場も連日満室満席と言う時ならぬ景気の良さに店主も働く女給も慌ただしくテーブルを駆け回っていた。だからこそだろう、気風として他者を詮索せぬ傭兵たちは兎も角としても詮索好きな宿の者が隅の席に座る不釣り合いな二人組に気が回らなかった事は彼らにとっては幸運であったと言えただろうか。
「レアさん、本気ですか? 今回王国が提示した報酬額は相場の二倍ですよ。一年は遊んで暮らせるだけの額を稼げる好機をみすみす見逃すのは担当として了承し難いのですが」
「気が乗らない、それに別に目的が出来たから」
二人掛けの手狭なテーブル席に向かい合い座る男女の姿。声高に抗議している青年は気紛れな相方を恨めしそうに眺めやり、利発さを窺わせる容貌を僅かに崩して深く落胆の息を吐く。
対する人物はと言えば、青年の年を数えて見た目二十一、二。それより年嵩とは言い難くまだ成人した女性と呼ぶには外見的特徴からも幼さが見て取れる。しかし外見の印象からは相反して終始落ち着いた声の調子からは年の差が大きく離れていると言った様子は見られない。
最も青年とは異なり屋内でも外套を纏ったままフードを被り容姿を隠している時点で十二分に異質に過ぎて人目を引いている上に、加えて他者に与える印象的にも腰に携えた細身の長剣は余りに見た目に削ぐわず逆に悪目立ちしている。本人の自覚は別として訳有りに過ぎて恐らく青年の同伴でなければ門前払いされていた可能性を考慮に加えれば成立している両者の関係性......その一端が垣間見れたと言えるだろうか。
「北壁を越えられた。けれど大きな犠牲を対価に十分な打撃を与え楔は打ち込めた。分散した群れが領内で再統合される危険性は私の経験上考慮に値しない。連中は其ほど狡猾でも賢くもないからね」
少女......アストレアは手にした麦酒を喉に流し青年を見据える。精巧な意匠を凝らせた年代物の眼鏡を掛けた彼女の瞳は硝子を通して淡い栗色。魔獣特有の特徴として知られる妖しい緋色の輝きは硝子越しには見られない。
「未開拓の北の地は広大で余程に不運が重ならなければ出会い頭に魔獣と遭遇する危険はまだ少ない。周辺の開拓村に避難勧告がなされている現状で各個に潰していけばいいのなら最小限の被害に留める対処は可能だし、代わりが居るのなら私である必要性も感じない。それに......」
国絡みの依頼はもう懲り懲りだ、と再度麦酒を呷り小さな喉を鳴らす。
青年にして見ても今度の顛末には少なからず思うところがあるだけに、まして依頼を斡旋した橋渡し役として王国側の不備と不始末には協会の末席に属する者として責任も感じていた。それゆえに強く反論も出来ず続く説得の言葉を飲み込んでしまう。
大陸史に魔獣の存在が確認されてから三百年以上の時が経つ。長きの時代を経て魔獣の生態の多くが解明されている現在では幼年期からの教育も進み、嘗ては発生の起源とされていた魔神王の実存は既に否定されている。ゆえに付随する六英雄の存在と共に創作された虚像とされる定説が広く民衆にも定着され空想の英雄譚と現実の脅威を混同する者はもうこの時代には居ない。
しかし、魔獣に関する古い文献や迷信染みた伝承を廃した結果として生じた負の側面もまた存在していた。人は身近な脅威である魔獣に余りにも慣れ過ぎてしまっていた。何時しか人間は街道で魔獣に襲われる被害も、魔獣の群れに街や村が襲われる悲劇も、盗賊の襲撃や戦争で引き起こされる蛮行と同列に捉える様になっていた。人間が行う所業と人外の化け物の脅威を同じ土俵で語る危機意識の希薄さ。未知なるものに対して抱くべき畏怖の欠如が北壁の陥落の大きな要因であると青年は考えていた。
今回、辺境の地で観測された瘴気の濃度と範囲は転化した魔獣の群体の規模からも知れる通り過去に見られぬ程のもの。にも関わらず大陸諸国は慣習に倣い義援金を送るだけで義勇兵の派遣にまで踏み切った国はない。当事国のナグア王国の対応は更にお粗末で協会を通じて傭兵を募りはしたが、報償金を抑え義援金の枠内で対処しようとした結果、傭兵の頭数すら十分な数を揃えられたとは言えず、加えて南方領での隣国との紛争に正規軍の大半を動員していた為に北壁に常駐する部隊を合わせても王国が派遣した正規兵の数はごく少数に留まっていた。
類に見ない魔獣の群体を相手に万全を期さずして勝機など覚束無ぬのは自明の理。北壁の陥落は予期せぬ事態ではなく怠慢が生んだ必然だと青年はその先の未来にこそ危惧を覚えていた。
万が一、このセイレムまで魔獣に蹂躙される様な事態に及べば王国の存亡に関わる大事に発展する。もう次がないからこそ、魔獣に精通する彼女の様な傭兵の離脱はどうしても避けたかったのだ。それは傭兵の効率的な運用と促進の為に設立された協会に属する使命感から......ではなく王国に住む家族の身を案ずる青年の私情が反映されていたと言い換えても良いかも知れない。
アストレア......この美しい傭兵は優れた容姿が仇となり他者には測れぬ苦労をしてきたのだろう。ゆえに人間嫌いを公言して憚らないこの少女は情に浅く感情論は通用しない。ではどう説得すればもう一度やる気にさせられるのか。青年は頭を悩ませていた。
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