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 己の血と汗で濡れる剣の柄を男は残る気力を振り絞り強く握り締める。周囲を見渡せば仲間だったモノの残骸が四方に散らばり他に生者の気配はない。東西に長く伸びる外壁自体を連絡通路として防衛戦を構築するこの北壁において要となる枝砦の一つ。男の視界に広がる光景はその崩壊をまざまざと映し出していた。


 外壁へと上る大階段に、併設された兵舎に、そして今自分が立つ大広場は、死屍累々、屍の山が積み重なっている。燻る炎の黒煙が天を焦がし幾百もの亡骸から流れ溢れる血は大地を、石畳を赤色へと染め上げていた。


「北壁が……堕ちる」


 映し出される現実に己の脇腹に奔る激痛すら忘れ男は呆然と、だが確かな絶望が口許から知らず漏れていた。


 外壁を突破した魔獣の群れの気配が皆無なのは蹂躙され喰らい尽くされた惨状が全てを物語り推測を越えて事実に辿り着く事は余りに容易な事だった。既に複数の魔獣がナグア領内へと災禍の歩みを進めたゆえであろう事に。


 補給と移動の起点の一つであるこの枝砦の陥落は長城である北壁の西方部の防衛網に多大な機能不全を引き起こす。傭兵ではなく王国の騎士として北壁に召集されていた男にとって北壁の構造を周知するゆえにそれは自明の理。意識を失っていた僅かな刻限では例え全体的な局面に劇的な変化は見られなかったとしても何れは必ず崩壊する。最早修正が効かぬ程に天秤は大きく傾いてしまったのだ。


 だからこそ、男は最後の役割を果たすべく一歩を踏み出すが、踏み出した先、尋常ではない激痛に更なる歩みを鈍らせる。引き裂かれ原型を留めぬ鋼の胸当て。下腹部を抉る傷痕は深く広く、皮膚を裂き骨を絶つ傷口から溢れ落ちそうになる己の臓物を男は剣を握らぬ残る手で必死に押さえ込む。それは明らかな致命傷。だが揺るがぬ意思が、気力が、男の足を更に一歩進ませる。


 しかし──男に残されていた猶予は余りにも短かった。


 壊滅的な被害を告げる非常用の狼煙を上げるべく大階段へと向けた視線の先、外壁の縁に前足を掛ける複数の獣の影を、登り来る魔獣の影を男は視覚に捉えていた。


 考えても見れば簡単な理屈。あれだけの規模、あれだけの数の魔獣の攻勢が外壁の一部を突破されたからとて瞬時に過ぎ去る筈はない。新たに続く魔獣の波が押し寄せるのは必然の結果と言えようか。


 四足の黒い獣の群れは抗う者なき外壁を容易くよじ登り次々と姿を見せ始める。時代は進み今は魔獣の生態の多くが解明されている。大きく分けて二足と四足の魔獣。体内に侵食した瘴気によって転化した生物は概ねこの二種に大別される。人間やその骸が転化する二足の魔獣は思考の残滓を残す個体が発生し易く最も厄介とされてはいるが転化に至る瘴気は高い密度を必要とする為に個体数としては少ない。対して災厄の代名詞とされ魔獣の大半を占める四足の個体は肉食、草食の区別なく野生の獣が転化したもので此方は辺境の様な瘴気の蔓延しやすい地では群体を形成する程の圧倒的な数の発生が幾度となく確認されている。


 ゆえに、見上げる視線の先、禍々しい緋色の眼光を男に向ける魔獣の群れは全てが四足歩行の獣のなれの果て。だが驚異度において四足の魔獣は個体差が少ないとされる認識はこの場では救いの言葉にはならないだろう。数の暴力で蹂躙された今の状況を見れば知れる。対峙した者にとって魔獣の恐ろしさに区別や区分など意味など為さぬまるで無意味なモノなのだから。


 狼煙が設置された外壁の通路は魔獣に占拠され阻まれる形になった男の足は止まる。進退極まったとは此の事だろうが、これが不運かと問われれば否と答えざるを得ない。元々瀕死の自分が生き残れたのは意識を失って昏倒した場所が魔獣の死角に位置していただけの偶然の産物に過ぎない。この運命に意味などないのだと悟れる人生経験を、男はそれだけ現実の不条理を知っていた。


 一体の魔獣が外壁から跳ね上がる。跳躍と呼ぶには余りにも規格外のソレは高々と、向かう軌道の先に男を捉え────遥かな頭上の先から襲い来る黒き死を前に既に握った剣を振るう余力すら残らぬ男に抗う術はない。


 現実は物語の様にはいかぬもの。


 走馬灯と呼ぶべき刹那の狭間。男の脳裏に王都に残した妻子の姿を其処に見る。己の幼い息子に幾度と聴かせてやった物語。それは自身の幼少期、憧れた英雄の冒険譚。今さら垣間見るそんな過去の心象風景を男は最後に未練と自虐する。


 ────瞬間。


 大気を裂いて涼やかな笛の音色が鳴り響く。それが流れる剣閃が齎す風鳴りだと気づいたのは見開いた眼に映る魔獣の首が撥ね飛ばされた後の事。振り抜かれた白刃を手に突如現れた人影は男と魔獣の間を分かち流れる長い銀の髪が男の頬を僅かに撫でる。


 斬ったと言う結果を目にした事で振るわれた剣閃の過程を知る。それがどれ程までに尋常ならざる剣技の冴えかなど武人である男には語るまでもなく、まして鋼に勝る魔獣の首を紙切れの如く断ち切る技量の凄まじさは最早、定義されるべき人の技の範疇にない。


 が、救われたと言う確かな現実を前にして男は眼前の人影を知らず凝視していた。驚愕の瞳が映すのは時折舞い落ちる粉雪にもまして白い肌。戦装束を纏う精霊の姿。男は美しき救い手の姿に痛みを忘れ息を飲み同時に戦慄する。


 少女の男に向けられる瞳。それは更なる背後に蠢く魔獣と同質の、緋色の輝きを宿していたゆえに。



 


 

 

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