第7話 脱出
アリサが軟禁されてから一週間が経過した。
予定ではグランの「とりあえず」の契約終了日である。アリサはグランの歯に衣着せぬ物言いと如才ない接し方が気に入っていた。数日間、二人だけで過ごしていると、まるで旧来からの友人のようにも思えてくる。
日中は其々に好きな本を書庫から持ってきて読み、食事の時間になると読んだ本の感想や新しい発見などをお互いに披露し合う。時には子供の頃の思い出話や女性ならではの悩み、グランが街で仕入れた噂話など他愛ない話もした。グランのお蔭で軟禁状態にも関わらず、それなりに有意義な日々を過ごせた。アリサはグランにとても感謝している。もしグランがいなかったらと思うと居たたまれない。
グランはいつもより半刻ほど遅れて現れた。アリサは何かあったのかと心配していたが、顔に出さないようにして普段通りに出迎えた。
「今日は、遅かったのね」
「ご免なさい。急いで朝食にするね」
慌ただしくテーブルに朝食の準備をし、持参したミルクを小鍋に入れて暖炉で温める。
「枢機卿に会ってきた。結論から言うと、もう二週間の契約延長だって。秘書官が暫くの間不在らしくて、その後のことは戻ってから決めるって言ってた」
「良かった。グランが来るのが遅かったから、もしかしたらと思って不安だったの」
「そう言ってもらえると嬉しいけど。でも、要はあと二週間は軟禁が続くってことなのよ。アリサは大丈夫なの」
「うん、まだなんとか。グランが一緒に居てくれればやっていけそう」
「ちょっとくすぐったいわね。まあ、私は報酬がもらえる限り続けるつもりよ。今日も報酬は前金で貰えたの。さあ何を買おうかしら。アリサも何か欲しいものがあったら遠慮なく言ってね。生活に必要な物なら教会からお金が出るし、ちょっとしたものなら私がプレゼントしてあげる」
「あの、出来ればでいいんだけど・・・」
アリサは言い出しかねるように一拍の間をおく。
「できれば、替えの
「ごめん、気付かなくて。そうよね。修道院に行けば下着ぐらいあるはずだから、後で取ってくるね。なんてことかしら、私としたことが」
グランは、本当にごめんなさいねと言いながら、アリサを抱きしめ両手でアリサの背中をさすった。
「大丈夫よ、有難うグラン。あなたには本当に助けてもらっているのだから、そんなに謝らないで」
「アリサも遠慮なんかせずに、欲しいものがあったら何時でもいってね」
じっとアリサを見つめると、頭を撫でて優しく微笑む。本当に信頼できる母か姉のようだ。二人で朝食の準備を整え、温まったミルクをカップに入れて籠からパンとチーズを出して皿に並べる。
「でも、いつまでもこのままで良いって訳はないし」
「うん。問題は私がどうすれば、あるいは状況がどう変われば、この状態から解放されるのかが分からないことなの」
「そうね。解放の条件って言ったらいいのかしら」
「そう。今はまだ読みたい本も沢山あるし、グランもいてくれるからしばらくは大丈夫だけど」
「まさか、一生ってことになったらね。もしそんなことになったら、私がどこかで男を調達してきてあげる」
グランは頭で想像した最悪の事態を消し去るように茶化して言う。艶話に慣れないアリサは真に受けて耳を赤くして困惑している。
「男なんて。そんなこと、私は望んでないわよ」
「あら、純真無垢な歳でもないでしょう。それとも、何もせずに女性として枯れてしまってもいいの」
「そういうわけじゃないけど・・・。でも、軟禁されてる状況で、いきなり男とか言われても」
「いいじゃない。準備をしておいても損はないわ。それに解放されたらされたで、男がいても問題ないでしょう」
「それはそうだけど。私はまだ魔導士としてやりたいことがあるから、そういう気分にはまだちょっと」
「何言ってるのよ。未知のことに怯えてるだけでしょ。私に任せときなさい。良さそうな男を探しておいてあげる。でも、表にいる衛兵の二人はだめよ」
「衛兵ってなに」
アリサは急に衛兵の話になったので意味が分からず怪訝な顔をする。
グランはしたり顔で続ける。
「そう。あの二人はもう私が唾つけちゃったから」
「まさか。二人ともグランと男女の仲ってこと」
「お互いは知らないと思うけど。二人とも中々いい男なのよ」
「そんな、二人ともなんて。誰かに知られたら密告されて色欲の罪で捕まるわよ」
「大丈夫よ。奥さんでもいるなら別だけど、二人とも若くて独身で恋人もいない。若い男の子たちは神の慈悲ぐらいに思って罪だなんて考えもしないわよ」
大人の女性とはいえなんて破廉恥なんだとアリサは思う。女子の貞操とはそんなに軽々しいものではない。巷ではそういった色恋もあるとは聞くが皆がそうとは限らないだろう。他に聞く者が誰もいないとはいえ余りに無節操ではないか、と考えながら、ふとアリサは気づく。
いや、気付いてしまったのだ。
衛兵は血気盛んな若者である。うら若く秀麗な女性が一人で過ごす館の衛兵であり、夜通しで見張りをしている。そして何より二人は鍵を持っている。つまり、夜中に誰も見ていない隙に鍵を開けて建物に忍び込むことなど造作無いのだ。そもそもアリサが館に寝泊まりしていることを知るものは僅かでしかなく、相手は軟禁の身、何があろうと誰も興味を示さない。都合の良い条件が揃いに揃っている。
真意は分からない。分からないが、グランにとってはアリサを守るための一つの取引なのだ。きっとそうに違いないとアリサは確信した。なんてことを、どうしてそこまで。アリサには続く言葉がなかった。
「そんなに軽蔑しないでよ。もう少し大人になれば貴方にもきっとわかる」
アリサの感情が顔に出てしまっているのか、グランはわざと声の調子を上げて話をそらす。
「兎に角、少なくともあと一週間は解放されないんだから、これからもよろしくね」
「うん、私こそ宜しくお願いします」
アリサは畏まって丁寧にお辞儀をする。グランはそんなアリサを優しく見守っていた。
数日後。
夕食を終えたグランは片付けを済ますと、戸締りをする前に窓を開けて部屋の換気をする。いつもと違って今日は口数が少ない。悩み事でもあるのか一日中考え事をしているようだった。
外では早朝から降り始めた雪が絶えることなく舞っている。もう随分と積もっているだろう。今冬に入って初めての大雪で教会の魔導士もみな早々に帰宅してしまっているのか、建物の周りは音もなく静かだ。
いつもならグランも帰宅する時刻なのだが、思い立ったようにお茶を入れ始めた。
「さすがに寒いわね。帰る前に暖かいものでも差し入れして上げようかなってね」
衛兵に対する気遣いだろうか。先日の話もあってアリサは複雑な気持ちだった。グランが衛兵をうまく手懐けることがアリサを守ることになる。グランの衛兵に対する何気ない行為がアリサの頭の中では全てそこに帰結するのだ。
二つのカップにお茶を注ぐとグランは書庫を抜けて入り口の扉を叩いた。鍵が開くと二人の衛兵を招き入れお茶を進めている。三人で何やら楽し気に話をしている。雪の日だ、多少警備を疎かにしたところで咎めるものもいないのだろう、衛兵は完全にリラックスして会話を楽しんでいる。
しばらくすると会話が途絶えた。二人分の足音が部屋に近づいてくる。グランが扉を開けると、後ろには見たことのない男が立っている。アリサが急転に驚いていると、急げ、と男が声をかけた。
グランは、男が持参した麻袋を縫い合わせたような外套を強引にアリサに着せ、フードを頭にかぶせた。自分も同じものを着用する。
「アリサ、逃げるわよ」
と言って腕をつかんで強く引いた。アリサは混乱していたが、一先ずはグランの言う通りにした。小走りに書庫を抜けると入り口には衛兵が倒れている。大丈夫、眠っているだけよとグランが教えてくれた。
衛兵の腰ベルトから鍵束を抜き取った男は、先頭にたって裏木戸まで進んでいく。そこから脱走するのだろうか。
「教会には私が帰宅するまでは結界を張らないように頼んであるの。でないと私が家に帰れなくなるからね。まだ衛兵の合図がないから今なら外に行けるはずよ」
グランの言う通り男が鍵で木戸を開けると、なんの障害もなく教会の外に出ることが出来た。
教会から西方向にしばらく進み水路に出ると、そこには一艘の船が用意されていた。船にはいくつかの樽が積まれており船尾には教会の旗が風になびいている。アリサは一つの樽に隠れるように言われ、仕方なく入り込んだ。樽の中には何も入っておらず、人が入るのに十分な広さであったが、とにかく臭い。今まで嗅いだことのないような異様な悪臭だ。グランも同じように隣の樽に収まり嗚咽している。
男は空気取りの分だけずらすように蓋をかぶせると、並んだ樽全体を布で覆い、船を漕ぎだした。水路はこのまま行けば教都ルブニールの中央を縦断するように流れる、開祖の名を冠したイブルス川に合流する。
しばらく何事も起こらぬまま船はイブルス川に合流し、緩やかな流れに乗る。男はかぶせていた布と樽の蓋を取った。新鮮な空気が流れ込み臭いも多少は拡散され、ようやく人心地ついた。
「俺の名前はヴァン。ギルドのもんだ。あんたの逃走の手助けをするように頼まれた。このまま城壁の外まで逃がす。その後のことはグランに聞いてくれ」
アリサは戸惑いを隠せない表情でヴァンを見上げた。隣の樽に入っているグランが話を引き取る。
「アリサ、黙っていてごめんね。実は私もギルドでね、アリサの世話係も含めて請負仕事ってわけ」
グランが申し訳なさそうに告白する。
「今日の事は貴方が軟禁され始めたときから計画されていたの。依頼主は誰だか私達は知らない。ただ、世の中にあなたを助けたいって思ってる人がいるってことなんだと思う」
アリサは思い当たることは何もなかった。私を助けたいと思っている人なんているはずがない、逆にいないことに確信があった。樽の中で膝を抱えて縮こまりながらじっと考える。何も言葉がでない。
「実は貴方が高等法院に枢機卿を尋ねに行く数日前には、既に世話係の依頼があったの。あなたにとっては青天の霹靂だったでしょうけど、相手は用意周到、事前にすべてを整えていたってこと。あなたが館に来た時には、既に私が部屋にいて受け入れる準備を済ませていたってことが何よりの証拠ね」
ヴァンと名乗った男が船の櫓を漕ぎながら口を挟む。
「その枢機卿とやらの策略がどこかで漏れたんだろう。同じタイミングでギルドにも仕事の依頼があり、お前が軟禁され始めた日からグランとは連絡を取り合って逃走計画を何種類か練っていたのさ」
案外と楽勝だったなとヴァンは呟く。後は城門をくぐれれば、だけどな。
川の流れに乗って船は城壁に向かって進む。しばらく樽の蓋が開いたままだったので、多少は臭いも我慢できた。あるいはこの悪臭こそがアリサに正気を保たせているのかもしれない。
何もなければ疑心暗鬼で発狂していたかもしれない。枢機卿やラグ隊長がアリサに言った話はすべて嘘だった。グランもギルドだということを今まで隠していた。もしかするとグランがアリサに親切にしてくれたことや、身を守ってくれたことも別の策略かもしれない。今こうして逃走しているということも全部嘘で、もっと劣悪な場所に移されている可能性もある。何を信じて良いか分からなかった。
城壁が見えてきた。ヴァンは樽の蓋を閉め布を被せた。城門に近づくと門番が手招きする。ヴァンは船を門番のほうに向けると、腰を低くして媚びた態度で挨拶する。
「お寒い中、ご苦労さまです」
「いつもの爺さんと違うな」
「はい。雪が降っておりますので、爺さんが腰や膝が痛くて動けないというもんで、仕方なく私が」
「念のため樽を検品するが、良いな」
「私は構いませんけど、よろしいのですか」
そういうとヴァンは覆ってた布を半分ほど引き剥がすと、一番手前の樽の蓋を開ける。一気に悪臭があたりを包む。門番は鼻をつまんで悶絶する。その姿を横目で見ながらヴァンは二つ目の樽を開けようとする。
「もうよい。いつも通りだ。とっとと行ってくれ」
門番は船から距離をとるように後ずさる。教会の旗を掲げているのでお墨付きなわけだが、わざわざ検品などするのは、いつもと船頭が違うことへの用心と、自分の威厳を示すだけの芝居なのだろうが、そんな取るに足らないプライドでは悪臭には勝てっこない。
そのまま船で城門をくぐり抜ける。雪の降りが強くなってきており、ほどなく門番の姿も見えなくなった。ヴァンは辺りの様子を窺い誰もいないことを確認すると、二人が入った樽の蓋を開ける。アリサとグランは同時に立ち上がり、鼻ではなく口で大きく呼吸した。幾度か深呼吸をして気も落ち着いたアリサは、ヴァンに向かってこの臭いは何なのと訊ねる。
「知らないほうが良いと思うけど」
「いいから教えなさい」
アリサはとぼけた態度のヴァンに少し強い調子で詰問する。ヴァンはしばらく逡巡していたが、どうしてもと言うのならと教えてくれた。
「糞尿樽だよ。街で出た糞尿を場外に捨てに行くための樽さ。ここにあるのは聖イブルス教会印の正真正銘魔導士様の糞尿さ」
途端にアリサは吐き気をもよおした。耐えるそばから涙がこぼれてくる。
「だから知らないほうが良いって言ったのに」
ヴァンとグランは声を殺して笑っている。グランは知っていたのか。承知でこの計画に乗ったのか。アリサは悔しいと思うと同時に、あまりの手際の良さに感嘆もしていた。あとは、これが本当に逃走であることを祈るばかりだ。
寒さに耐えながら流れに乗って川を下ると、やがて現れた船着き場で船を止めた。
「ここから先は歩きだ。案内はグランがしてくれる。おれは荷の始末があるからここ迄だ」
ヴァンに急かされ二人は雪で覆われた地面に降り立つ。
「ここまで有難う。後の案内は任せて。それと荷物はちゃんと片付てね、くれぐれもその辺に捨てるんじゃないよ」
グランは子供に言いつけるように指図する。
「まあ、これも報酬の内だ。それに糞尿も農夫にとっちゃお宝だ。大切に運ぶさ」
ヴァンは船を漕ぎ出すと見る間に視界から消えていった。
「アリサ、とりあえずここまでは順調に来れた。だけど大変なのはこれからよ。朝には追手も出る。これから歩いて日が昇る前には隠れ家に着きたい。雪で歩きづらいけどもう少しだけ頑張って」
グランがアリサを励ます。アリサはまだ信用しきれないと頷くだけで返答する。
聞きたいことは山ほどある。けれど、今はグランを信用してついていくしかない。二人は遠目の効かない吹雪の中を早足に進んでいく。
きっと、この荒れた天候が二人の逃走の跡を消し去ってくれるだろう。
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