汚部屋彼女

 居酒屋で飲んだ時に、女と付き合ってえらい目に遭ったことがあると、後輩のNがしてくれた話。

 Sという当時の彼女は、大学の頃の同級生だったそうだ。Sは容姿も悪くなかったが、とにかくお洒落で、自分を見栄え良く見せる術を熟知していたふうだった。

 喋った時の人当たりも良かった。親密さを示すボディランゲージも自然に挟み込んできて、俺はそれに騙されましたとNは笑った。

 付き合ってすぐに、NはSの八方美人癖に気付いたが、それは殆ど虚言癖の域に達していたとNは言う。Sが人と接する時は、どう接するかを判断する以前に、条件反射的にいい人を演じ始めるのだそうだ。誰に対してもそんな接し方をしては、一人になると極度に疲弊してNに縋ってくるのだった。

 若かったNは真面目に理不尽に耐えて慰め続けたが、事態は好転しなかった。まだ学生身分なのに、Sは過労死寸前のサラリーマン並みに毎日疲弊して、よくこんなタイトロープな人生を歩めるなとNは思ったという。

 そんなNも二月ほどで、切れてしまったという。深夜に何度も着信があり、熟睡していたNが半分寝呆けて電話に出ると、Sは私の話を全然聞いてくれないと、泣きながらNを詰ってきたという。そこでNは切れた。

 Sは今までに一度もNを家に上げてくれず、Nはそれも面白くないと思っていた。詰るSに、「分かった。これからそっち行って直に聞くから」とNが言うと、Sが出鱈目でたらめな理由でそれを断ってきたので、Nは「行くって言ったら行くんだよ」と電話を切り、その時点で朝の三時近くだったそうだが、コートを羽織って冬の夜に飛び出すと、タクシーを拾ってSの住むマンションに向かったそうだ。

 オートロックの厳重なマンションの三階にあるSの部屋に入って、初めてNは自分を拒み続けた理由を知った。

 Sの部屋はゴミだらけで、足の踏み場もなかったそうだ。普段あれほど入念に着飾っている衣類は方々に脱ぎ散らかされ、ペットボトルや空き缶や菓子袋、弁当のポリ容器などと一緒くたになって、床に敷き詰められていた。

 Nは室内に漂う酸っぱい異臭にすぐ気付いたが、それは腐ったまま床に放置された弁当の食べ残しなどから発していた。唖然と室内を見回しながら、本当にこの子は外面だけが全てなんだなとNは感じたという。

 Nがベッド脇のローテーブルに対面しながら、部屋を片付ける気にはならないのかと尋ねると、Sは何処から手を付けていいか分からないし、見ないことにしていると答えた。その「見ないことにしている」という答えは本心だろうとNは思った。

 Sを話をしながらNは、ずっと視界を過る小蠅を手で払い続けたそうだが、Sは顔の周囲を幾ら小蠅が飛び交ってもまるで反応しなかった。こんなに蠅が飛んでも何かしようと思わないのかとNが訊くと、キリがないとSは答えた。流石のSでも小蠅がちらつくのは目障りらしく、見かける度にティッシュで圧し潰して殺しているが、幾ら殺しても次々湧いてくるから仕方ないと言い、たまにゴキブリも出るのだと残念そうな顔で付け加えた。

 埒が明かないと思ったNは、結局朝までかけて部屋中のゴミをゴミ袋に詰め、どうにか人が住める環境になるまで掃除をしたという。その間、Sは他人事のようにローテーブルに座って、ポテトチップスを食べていたという。

 後日、ラインで、「ハエ出なくなったよ!」と喜びのメッセージを送ってきたSだったが、それからしばらくしてNが部屋を尋ねると、部屋はすっかり元のゴミ溜めに戻っていた。

 もう掃除はするまいと誓ったNは、部屋にいたくなかったので近所の居酒屋にSを連れ出したが、普段は食欲旺盛なSがちびちびビールに口を付ける程度で、料理には殆ど箸を付けなかった。不審に思ったNが安否を気遣うと、最初は話すのを躊躇ためらっていたSもぽつぽつと理由を喋り始めた。

 食事をすると、いつしか料理に小蠅が混じるようになったとSは言った。最初にSがそれに気が付いたのは、家でコンビニ弁当を食べている最中だった。始めは白米にゴマでも混入したのかと思ったSがよく見ると、それは小蠅の死骸だった。動転したSが食べかけの弁当を箸でほじくり返すと、小蠅の死骸が点々と料理の中身に紛れていた。それに気付かずに弁当を半分ほど食べてしまったSは、トイレで食べたものを全て戻してしまった。

 それから食事や飲み物を取る度に、Sは執拗に中身を確認するようになったが、買ったばかりで未開封の食事に小蠅が混入するのはあり得ないはずなのに、料理に埋もれる形で小蠅が混入していたり、キャップを外す前の飲料を蠅が漂っていたりした。それ以来、食事を取る気が失せてしまったのだというSは、それが今まで散々殺してきた小蠅の怨念だと言い出した時に、Nは背筋に軽く寒気が走るのを感じたそうだ。

 Sの思い込みを解かないといけないと思ったNは、一応テーブルに並んだ料理や飲み物に蠅が混入していないことを確認すると、今はどうかとSに尋ねた。Sは眉間にしわを寄せながら背を屈めて、テーブル上をまじまじ凝視すると、顔をしかめたまま首を横に振った。その答えに安心したNが、「ね、だから気にし過ぎてるだけだって」と言いながら、食べようと小鉢を手に取ると、Sは顔の前を飛ぶ蠅を追い払うような神経質な仕草で首を振り続けながら言った。

「だからそうじゃないって。こんなに一杯飛んでるのに、テーブルがどうのこうのって話じゃないでしょ」

 そう言いながら、何もない目の前の空間を手で払い始めたSを見て、Nは完全に引いてしまったという。

 Nは自然とSに連絡を取らなくなり、Sの方からも連絡がなくなった。そのうちSは学校を休みがちになり、同級生たちがSを心配し出したが、周囲にはSとの付き合いを隠していたNは知らん顔をして、周囲に調子を合わせていた。

 ところが半月を過ぎてもSがキャンパスに姿を見せることはなく、流石にNも見て見ぬ振りを通すのが難しくなってきた。何度か着信しても反応はなく、午前で講義が終わったある日の帰りに、NはSの家に寄ってみた。

 幾らインターホンを押しても何の反応もなかったが、玄関上に設置された電気メーターの円盤は緩やかに回転していた。ドアに耳を押し付けると、中から微かな物音が聴こえてきた。居留守だと判断したNが試しにドアノブを捻ってみると、鍵がかかっていなかったドアがゆっくりと内側に開いてしまった。Nは躊躇しながらも、入るよと声をかけながら、相変わらず汚れ切った室内に足を踏み入れた。

 その日は青空の澄み渡った快晴だったにも関わらず、カーテンが閉ざされた室内は薄暗かった。室内は呼吸しただけでえづきそうな腐敗臭に満ち、息を吸うことすら難儀な状況だった。

 Sは廊下の奥のリビングのローテーブルに、Nに背を向ける形で座っていた。その背中は大きく横に拡がっていて、Sが急激に肥ったことにNは驚いた。Sは背中を丸めながら、一心に何かを咀嚼しているようだった。顎の上下動に併せて肩の筋肉も微かに連動し、ぐちゃぐちゃと湿った咀嚼音に、堅いものを噛み砕くバリバリという音が混じって聴こえてきた。

 Sの正面にゆっくり回り込んだNは、一挙に全身が粟立ったという。海藻みたいに脂ぎった髪を額に垂らし、頬に贅肉が乗って面相が変わってしまったSが口一杯に詰め込んでいたのは、茶羽根で親指ほどもあるゴキブリの群れだった。Sの口は、ペースト状になるまで噛み砕かれたゴキブリで溢れ、それでもSは床を這い回るゴキブリを手摑みにして、強引に口に押し込んでいた。顎だけを旺盛にうごめかすSの目は黄色く濁って一点に据えられ、もはや何も知覚していないようだった。

 変わり果てたSの姿よりも、自分の足の甲を這うゴキブリにNは悲鳴を上げ、家を飛び出したという。生涯であの時ほどゾッとした瞬間はないと、Nは顔を顰めながら言った。

 外に出てしばらくして、ようやく頭が回るようになったNは、どうすれば良いのか途方に暮れた。いきなり警察に相談するのもことだと考えたNは大学に戻ると、教務課にいた中年の女性職員に、たった今目撃したSのことを相談した。すると職員はすぐに不審そうな顔をして、途中でNの話をさえぎった。

 誰の話だと職員が尋ねてきたので、Sの話だとNが答えると、職員はNが言ってもいないSのフルネームを言って、その子のことかと訊き返してきた。Nが頷くと、そんなはずはないと職員は否定した。職員によると、Sは既に退学手続きを済ませて、今頃は地元に帰ったはずだ、とのことだった。

 勿論Nは納得しなかった。誰がそんなことを言ったのかと職員に詰め寄ると、数日前にSの退学手続きを済ませに、両親が大学に来たのだと職員は答えた。その時に両親が、Sが精神を崩したので地元で療養させると言ったのだという。

 そこまで喋ってビールで唇を湿らせたNは、「でも俺は、絶対見たんですよ。ゴキブリをバリバリ喰ってるSを」と遠い目で呟いた。

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