光の国

 未だに忘れ難い光景がある。

 人で溢れた休日の午後の綱島つなしま駅で、私は中東系の家族連れが改札から出てくるのを見た。夫が幌で側面を覆ったベビーカーを押し、妻が七、八歳程度の長男らしき子供の手を引いていた。すれ違う際に何気なく彼らを一瞥した私は見たものが信じられず、思わず足を止めて彼らを振り返った。

 ベビーカーの中でぐったりと目を閉じていたのは、三、四歳程度の綺麗な面立ちの女の子だったが、女の子の顔は紫に染まってぱんぱんに膨れ上がり、顔面は血に塗れていた。打撲を受けて膨れ上がった唇は縦に裂け、魚肉ソーセージの断面のように不健康そうなピンク色の肉が中から覗いていた。目を閉じた女の子は微かに呼吸しているように見えたが、意識があるかどうかは見た目では判別できなかった。

 突如予想もしない光景に出喰わした私は頭が飽和して、結局何もできずにただ彼らとすれ違ってしまった。誰がどう見ても明らかに看過し難い状況だったはずなのに、その判断自体が本当に正しいのか一瞬確信が持てなくなってしまった。その家族はあまりにも普通に歩み去っていったし、人混みに消えゆく彼らを呼び止める者も一人もいなかった。

 私にとってこのことが未だ忘れ難いのは、あれが紛れもない現実の幼児虐待だったにも関わらず、思い返す度に、何処か現実離れした白昼夢の只中にいたような印象が付きまとうことだ。

 人混みを縫って出口に歩む彼らの背中がちょうど逆光に位置して、天井や柱で四角く区切られた陽光に白く輝く出口に消えゆく彼らの姿が、まるで光の国に赴く巡礼のように私の目には映った。

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