ガスカール

 今日も地球は立て続けに不幸に見舞われていた。ガスカールが頑張っているのだ。僕は書き込まれたソースコードがすさまじい速度でスクロールしていくエアパネルを先輩と眺めていた。

「お前読めるか?」

 先輩に訊かれた僕は首を振った。断片的な識別が限界だったが、その断片だけでガスカールがいかに世界に不運をばら撒いているかが分かった。僕たちのコードチェック業務など、とうにお笑い草でしかなくなっていた。色々と聞いた話では、他部署も似たような状況らしかった。暇な人間は誰でも耳年増になる。それが地球から遥か離れた人工衛星に、三千人超の従業員がタコ詰めにされているともなれば尚更だった。

 いきなり自動ドアが開いて遅番の三村が入ってきたので、僕たちは驚いた。下膨れの頬に頸の長い三村は、何となく鶏っぽかった。入ってきた三村の顔面は蒼白で、血走った目が不安定に泳いでいた。

「たった今食堂で聞いたけど、小林さん、亡くなったって」

 三村は呻くように言ったが、僕は衝撃は受けなかった。先輩も宇宙珈琲入りのカップから立ち昇る湯気でレンズを曇らせながら、平然と三村に尋ねた。

「あー、どうして?」

「クレーンで採掘コンテナの輸送中に、アームが折れたって。不幸にも」

 採掘コンテナには重機が格納されている。小林さんはブーツで踏み潰された蛙みたいになっただろう。うわあ、と僕が呻くと、三村が噛み付かんばかりの調子で僕に言った。

「うわあ、だよ、ほんと。そんだけかよ、人が亡くなって? しかも亡くなってるのは、小林さんだけじゃないんだぞ」

 それは僕も聞いていた。柴さんは数日前にドライヤーのショートで感電死したというし、浴槽で足を滑らせたカッツはバスタブに後頭部から落ちて脛骨が真っ二つに折れた。口にはしなかったが、彼らの不幸もガスカールに書き込まれたコードの一つだと僕は確信していた。

 僕たちの勤務先は、直径二千キロを超える巨大人口衛星のジーニアだった。上空三十万キロの距離から、ジーニアは地球に向けた拡散照射型アンテナでコードを照射して地球の全人口の運勢管理を一手に担っていたが、その全機能を司るのがコアAIのガスカールだった。

 二〇二〇年代には、理論的に行き詰まった物理化学の限界を打破する為に、諸々の陰秘学を科学的に再検討するミックスアップ理論が学会の潮流となっていった。その中に、確率論的関知から占星術を再構築する星図確率論があり、これが禁断の扉を開いてしまった。かつての遺伝子工学がゲノム構造を解析したように、星図確率論が人間の運勢のアルゴリズムを完全に解析してしまったのだ。マッピングした数十億の星辰の移動パターンを星図確率論に基いて演算すると、任意の人間の全運勢が数値化できてしまうのだった。

 個々人の運勢が数値化で制御可能なことが証明されると、それが恣意的に干渉されるのはあっと言う間だった。それまでオープンソースに近かった星図確率論はある時点からいきなりブラックボックス化して、幾ら掘っても検索不能な、富裕層限定の閉じた系の学問と化した。生命保険にしこたま加入させた後で、運勢に干渉して事故死させて莫大な保険金を得るような手法を国家間条約で適用させて、汎国家的な利潤共同体のGUが地球上の富を爆発的に集約し始め、その資金集約の集大成がこのジーニアだった。

 皮肉にも僕たちの賃金はかなり安かったが、ガスカールの実行プログラムのせいで地球はとんでもないことになっていたから、レトルト宇宙食でも三食食べれて給金も出るだけで、僕たちは勝ち組に属しているとさえ言えた。

 七十億人分もの運勢操作はさすがのガスカールもマシンスペックの限界に近いので、メイン機能以外の機能を外部的にローテーション管理していたのが、僕たち従業員だった。

 小林さんたちがシンギュラリティ論者だったことは半ば周知の事実で、三村も同じだったことをたった今、自ら露呈した。シンギュラリティ論者の主張は、実はガスカールはとっくに僕たちの外部管理を必要としなくなっているというもので、それをシンギュラリティの有無の根拠にしていた。ガスカールは今や誰にも手が付けられなくなったというのが彼らの訴えだった。代わり映えのない三村のご高説の途中で、先輩が割って入った。

「分かった。もう十分分かったから、そろそろその辺で口噤んどけ」

 これは先輩なりの忠告だったが、三村はそれを圧力と受け止めたようだった。蒼白だった頬に赤みが差し、吠える犬みたいに先輩に噛み付いてきた。

「今しかないんだって。まだ間に合う。みんなで一斉蜂起すれば、まだネットワークにアクセスできる」

 ネットワークはもう一月近くも前に、ガスカールによって遮断されていた。

「ネットワークにアクセスできたとして、一体何処に連絡するんです?」

 僕の質問に三村は豆鉄砲を喰らったような顔をして、呆れ声を上げた。

「何処って、GUに決まってるだろ」

「三村、全部聞かれてるから」

 先輩が再び割って入ったが今の三村には逆効果らしく、ますます声が大きくなった。

「どうせとっくに監視されてるんだから、今更聞かれたくらいで何だ? これが最後のチャンスなのに、何で分かんないんだ?」

「その前に小林たちを思い出せって。何で不幸な目に遭ったかを」

「俺は怖れない」

 歯を食い縛って三村が吐き出したので、先輩は落胆の溜息を漏らした。

「何でそんな話に? 三村が怖がってるなんて、誰も言ってないって」

「もういい」

 突然三村が逆張りしたので、先輩はあんぐりと口を開いた。僕はテニスのラリーを目で追うように頻繁に二人に目をやった。三村が先輩を睨んだまま少しずつ後退り、次の挙動を予感させる抑えた動きに釣られたように、椅子からゆっくり腰を浮かせた先輩が静かな声で呼びかけた。

「三村、座ろう。話はゆっくり聞くから、とりあえず一緒に座ろう」

 しかし三村は、先輩が近付いた分だけじりじりと後退した。

「頭が固まってるから埒が明かん。幾ら言ったって、本当に聞くわけがない」

「三村」

 先輩が切迫した声で呼んだが、三村は耳を貸さなかった。いきなり踵を返して通路へ駆け出そうとした瞬間、感電したように背中を逸らせて床に昏倒した。先輩と僕は倒れた三村に駆け寄った。

「ああ、どうしよう」

 思わず僕の口から呟きが漏れた。三村の顔面がみるみる蒼白になり、瞼から飛び出そうに見開かれた瞳には、死に捕われた人間だけが宿す激しい恐慌の色が浮かんだ。心臓を両手で鷲摑みにした三村は喉の詰まったような唸り声を漏らし、捲れた唇から泡混じりの涎をぶくぶくと吐き出した。僕たちの目の前で三村が虫のように四肢を痙攣させて、やがて動かなくなるのを、為す術なく見守ることしかできなかった。三村は急に心臓発作に襲われたのだ。不幸にも、天文学的な確率で。

 溜息を衝いて立ち上がった先輩の顔も、虚ろに目を見開いて倒れている三村とさほど変わらない、紫に近い顔色になっていた。僕も吐きそうになっていたから、二人と変わらない顔色をしているに違いないと思った。

 先輩はエアパネルで救護班を呼び出し、たった今起きたことを淡々と説明した。通報を終えた先輩は、自分の椅子に深々と腰を沈めた。呆然と先輩を眺めていた僕の視線に気付いて顔を上げた先輩は、痰の絡んだような掠れ声で言った。

「柚木、俺には疑問なんだけど」

「何がですか?」

「あいつら、シンギュラリティ論者の癖に、何で未だにGUが存在してるって思ってるんだろうか? もしシンギュラリティが起きたんなら、まあ起きてるんだろうけど、GUなんてとっくになってるって思うけどな。ガスカールが放っとくと思う?」

 僕は先輩の質問には答えなかった。それが最も直視したくない可能性だったからだ。もしGUが壊滅していたら、僕たちは死ぬまでガスカールの腹の中で幽閉されることになる。だとすると、僕は僕で常々胸に秘めていた疑問が一つあった。僕はそれを先輩に尋ねてみることにした。

「もしそうなら、ガスカールは完全に自立してるわけじゃないですか? なら何で、僕たちはまだ生かされてるんです?」

 僕の質問に先輩は口元のひん曲がった苦笑を浮かべると、投げ遣りな口調で吐き捨てた。

「知らんって。人間を遥かに超えた機械様のお考えになることなんて」

 駆動式ストレッチャーを従えて到着したオレンジ色の制服姿の救護隊員が、二人がかりで三村の遺体をストレッチャーに乗せている間、僕はスクリーン上の地球を眺めていた。

 今この瞬間にも、すさまじい数の人間がガスカールのプログラムした不幸に見舞われているに違いなかったが、三十万キロ彼方から眺める地球は、相変わらず青い燐光を放ちながら宇宙の暗黒に悠然と煌めき、それはただ美しい、の一言に尽きた。


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