暗黒犬

 夜のニュース番組で、突然T市の名前を聴いた私は動揺した。番組はT市で幼女が何かの動物に噛み殺された事件を報じ、まだ続いているのかと私は思った。あまりに昔だからか、二十年近く前に私がT市で担当した事件との関連は指摘されなかった。

 約二十年前のその当時、死体発見の通報から直ちに捜査本部が設置され、私も駆り出された。その中年の男は自宅の寝室で何かに全身を噛み千切られ、至るところに巨大な犬らしき血塗れの足跡が拡がっていた。狂犬病などの既成路線も徹底的に探り、近隣を人海戦術で探索したが、該当する犬は発見できなかった。

 遺留品の日記には、到底信じ難い男の体験が記されていた。それによると、男は勤務する貿易会社のルートで、中国から〈遼丹リャオタン〉という仙薬を入手した。それは古来から道教で用いられる秘薬で、飲むと時間を越境するとされていた。寝室で〈遼丹〉を飲んだ男は、湾曲と角度から構成される、原初の時間にまで遡った。湾曲は宇宙の清澄を表し、角度は不浄を顕現するのだそうだ。

 その角度に添って、マスチフのような醜悪な暗黒犬が徘徊しているのを男は見た。男は犬に見付かり、角度を曲がる度に時間を飛び越えてくる犬に追われたそうだ。犬が自分のいる時代まで辿ってくるのも時間の問題だろうという記述で、日記は終わっていた。

 事件は野犬によるものとして処理された。しかし日記が単なる妄想とも断じ難いのは、男の死後以降、今まで存在すらしなかった獣害の噂が近隣で拡がり出したからだ。中には祖父の代に遡る逸話まであり、まるで男を追って辿り着いた犬が、そこを基点に周辺の時間を野放しで徘徊し始めたかのようだった。

 私には忘れ難い記憶があった。捜査中のある夜、ふと背後に視線を感じて振り返ると、巨大な黒い犬が十字路の角を曲がるのを見た。決して見間違えではないと断言できるが、その犬には目が三つあり、鼻が二つあった。

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