お願いしたいこと
思えば先輩とは、散々飲みましたね。
先輩は壁中お品書きだらけみたいな安い居酒屋が好きで、女二人で串盛りとかコーンバターとか、らしくないものを突いて飲むのは本当に楽しかったですね。
あの時のこともよく覚えてます。
私が肴のつもりで、新入社員が入ったということで
「あのさ、あんた脇甘いから一応言っとくけど、目付けられる隙見せちゃ駄目だよ」
私はその時、先輩に杞憂だと笑って、大丈夫と請け合いましたね。
私たちは初対面の瞬間から、お互いに同類だと直感しましたね。私は先輩以外の誰からも、同じ感じを受けたことはありません。
よく一緒に鍋を突いた先輩のマンションを、いつも安全な城みたいに感じてました。
仕事もフリーの翻訳で、誰にも頼らず誰も立ち入らせず、本当に城の中で自立した生活を送ってましたね。
一方の私は人の波に揉まれて、いつ首を切られるか分からない派遣社員の立場でした。先輩はそれをリスキー過ぎると、よく言ってましたね。時間は腐るほどあるんだから勉強しろと、口を酸っぱくして言っていた意味が、今頃ようやく身に染みるようになりました。
それも今や遅過ぎたのですが。
鹿波の私を見る目には気付いていました。それで私は先輩らしい鉄面皮ぶりを見習ったのですが、少々度が過ぎたようでした。それに、鹿波の性格も見誤ってました。
意中の存在に袖にされた男は、ある程度までは苦悩が発酵して、とても艶っぽく見えるのは先輩もご存知かと思いますが、度を越えると腐って濁ってくるんですね。
私はやり過ぎたなと内心後悔しましたが、その頃には鹿波の目はどろどろになっていました。
ただ存在を消せば良かったのに、わざわざ恰好を付けて袖にした私の過ちでした。
私のさらなる失態は、泥酔帰りの不意を衝かれたことです。
マンションのオートロック仕様に油断した私は、エレベーターを降りてようやく角に隠れていた鹿波に気付く体たらくでした。
鹿波が手にしたナイフを私の首に当て、その目を見た私は、鹿波が行くところまで行く気なのを悟りました。
その瞬間、私は肚を括りました。
後ろから押されて鍵を開けた玄関に入った私は、鹿波が鍵をかけると振り返って、鹿波が腹にナイフを突き立てるのも構わず、首筋に被り付いて一気に全身の血を吸いました。
発見された鹿波の遺体には、殆ど血が残っていなかったはずですが、それは私が吸ったからです。
ここで一つ、弁明をさせて下さい。
確かに私は血を吸いました。ですが味わう為ではなく、正当防衛として確実に殺す為に吸ったのです。先に襲ったのは鹿波です。
ここが私たちについての最も大きな誤解だと思うので、改めて書かせて下さい。
私たちは、血には全く依存しません。
私たちは幾らでも我慢ができます。先輩は数百年も血を吸わないことを当たり前に受け止めて、誇りにすら感じもしませんでした。
私は鹿波を見下ろしながら、先輩と最後の通話をしました。
私たちの不問律では、禁忌を犯した同類の傍にいるのは危険なので、先輩はすぐに姿を消して新たな身分を作る必要がありました。
「あんた何で、本当にこんなことしたの?」
その質問の答えはあまりにあり過ぎて、どれが正しいのかよく分からないほどでした。私は考えた後に答えました。
「もう限界かな、って思ったんです」
私が鹿波を前にただ存在を消せなかったのは、鹿波が嫌いではなかったからです。
存在を消すなんて、私には朝飯前でした。ですが、そうはしたくなかった。もう散々そうしてきたからです。
どうせ成就しないなら、せめて少しでも鹿波の心に何かを残したいと思ったこと。それが裏目に出たのです。
私の説明を聞くと、先輩は言いましたね。
「だから、あんたには勉強して自活しろって言ってきたの。人に流され易いから」
確かにそうかも知れませんが、そうなれたとして、それが一体何なのでしょうか。
私が答えずにいると、これからどうするのかと先輩が訊きました。
「少ししたら、自首するつもりです」
溜息とともに通話が切れ、これが私たちの別れでした。
私には、先輩に伝えなかったことが一つあります。
それは事件が報道されたら、この文章をツイッターで送信すると決めていたことです。その時には、もう何も隠す必要がなくなると考えたからです。
たった今ニュースを目にしたので、私は思い切ってこの文章をツイートします。
私には、幾つか伝えたいことがあるのです。
まず何よりも、ツイッターを通じて読んでくれているはずの先輩へ。
今まで、本当にありがとうございました。
あなたは私にとって親であり、姉であり、友達であり、何より頼れる先輩でした。
もう二度と逢うことはありませんが、先輩と出逢えたことが私の何よりの宝です。
先輩のことは生涯忘れません。
そして、この文章を読んでくれた全ての方に、お願いしたいことがあります。
どうかこの文章を、みなさんのお力添えで拡散して貰えませんか?
読んだ方がこのことを信じても信じなくても、私は構いません。働きかけなければ何も始まりませんし、それ自体に価値があると、私は信じることにしました。
ひょっとするとみなさんの周りにも、先輩や私のように、自分をひた隠して生きている方がいるかも知れません。
どうかそのことに、少しだけ思いを馳せて貰えませんか?
私は、もう隠れ続けることに疲れました。
私は生きています。生きて、今ここにいます。
だからみなさんには、私という物語のことを、どうか覚えていて欲しいのです。
私たちという長い歴史のことを、できれば隣人として受け容れて欲しいのです。
先輩は笑うでしょうが、私はその為に自首して、次の私たちの礎になります。
私たちが自らを偽らずに生きていける日の訪れを、私は心から願います。
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