不機嫌猿
ふるさとは遠きにありて思ふもの。そう考えながら私は暗い台所で食器を洗っている。今年の冬の寒さのせいで水道水の冷たさも世間を凌ぎ、私は自身の両手の惨状を憂いている。すっかりがさ付いた自身の手に、私は昭和という時代を感じている。今の私と同じように、水の冷たさで手をあかぎれだらけにした母が、両手の甲にオロナイン軟膏を擦り込んでいた幼少の記憶の断片を思い出す。
鍋を水洗いする私の指は膨らんで茶色く変色し、ふやけた葉巻みたいになっている。関節周りの肉が腫れてよく指が曲がらず、無理に曲げると左中指の皮がぶっと音を立てて真横に裂けてぶりんとピンクの肉が剥き出て、私は痛みより驚きに大声を上げる。
私は慌てて洗い物を中断して家中を引っ掻き回すが、クッキー缶に仕舞ったはずのバンドエイドが全く見付からず、替わりに出てくるのは無駄に買い過ぎた巻き尺の山、スイス製の十徳ナイフ、波動を清浄化する黒水晶片、干からびた節足蜥蜴の死体といったものばかりである。数年探していた地方銀行の通帳まで出てくるのに、こんな棺桶みたいなワンルームアパートに暮らしながら、欲しい物に限って必ず出てこない。
太平洋湾上で発生した積乱雲に匹敵する激しさで、ここ数年来感じなかった怒りが渦を巻き始め、私は慌ててそれを心の底に鎮めようとする。怒りが主要な感染要因の一つだとは、報道でも再三指摘されていることである。指の傷口を見た私は目を丸くする。血の赤みが差したピンク色の肉にぷつぷつと黒点が生じ、それが真っ黒い産毛だと気付く。私は必死にラマーズ法を始め、体内に溜まった怒りを呼気と共に空中に拡散しようとする。緊急措置の一つとして、ラマーズ法は報道でも推奨されている。
不機嫌猿感染症もウィルスの一種なので、空気感染以外にも傷口からの感染リスクもあるとされている。しかしこの感染症が、まさに二十一世紀の社会を象徴する病原菌と称される所以は、大半が特に仕事に伴うストレスに起因する、心因性の感染症ということである。
業務遂行に伴うストレスが一定の許容を超え、二人羽織のように両肩に疲労がどっと圧し掛かったと感じた時は、感染の合図のようなものである。このウィルスに罹患すると発毛が異常促進され、口元などに頼りない産毛が生え始めたら陽性と見做すべきである。この症状は即効性で、罹患すると何をしても溜息が出る。顔が険しくなって口が開く。猫背になって身長が数センチ縮んで見える。周囲への注意や関心が極度に低下し、自分だけが水中にいるような気分になる。頭が回らず、たった一つのことも満足に終えられなくなる。普段は見向きもしない栄養ドリンクを激しく渇望する。苛立ちを溜め込んだような饐えた体臭がし始め、総体として不機嫌な猿そのものに見える。
その不機嫌は周囲にも伝染するから、不機嫌な猿になった時は他人に迷惑をかけないように速やかにする帰宅するか、様々な事情で速やかに帰宅できない状況の人間は、すぐにその場で大の字になることが再三指摘されている。
私はバンドエイドを探すのを諦めてベッドで大の字になり、インフルエンザで自宅謹慎した小四の冬を思い出す。病気で寝込むと今でもその時のことを思い出し、郷愁に胸を締め付けられる思いがする。白い壁紙を照り返す陽光。微かに開けた窓からそよぐ微風に靡くレースのカーテン。今の私とほぼ同年代の母。当時の母はサザエさんのパロディ紛いのひどいパーマをかけ、その時の母がくれたプリンの滲みる甘さともども懐かしく思い返していると、テレビ台に置いたスマホが振動し、液晶を見ると母からの着信である。
私が通話に出ると、挨拶も抜きに母がツイッターを見たかと訊く。八十近い母は新しいもの好きで、父と違ってスマホを易々と使いこなす。見ていないと私が答えると、子供の私に宿題をやるようにと言った時と全く同じ口調で、母はすぐ見るようにと言う。理由を訊くと、鼓膜に母の大声が飛び込んでくる。
「あのね、今ね、お父さんの動画がね、ツイッターでとんでもなくバズってるの!」
はあ? と声を上げた私は、通話を切ってツイッターを開く。その動画を貼った問題のツイートはすぐに見付かる。「マジで必見」という本文が添えられている。私は貼り付けてあるユーチューブを再生する。
それは日中の、チェーン店の喫茶店の動画である。丸テーブルの席に、背広姿の男同士が向かい合って座っている。右側に座っているのが父で、相手も父と同程度の老人である。今のご時世では実質八十五まで定年はないので、父は未だバリバリの現役と言える。盗み撮りを思しきその映像に映る二人は商談をしていたが、双方それぞれに事情があったのだろう、二人揃って明らかに不機嫌猿になっている。商談なのに投げ遣りな態度を隠そうともせず、無闇に口が重く、ちびちび飲み物を啜ってばかりいて、互いの不機嫌さを誇示し合っているようにしか見えない。背景に映る周囲の客は、皆遠巻きに二人に避難の眼差しを注いでいる。みるみる不機嫌さがその場を浸しているのが、映像でもはっきりと窺える。液晶越しにその様子を眺めているだけの私ですら、見ていてもどかしさと苛立ちが募る。
両親と接してつくづく痛感するのは、この世代特有の頑迷さと過度の体裁への執着である。この世代が最も苦手なのが、自らの非を認めることと、自らの行いを改めることである。私は帰省の度にそれを感じるので、このまま父ともう一人が滞った商談に醜くしがみ付いて、周囲に不機嫌の菌を蔓延させる最悪の光景を予想して先を見るのを躊躇する気持ちが湧き始めるが、その私の予想の斜め上を行く光景が画面上に展開される。
連れの老人が大儀そうに上体を傾けて煙草を灰皿で揉み消すと、そのまま椅子から滑り落ちるように、両手を拡げて床に大の字になる。一瞬周囲が硬直し、その後に幾分遠慮がちな拍手が湧き起こる。すると、テーブルにしがみ付いていた父も連れに倣い、連れの隣りに大の字になる。自分たちが今まさに撮影されていることを明らかに自覚している、二人の鷹揚そうな、満ち足りたその顔!
遠慮がちな拍手が、やがて割れんばかりの喝采に変わったところで動画が終わり、拡散した元ツイートを辿ってみると、四万越えのリツイート数と二十万に達するいいねが付き、私が見ている間もみるみる数値が加算されていく。私のタイムラインは父たちへの賛辞のツイートで埋め尽くされるが、私は父の得意げな笑みを思い出して全身を掻き毟りたくなる羞恥の念に駆られ、思わず「何してんだよ」と呻く。俺が猿になるわ、と私は思う。
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