第6話 康太#2
僕らは川沿いの道を歩いていた。時刻はもうすぐ五時になり、うっすらと夜の色が変わり始めていた。あれから歩き続けている、その間に忠と健は二人で話をしていたが、僕にはもうそんな気力もなかった。なぜこんなことをしているのだろうか。僕は職場に戻って書類を完成させなければならないのではないか、そんな問いが頭をよぎる。
「康太は何があったんだ?」
重い腰を上げたかのように健が僕に尋ねる。何があったのか、説明するには長くなりそうで面倒くさくて言わなかった。
「別に何もないよ。仕事が立て込んでて疲れてるだけ。」
「康太は見ない間に随分と嘘が下手になった。」
忠がそう言った。
「もともと下手だった気がするが、お前はそんな嘘を吐くような奴じゃなかった。」
「そんな嘘って何?」
「つまんねー嘘。」
つまらない、健の言ったその言葉の響きが僕を締め付けた。
「世の中に面白い嘘なんてあったっけ?」
「ないことはないだろう、時には人を救ったりもするらしいぞ?」
「いいこと言うねー、忠。んで?つまらなくないってんなら、康太の嘘はだれを救ってるんだ?」
「別に誰も救ってないよ。」
「じゃあ、やっぱりつまんないじゃねーか。」
少しだけ後ろを歩いていた僕は立ち止まった。それに気が付いた二人も止まって、僕のほうを振り返る。まっすぐな視線が痛かった。なんで、二人はこんなにもあの時から変わっていないのか。なぜか無性に腹が立って、僕は言った。
「僕は大人になったんだよ。社会に出ていろんな人に頭を下げて、いろんなことに耐えながら。それで勝ち取ったことを、よくもつまらないなんて言えたな。」
健も忠も黙ってしまった。本当はこんなことが言いたいんじゃなかった、僕も笑って親友との再会を楽しみたかった。けれど僕はよくわからない何かにとらわれて、そんなことはもうできなくなってしまった。
俯いて黙った。地面を見ていれば、二人の顔を見なくて済むから。本当に大切な友人に心無いことを言わずに済むから。悩みのなさそうな二人を見て妬ましくて、うらやましいなんて思っている自分の姿からも目を逸らせるような気がしたから。
「そうか、お前はそっちの大人になったのか。」
忠が少しだけ悲しそうな声で言った。顔は見えなかったけど、きっと二人とも失望したんだと思う。
時間という残酷な概念が僕らの行く道を引き裂いた。きっと二人は海にたどり着く。砂浜で海風に吹かれながら波の音を聞いて、水平線を眺める二人が想像できた。でも、そこに僕の姿はない。
どこで間違えたのか、どこで道を踏み外したのか、それがわからなかった。僕もあのとき健が言った『面白い大人』になれたのだろうか、最初からそんな場所には道が続いてなかったんじゃないだろうか。どこですればいいのかもわからない後悔が僕の胸にはあった。
「僕は職場に戻るよ。仕事が残ってるんだ、終わらせなきゃ上司に怒られるからね。この道は二人で進んでよ。」
僕は反対方向へと歩き始める。知っている、僕が向かうこの道の先には海がない。
「何勝手に帰ろうとしてんだ、お前もいなきゃダメだろ。」
健がそう言って僕を引き留める。立ち止まって振り返ることなく答えた。
「違うよ、いなきゃいけないのはのは健だ。いつだって健が最初だった。『海があるのか』って疑問を投げかけたのも、忠を助けたのも、文化祭の時も健が何かを始めたんだ。僕はいらない、いなくても問題ないんだ。」
「お前がいたからできたんだろうが。」
「慰めなんかいらないよ。もう、このまま、さよならさせてよ。」
「いやだね、三人で行く。そんでもって優斗も連れてく。行けばわかるって言ったのはお前だったろ!」
『約束だよ?』そう言って泣きながら笑う優斗の顔が見えた。
おぼろげな遠い記憶だった、四人でした約束だ。夕日の中で交わした子供の約束。あの日とは反対の方向から太陽が僕らを照らし始める。眩しかった、眼を開いているのもつらいほどだ。
僕は振り返る。二人の顔を朝日が照らしていた。二人とも失望なんてしていなかった。ただただ悲しそうに僕のことを見ている。
「この道をどれだけ進んでもさ、」
僕は言う。眼から涙がこぼれていた。涙でにじんだ朝焼けは憎いほどに綺麗だった。スーツの袖でそれを拭って言葉を続ける。
「もう、たどり着けない気がするんだ。海にも、なりたかった大人にも。」
二人とも黙って聞いていた。一度堰を切って溢れた言葉は止まることはない。
「どこで間違えたのかな?わからないんだよ。どこで道を外れたのかが、教えてよ忠、頭いいだろ?」
忠は答えない。
「教えてくれよ健、どうやったらあの頃に戻れるのか。」
健も答えなかった。僕は思わず膝をついてうずくまり、地面をみた。
「いつもみたいに、助けてよ。」
小さな言葉だった。最後の方なんて聞こえなかったんじゃないかと思うくらいか細い救難信号だ。でも、二人にはちゃんと聞こえていた。
「しょうがねえな、助けてやるよ。」
一人分の影が僕のもとに現れる。
「康太はきっと、間違えてなんかないよ。少し遠回りしてるだけだ。」
もう一人、歩み寄る。
顔を上げると二人とも僕に手を差し伸べていた。僕はこの手を取っていいのだろうか。自分なんかが、二人の隣にいてもいいのか。そんな迷いを見透かしたのか忠が僕に言う。
「俺たちは、自分の歩く道を自分じゃ決められないんだ、悲しいけれど。
でもな、誰の手を取るのか、誰と一緒に歩くのか、どこに行くのかは決められる。だから康太はこの手を掴んでいいんだ。きっと康太はたどり着けるよ、望んだ場所に。大丈夫、俺たちがついてるから。」
忠も健も笑っていた。自分がどれだけ恵まれた人間だったのかに気が付いた。こんなにも頼もしい友人に出会えたことを誰に感謝すればいいのだろう。
僕は二人の手を取って立ち上がる。
「ありがとう。」
涙はもう止まっていた。
「例には及ばん。で?聞かせろよ、何があったのか。」
それから僕は、海に向かって歩きながら洗いざらいすべてのことを話した。それは半分以上今の上司の悪口大会のようになっていたし、僕の主観で話をしているからフェアじゃない部分もあったように思えたけれど二人は黙った話を聞いてくれた。
「って訳なんだ。どうすればいいと思う?」
「仕事をやめろ。」
健が言った。
「それができないから困ってるんだろ?」
忠が僕の気持ちを代弁する。その通りだった。
「なんで?」
健が子供のように僕に尋ねる。
「え、なんでって仕事なくなったら困るでしょ。」
「別で探せばよくねーか?」
「いや、そんな簡単じゃないでしょ。」
「今の職場で働き続けるよりは簡単だろ。」
僕は少しだけ考えて、そうかもしれないと納得しそうになる。だが、そんな簡単だろうかという問いも同時に浮かび上がる。
「別に働けるとこなんてたくさんあるだろ。そんな激務だし、どうせ康太なら真面目に働いてんだろ?なら、貯金でも崩しながらしばらくゆったりしろよ。そんで後から考えろ。」
確かに僕の銀行口座にはそこそこの貯えがあった。特に大金を使うこともなかったし、贅沢をすることも少なかったからだ。
「まあ、確かに。珍しく健の言うことも一理あるか。」
「珍しくってなんだよ。」
「俺と違って健の言うことがまともだったことは少ないからな。」
「そんなことねーよ。」
「「ある。」」
僕と忠は声をそろえてしまった。おかしくて少し笑う。すると忠が僕に言う。
「やっと、康太らしくなってきたな。」
「ああ、それでこそだ。じゃあ、康太の辞職は決まりってことで。」
「なんで健が決めるのさ。」
「じゃあ続けんのか?」
「いや、辞めるけど。」
「じゃあいいじゃねーか。」
雇ってもらった恩があるが、この際仕方ない。なんだか健と話して諦めがついた気がした。
「でも、その上司の感じだとおとなしく辞めさせてもらえるのかが問題だな。」
「いや、辞められるだろ。康太のこと嫌いそうだし、いなくなって万歳するんじゃないのか?」
忠の疑問に健が反論する。
「どちらかというと、康太のことが嫌いというよりは誰かを虐げることで自分の優越感を満たして自分の立場を主張しているような節がないか?」
「あるね。」
まるで忠は僕の上司のことを見てきたかのような評価を口にした。
「だとすると、やめるのも一苦労かもしれない。」
「手詰まりになっちゃったよ。健、どうする?」
「いや、バックレろよ。」
「さすがにまずいよ。」
それを聞いた健はため息を吐きながら僕に言う。
「あのなあ、流石にまずいのはお前の上司だっての。今時姿くらまして辞める奴なんて、めずらしくもないだろ?常識外の奴に常識で戦おうとしても勝てねえって。」
「今の状況だと健の滅茶苦茶な理論が正しく見えるから不思議だ。」
僕の代わりに忠が言った。実際その通りだった。
「よし、じゃあ作戦会議するからいったん俺んちに帰ろう。」
健はそう言った。
「作戦会議って?」
「その馬鹿野郎に仕返しすんだよ。」
健は笑っていた。予感がした、何かが起こる予感が。久しぶりに胸が高鳴る。
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「よし、じゃあ行ってこい。逃げ道は作ってやるよ。いつもの康太みたいにな。」
会社の前に車を止めて、運転席から健が言った。
時刻は10時を少し過ぎたところだった。出社時刻はとうに過ぎており、重役出勤のようになっていたが罪悪感は欠片もなかった。
「行ってくるよ。忠、逃げ道のことを頼んだ。」
「任せろ。」
「俺が運転手だって。」
「健じゃ不安だ。」
「康太に同じく。」
「お前らは本当に辛辣だな。俺の職場で真面目な働きぶりを見せてやりてえよ。」
「今現在進行形でずる休みしてるやつの働きぶりが真面目なはずがない。」
健も忠も仕事を休んだ。忠はもともと代休が残っていたうえに仕事の山場を越えた直後だったらしく、すんなり休むことができたらしい。健は勤め先が学校ということもあってそうはいかないだろう、という僕らの予想があったが何のためらいもなく職場に電話をかけていた。
『ばあちゃんが危篤です。休みます。』
大学生のような仕事の休み方だったが受け入れられたらしく、すぐに電話を切った。忠が何回目の危篤か尋ねると健は今年に入って七回目と言っていた。
「ずるじゃねえよ。俺が休みたいときにそれ以上の理由を求めるほうがずるだろ。」
僕と忠はそれを聞いてため息を吐いた。
「あ、そうそう。俺と忠からの差し入れの秘密兵器がお前のジャケットのポッケに入ってるから。上手くやれよ?」
そう言われた僕は会社に向かって歩き出し、背中越しに二人に言った。
「任せろ。」
オフィスのドアノブに手をかける。これを回したら作戦開始だ。
僕はひとたびこの扉を開けば常識を忘れてやりたいようにやるのだ。ルールがない場外乱闘の始まりである。
ドアノブを回してオフィスに入ると中島がいた。
「おはよう中島。」
「お、おう。おはよう、今日は遅かったな。」
中島は明らかに困惑しているが今はかまっていられない。僕は足早に上司のもとに向かう。そんな僕を発見した上司が怒鳴りつける。
「お前、ふざけんなよ?今何時かわかってんのか?」
上司は立ち上がって僕のもとに向かってきた。歩く手間が省けた僕は時計を見る。
「十時十八分です。時計も読めなくなりましたか?」
明らかに苛立った上司が語気を強める。
「そんなこと聞いてんじゃないんだよ。遅刻だって言ってんだ。」
「あはは、すいません。」
「なに?仕事なめてる?」
「舐めてます。昨日までは舐めてなかったんですけど、なんかどうでもよくなっちゃって。」
「はぁ?まあ、いいや。昨日やり直しって言った書類は?」
呆れた様子で僕に尋ねる。明らかに苛立ちは大きくなっているようだがまだ冷静だった。
「ああ、あれですか。僕のデスクにありますよ。」
そう言って僕は机の上の全く直していない書類を手渡す。
「なんだよ、あるのかよ。たまには仕事を期限内に終えられるんだな、高卒でも。」
僕の態度に不満があるせいか上司も負けずに僕のことを煽りだす。
「はい、チェックお願いします。」
そう言うと上司がペラペラと書類を見た。
「まあ、これでいいよ。昨日よりはよくなった。次からは最初からこれで出せよな。」
「あれれ?それ昨日渡した書類のままなんですけど?もしかしてチェックしてなかったんですか?大卒なのに書類のチェックもせずに部下につき返したんだー。それじゃあ学歴とか関係なく仕事できない人ですよ?」
目の前の上司は完全に堪忍袋の緒が切れていた。書類を地面にたたきつけてこちらを見て僕のことを突き飛ばして言った。
「ふざけやがって!」
床に倒れこんだ僕を見て傍観を決め込んでいた周りの同僚がざわつき始めた。
しかし、気にする必要はない。僕は立ち上がり、上司に詰め寄って左手で胸倉をつかみ上げた。
足が震えていた、今から自分がしようとしている行動に自分でもおびえている。そんな気持ちを押し込めるように右手を固く握りしめて、僕は上司の左頬を殴った。
周りの人間が唖然としていた。足の震えは止まり、晴れやかな気持ちになる。
「僕、今日限りでやめます。お世話になりました。」
そういって振り返って立ち去る。周りで見ていた人も僕の退路を空けた。出口のドアを開いたところで後ろから上司の声がした。
「おまえ!こんなことしてどうなるかわかってんのか?ただで済むと思うなよ!」
振り向いて、ジャケットのポケットに手を入れる。何が入っているのか大方の予想はついていた。二人からの差し入れである生卵を握りしめて大きく振りかぶる。絶対に外さないという強い確信があった。
僕の手から放られた生卵はまっすぐの軌道で上司の額にぶつかって割れた。
「ストライク」という中島の声がしたような気がした。少しだけ懐かしくなる。
『こんなことをしてどうなると思っているのか?』その問いの答えはもう知っていて、大きく息を吸い込んで僕は言った。
「うっせぇーよ、バーーーカ!」
僕はオフィスを出て行く。振り返ることはしなかった。
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