第5話 康太#1

「ほんっとに久保田君はばかだな。これだから高卒はダメなんだよ。使えないなあ。」


そう言って目の前の男が私の提出した書類を投げつけてきた。目の前の男は僕の上司だ。つい半年ほど前に移動によって上司になったこの男は、ミスを部下に押し付け、部下の手柄を横取りし、パワハラセクハラも行うという、いやな上司の典型例のような男だった。

社会人になって七年、学歴のない僕を雇ってくれた会社に貢献するために、寝る間も惜しみ働いた。最初のころは高卒であるという差別で学歴のある上司や同僚から冷ややかな目を向けられることもあったが、三年目くらいからは真面目な働きぶりが評価されたのか、職場になじむこともできたと思う。四年目からは新人の教育や、責任のある仕事も任されて、やりがいを感じることもできた。上手くやっているつもりだった。さぼらず、感謝を忘れず、時には人の代わりに頭を下げることもいとわなかった。大人になれたのだと思い込んでいた。

しかし、半年前に上司が変わってから状況は一変した。終わるはずのない量の仕事を押し付けられ、終わらなければ叱責される。終わったところでそれが当然だと言わんばかりの対応を受ける。時には身に覚えのないミスで他社へと謝罪に行くことさえあった。残業時間は日に日に増えて、最近では週に6日出社するのは当たり前となり、終電を逃すことさえも珍しくなくなった。

周囲の人間が助けてくれるだろうという甘い考えが自分の中から消えたのは三か月ほど前のことだった。仲の良かった同期の中島が上司とともに僕の悪口を言っているのを聞いたのだ。もしかしたら、その場しのぎの嘘だったのかもしれないが、そうだとしても自分の築き上げたと思っていた信頼のようなものが、よくわからない何かによって上塗りされているような感覚が僕を襲った。

僕は一人になったのだと、そう思った。いつだって一緒にいた幼馴染は卒業を機に疎遠になってしまった。進学と就職という進路の違いからすれ違い始め、会う回数が減っていった。初めのうちは毎日のようにとっていた連絡も、日が経つにつれて頻度が減って、健が高校の先生に、忠が一流企業に就職したのを機に連絡は取らなくなった。最後にあったのはもう二年前になるだろうか。


「ねえ、聞いてる?仕事できないんだからさ、せめて人の話してることくらいは聞こうよ?ね?」


「はい、申し訳ありません。」


僕は深く頭を下げた。何をそんなに怒っているのかという疑問も今は浮かばなかった。今はただ目の前の人間の怒りを鎮めるために自分がどうすればよいのかだけを考えていた。


「毎回、謝ってばかりだけどさ。謝って済むなら警察もいらないんだよね。まあ、謝るだけの仕事があるから君みたいなのにも仕事があるわけだけどね。なあ、中島。」


私は頭を下げたままだった。だから、後ろにいる中島がどんな顔をしているのか確認することはなかった。確認せずに済んでよかった。その結果次第では僕はもうだめになってしまうから。


「いや、ジョークだよ。顔上げてって久保田君。この仕事を今日までにやり直してくれればお咎めなしだからさ。」


上司はそう言った。それで済むならいいなどとは口が裂けても言いたくなかった。通常の仕事を後回しにした上に三日かけた仕事なのだ。現在時刻は十七時過ぎ。とても終わらせられるとは思えなかった。だが、ここで「できません」とは口が裂けても言えないのだ。


「はい、必ず終わらせます。」


そう言って顔を上げると上司のニヤついた顔が目に入った。


「じゃあ、せいぜい頑張ってよ。俺は定時だから上がるね、お疲れさーん。」


そう言って僕の肩をたたいた上司は荷物をまとめて帰っていった。僕は投げつけられて床に散らばった書類を集める。帰り際、出口を出る直前の上司が僕に声をかけた。


「あ、そうそう。今週の金曜の有給だけど認めないからよろしくね。仕事できないんだから、休めるわけないよね。」


「そんな。その日は、」


その日は去年亡くなった祖母の命日だった。しかしそんなことを言ったところで結果は変わらないだろう。私は口を噤んだ。

だが、この上司の発言には職場のみんなも思うところがあったようだ。僕が去年のこの時期に祖母の葬儀にまつわる法事で休みを取っていることをみんな知っているからだ。ざわつくみんなに冷たい声で上司が言う。


「なに?誰か何か文句があるの?文句がある人は出てきてよ。」


その発言で職場のみんなは沈黙した。大人として正しい判断だ。だれも他人のために自分の身を危機にさらそうとは思わないだろう。


「ないよね。じゃあそう言うことで。よろしくね、久保田君。」


そう言って上司は帰っていった。「さすがにかわいそうじゃない?」と誰かが言った。そうだ、僕もそう思う。でも、助けてくれないならせめて黙っていろと思った。いつだって助けに来てくれた幼馴染の姿が脳裏に浮かんだ。

でも、あいつはこない。


デスクに座って仕事を初めてどれくらいが経っただろうかと時計を確認すると、時刻は一時を少し回ったところだった。今日も終電を逃したことを確認して僕はため息を吐いた。


「少し、休もう。」


独り言を呟くが、職場にいるのは僕を除いて一人たりともいないから気にする必要もなかった。僕は手元のマグカップに入ったよくわからない色をした飲み物を勢いよく飲んだ。野菜ジュースと、ビタミン飲料とエナジードリンクを混ぜたスペシャルドリンクだった。味を感じなくなってもうどれだけになるかわからない。栄養さえ取ることができればなんだってよかった。死なないために何かを飲んで、死なないために何かを食べ、死なない程度に眠る。いつかあったはずの生きるためのモチベーションのようなものはすでにどこかで使い果たしていた。ただ、生きることに必死だった。どうすれば状況が改善するかなんて考える余裕はほんの少ししかなく、そのほんの少しはわずかでも体を休めるために使いたかった

死んではいけない。自分にそう言い聞かせる。


「あれ?」


なんで死んじゃダメなんだっけ?

それが口から出ていたのか出ていなかったのかはわからない。

だけど、無性に川が見たかった。自分を終わらせてくれるとしたらあの場所しかないような気がした。椅子に掛けたジャケットを手に取ってふらふらと歩き出す。いつかみんなで歩いたあの川を目指して。


________________

どうやってここにたどり着いたのかは覚えていなかった。

けれども僕は見慣れたこの道に。幾度となく幼馴染と歩いた川沿いの道にただりついていた。足にある疲労感から、自分がおそらく歩いてここまで来たのだろうと推測した。景色を見ると、そこには変わらず川が流れていた。この川だけは何も変わっていないなと思った。そしていつかのおぼろげな記憶が脳裏に浮かんだ。


『なあ、この道って海に続いてると思うか?』


健が言っていたそのセリフで僕はまた歩き出す。あるともわからない海に向かって。

革靴で歩いているから疲労感はすさまじい。

風通しの悪い安物のスーツのせいで汗がにじむ。

睡眠時間の少なさからか、頭もぼーっとしてきた。

それでも僕は歩みを止めなかった。


『地図を見る限り二〇〇キロはあるぞ。』


そう言う忠の顔を思い出す。あの日の忠はそのあとなんて言ったんだっけ。


「二百キロは厳しいなあ。」


そうつぶやいた。今が何時なのかはわからないが、きっと朝まで歩いてもたどり着くことはないだろう。


『ねえ、この先に本当にあるのかな?この先に海があるとしたら、それってとっても素敵なことじゃないかな?』


記憶の中の優斗が言う。小学校のころの記憶だからあってるかはわからないけど、きっとそう言っていた。僕の隣を車が通り過ぎていく。

あのとき、僕は優斗になんていったんだろう。それだけが思い出せなかった。

後ろで停車した車から誰かが僕に声をかけた。


「康太か?」


その声に振り向くと、そこには忠の姿があった。


「忠?」


「そうだよ、久しぶりだな。元気にしてたか?」


「うーん、まあぼちぼちかな。」


僕は嘘を吐いた。本当はボロボロで今にも死にそうなのに。


「、、、下手な嘘だな。何してるんだ?こんなところで。」


忠は悲しそうな顔でそう言った。

僕が何をしているのか、それは僕にもわかっていなかった。これからどうすればいいのかも、今何をしているのかも、何もかも僕にはわからない。

なんて言えばいいのかわからなかった僕の口から出た言葉は思いもよらないものだった。


「ねえ、この道って海に続いていると思う?」


それを聞いた忠はとてもびっくりしたような顔をして、そのあと笑いながら言った。


「つながってるよ。ずいぶん遠くだけど。なんたって、地図に載ってるからな。」


僕は半ば無理やり忠の車に乗せられた。どこに向かうのかを聞く気はなかった。僕を連れ出してくれるならどこだってよかったからだ。


「どこに行くのか聞かないのか?」


そんな僕の心情を知らない忠は運転しながら僕にそう言った。


「どこだろうね、想像もつかない。」


「本当に想像もつかないのか?」


「もう、疲れたんだ。何も考えたくない。」


「、、、そうか。」


それっきり、忠は黙ってしまった。それから二十分くらい車を走らせた。たどり着いたのは小さなマンションだった。車を路肩に止めて忠は扉を開いて出て行こうとする。しかし動く気のない僕を見かねて行った。


「康太もいくんだよ。」


「行くってどこに?」


「健のところだよ。」


「きっと寝てるよ。迷惑だからやめとこう。」


それを聞いた忠がため息交じりに言った。


だな、康太は。いいから行くぞ。」


いつか聞いた言葉の響きに少し悲しい気持ちになってから、僕も扉を開けて外に出る。忠の後ろをついていき、ある部屋の前にたどり着いた。忠は何のためらいもなくインターホンを押す。だが、返事はない。当たり前だ、左手の腕時計を確認すると時間はすでに午前三時になろうというところだった。

それでも忠はインターホンをもう一度押す。返事はない。


「だから寝てるんだよ。迷惑だからもう帰ろう。」


「、、、俺たちの間に迷惑なんて言葉はなかったはずだ。あれだけ無茶苦茶しといて今更だろ。」


そうしてもう一度インターホンを押すと扉が開いた。


「うるっせえな。今何時だと、」


そう言って僕らの顔を見た健は目を大きく見開いて嬉しそうな顔をしていた。


「よう、会いたかったぜ?」


「俺もだよ。」


僕は答えなかった。自分が彼らに会いたかったのかどうかも今ではわからない。


「元気にしてたか?って言いたいけど一人元気そうじゃないやつがいるな。」


「いや、元気だよ。」


僕は嘘を吐いた。すると健も忠も笑った。


「なんで笑ってるんだよ。」


「いや、あまりにも嘘が下手だから。」


忠がそう言う。


「本当だよ。そんな顔で何言ってんだ。まあ、とりあえずあがれよ。土産は持ってきたんだろうな?」


「いいや、持ってきてない。というか上がるつもりもない。今日は別の用事できたんだ。」


「別の用事って?」


僕のことを無視して会話が進む。忠は僕のことを指さしながら言った。


「康太が俺に言った言葉を伝えればわかってもらえるかな。」


「なんだよ、言ってみろ。」


「あの道は、海につながってると思うか?」


健は微笑みながら言う。


「そんなのは、行ってみりゃわかるよ。」


「じゃあ、いまから行くぞ。」


あの日の続きが始まる。十五年ぶりの大冒険が。

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