6.Flying Fairy
燃えるような茜色の地平。深い群青の空。
二色が織りなすグラデーションの中を幾筋もの線が横切っている。一直線ではなく、進路を度々変えながら。さながらダンスのように、自由自在に、空に模様を描いている。
「流星?」その絵を眺めながら、私は尋ねた。
「妖精」お婆ちゃんは答える。私のひいおばあちゃん。「空飛ぶ妖精」
私が物心ついたときには既にほとんど呆けてしまっていたお婆ちゃんは、しかしその話をするときだけは急に矍鑠とした様子に変わった。目の前にいる私ではなく、その時の光景が今なお見えているようだった。
彼女は絵を幾つも描いては捨てた。その理由を父が尋ねると、お婆ちゃんは「こんなものじゃなかった」と答えたそうだ。
「あの妖精の美しさは、こんなものではなかった」
最後のこの絵は私が生まれる前に描き上げられた。これが最後になった理由は、その出来栄えにお婆ちゃんが満足したからではない。手が震えてうまく絵筆を持てなくなったからだ。彼女の思い出す風景が、キャンバス上に再現される日は来なかった。
私の記憶の限り、ほとんどの時間を寝て過ごしていたお祖母ちゃんは、同じ部屋に飾ったその絵をぼんやりと眺め続けていた。
「妖精」とお婆ちゃんはつぶやいた。「また来ないかね」
「本当に見たの?」と尋ねる私の声は、お婆ちゃんの心には届かない。
「妖精」彼女は繰り返した。何度も何度も。その記憶だけがはっきりと頭に焼き付いていたのだろう。美しい色彩の空を、妖精たちが飛ぶ姿を。
「また助けてくれないかね」
お婆ちゃんの年代が、前時代最後の世代だったらしい。
つまりは、外の世界で暮らしたことのある最後の世代。
だから、彼女が幼いころに見たものの正体がなんだったのか、私には正確にはわからない。お婆ちゃんを助けたという妖精が、いったい何者だったのか。
この街の天井には、流れ星一つ映らない。
***
進路をある程度自由に選べる成績を収めながらも、人文学なんて需要の少ない専攻を選んだ挙句に卒業が危ぶまれる程度に本業がおろそかになっている私に、父は当然いい顔をしない。
「留年したらもう補助は出ないんだからな」と父は口を酸っぱくして言う。「そうなれば学費がどれだけかかるか分かってるか?」
「分かってるよ」と私は言う。この街は、社会に貢献しないものに冷たい。とりわけ、正当な理由なく学業や勤労を怠る輩には。なんとか精神疾患の診断でも取り付けられないかと私は画策していたが、療法がある程度確立されてしまった昨今、そういった向きにも情勢はだいぶ厳しくなっている。さすがにそろそろ卒業と就職目指さないとなあ、と考えを改めつつあるところだ。どうせいまの研究は単位にも乗らないほとんど趣味みたいなものだし、いずれは働きながら傍らでやることになるのだから。
「絵のことは忘れろ」と父は言う。
「何のこと」と私はすっとぼける。
父は呆れてため息をつく。
「あれは祖母ちゃんの妄想だ」父は続ける。「あの絵はなにも示さない」
「分かってるよ」と私は言う。確かに分かっている。あの絵自体は証拠にならない。辛うじて手掛かりになるだけだ。
それでも、私は真実を知りたいし、本当の出来事を確かめたいのだ。
「真実なんざ、何の助けにもならねえよ」と全てを見通したように父が言う。
「分かってる」何一つわかっちゃいない私は答える。
***
この街の成り立ちの欺瞞。あるいは、この街の身分階級を支える錯誤について。
運用開始から百年余りが経過したこのドーム。その始まりについてはこう記されている。世界規模の破壊的な戦争の懸念が高まる中、人類を保存する方舟としてこの場所は作られた。戦争の帰結として予想される外部汚染が完全に解消されるまでの期間、何百年か何千年かわからないその年月を耐えるため、内部で人類が半永久的に生命活動を続けられるように設計されたそうだ。
果たして、戦争は起こった。西側と東側の大国の資源の利権争いを発端として。戦火は瞬く間に広がり、世界中を覆いつくした。片方の大国の傘下につく形となっていたこの国も当然巻き込まれ、そしてこの街は予定通り運用開始された。守るべき国民を安全に生活可能な上層に招いて、そして廃棄層、汚れ仕事を請け負う過酷な下層には、敵対国の捕虜を押し込めて。
敵対国。それが下層民の人権を、私たちが半ば無視できている理由だ。彼らは守るべき国民ではなかった。だからその子孫である彼らも、特に人間扱いする必要はない。そして私たちはまた、安心するのだ。自分たち以下の、虐げる対象がいることによって。
私たちは下層を見下し、あれよりはましだと自分たちの生活に妥協できる。その不満のはけ口があることにより、上層にも存在する、ふんわりとした身分格差は受け入れられることになる。管理中枢、中央市街市民、郊外農民。一応の職業選択の自由が保障されていることにより有耶無耶にされたこの格差。しかしあらゆる就職の希望と求人は一度中枢に収集され、それから職種が割り振られる。私の世代では、この区切りを超えて異動した人は数少ない。それでも、職が与えられるだけありがたいのだ。職にあぶれて食いっぱぐれるよりは。ましてや、上層民の資格なしと判断され、下層送りにされるよりは。
以上が通説であり、我々が信ずるこの街の歴史だ。
さて、ここで私が呈する疑問。
この街の、国民保護という設計目的については正しいとするとして。それであっても、このドームに収容できる人数は、全国民のうち、限られた割合だったはずだ。したがって、以下の点に疑問が残る。
上層に予定通り招かれた国民——予定通りだとして、どうやってドーム内に入る国民を選別した? 抽選か資産か、いずれにしてもあぶれた国民からの反発は免れられない。そんな状態で、スムーズにこの街の運用を開始できるのか?
あるいは、国内の混乱を避けるために極秘裏に勧められたのかもしれない。その可能性は非常に高いと思う。しかし、そうだとして。なぜ下層に敵対国の捕虜を押し込めた? その前に少しでも自国民の救える数を増やそうとするのが自然ではないか? さらに、近代戦争においてそれほどの数の捕虜が国内に生じるものなのか?
下層民は本当に外国人なのだろうか。下層民の容貌を記す数少ない資料を見ても、上層民との明確な差異は記されていないことも、私のこの疑問を助長する。
これらの疑問を解決するには、この街の始まりの記録は足りない。何の問題もなく、この街は始まっている。住民全員が協力して全てを忘れようとしたみたいに。もしくは、大いなる何かによって忘れさせられたみたいに。問題がなさすぎるのが問題なのだ。こんな大きな規模の計画で、問題が起きないわけがないのだ。
「妖精」
曾祖母は言った。
「空飛ぶ妖精が助けてくれた」
妖精なんて存在しない。少なくとも私は信じない。だから、小さな彼女が見た空を飛ぶものは、間違いなくいずれかだと思っている。
戦闘機。
あるいは、ミサイル。
そしてそれらが燃やした、真っ赤な都市。
なぜそれに、曾祖母は助けられたのか。
以下は私の仮説であり、言ってしまえば妄想だ。
このドームの建設目的は、戦争や環境汚染から人類を守ることだっただろう。しかし、収容できる人数が限られることから、その計画は政治家なり富裕層なり、限られた範囲の中で極秘裏に進められた。しかしこの規模の計画を完全に隠し通すのは難しい。何らかのルートで国民全体が知ることになり、大きな反発が生まれた。
結果、クーデターが起きた。その内戦によって国土は荒れたのかもしれない。もしくはそれに乗じて他国が侵攻を開始したのかもしれない。いずれにせよ、シェルター内に追い込まれる程度に環境は汚染された。
そしてこの街の運用は始まった。予定より早く。クーデターを起こした人々が上層を乗っ取り、そしておそらく、自分たちだけ助かろうとした人たちを、未完成で危険な下層に押し込めて。
かつての支配層を踏みつけて生きている街。
この街の真実について、これが私の予想していることだ。
***
私が書き散らしたノートを覗いたのか、あるいは普段の私の言動からか、父は私の思想について感付いている節がある。そして、その仮説があながち間違っていないと思っている節も。私よりこの街の始まりに近い年代の父には、どこか覚えがあるのだろう。
「真実なんざ、何の助けにもならない」
しかし、父はそう言う。
「聞こえの良い噓を人は好むんだ」
アカデミーに入り、本格的に調査を始めてから数年が経つ。歴史捏造の根拠は未だに見つからない。論文や文書を含むあらゆる表現物は軒並み中枢に検閲されているし、小説などのフィクションとして事実を偽造しようにも、そもそもこの街では芸術品が商流に乗っていない。莫大な量が残された前時代の遺産だけで、娯楽としては十分だ、というのが中枢の言い分。もちろん言論統制の狙いがあると私は見ている。
残された手掛かりは、個人的に残されたもののみ。私の曾祖母の絵のような。そのほかに、前時代のことを記した日記などを数点私は入手している。しかし、世界大戦や内戦そのものについて記述したものはやはり見つからない。前時代の人たちがみな揃って口をつぐんだように。
「下層民の解放でも望むのか? 身分格差の解消か?」
そんなこと、現実にできるはずもない。そうなった場合、根幹を支えるサイクルが壊れたこの街は遅かれ早かれ破綻する。誰一人幸せにならない。みんな仲良く滅亡の一途だ。
「それでも、お前は望むのか」
私は頷く。
生ぬるい虚構に浸って生きるなんてまっぴらだ。
「好きにしろ」
父は優しく、小さく笑う。
***
私は記す。
この街の記録を。事実を。歴史を。すべてを。
確実な過去の記録を入手するには、中枢の文化局に入り込んである程度上り詰める必要があるだろう。これがどれだけ現実的な目論見化はわからない。そのうえ、いくら遺物を収集して考証を確立したとて、学術界がまともに機能していないこの街では、私の論考がまともに審査されることは望めない。握りつぶされて終わりだろう。
それでも私は記録を残す。
記した文書はハード的にもソフト的にも多数コピーして、分散して保存する予定をしている。ある程度は発見され焚書されるだろうが、ほんのわずかでも後世の人々の手に渡るを願っている。そして彼らに、この街に対する疑いと、真実を求める心が生まれることを。
偽装はいつか暴かれる。虚構はいつか破綻する。そして私の住むこの街はフィクションだ。
そう信じる私は、果たして狂人か。
それとも真実の探求者か。
それを決めるのは後世だ。
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