フォルクスワーゲン

ぼんぞう

フォルクスワーゲン

 春の風が心地よく通りを吹きぬけて、のんびりとした週末の朝をよりいっそう晴れやかにしている。

通りには柔らかな日差しを受けてレモンイエローのずんぐりとした車体が居座っていて、その姿をキッチンの窓越しから初老の婦人が眺めている。朝食にお手製のスコーンにマーマレードとカモミール・ティーをすすりながら、久しぶりのドライブにその胸を弾ませていた。


 以前乗っていた車は、去年天国へ旅立っていった夫の趣味で、75年型のクライスラーのワゴン車だったのだが、彼女は正直あまり気に入ってはいなかった。

 だが、幸いそのポンコツも夫の後を追ってか1カ月ほどしてお払い箱になってしまった。家族からは、もう歳だしこれを機に車の運転を止めるように言われたが、彼女は頑として聞かなかった。そこで息子が渋々バースデープレゼントも兼ねて、彼女が以前から気に入っていたレモンイエローのビートルを買い与えたのだった。


 彼女は子供のようにして喜んだ。ビートルのどこに惹かれたのかは誰にもはっきりと話すことは無かったが、どうやら、彼女の若き日の思い出と関係があるようだった。

 いずれにしても、前日に中古車のディーラーから届いたばかりの愛車をたいそう気に入って生涯の友のように大切にしようと心に決めていた。

 朝食を済ますと彼女は、花柄の白いワンピースに着替えて、昨日からテーブルの上に置かれたままだった、車のキーを取り上げると、家を出て、主を待っている車のドアにキーを差し込んで、ドアを開き颯爽と運転席に腰を下ろしドアを閉めた。ワゴン車より軽い音だったが、彼女にはそれも愛らしかった。


 婦人は一呼吸おいてからエンジンキーを挿入し勢いよく右に回した。しかし快活なエンジン音が聞こえてくることを想定していた彼女の耳には、何も聞こえてはこなかった。いや、正確にいうなら、エンジンキーが打ち鳴らした、わずかな金属音が聞こえてきただけであった。彼女は眉をひそめ、再度キーを元に戻し、確実にキーを回した。が、先ほどと同じ結果だった。そして、また同じことを力いっぱい試みてみたが、何も起こらなかった。使い果たした力が、憂鬱な疲労感に変わり、彼女を苛立たせるのに、さほど時間はかからなかった。「こんな筈がない、何かしら自分が間違いを犯しているのだ。きっと簡単な間違いを・・・」そして、いったん熱くなりかけた気分を静め、冷静に対処すべくあらゆる可能性を考えてみた。間違って別のキーを持ってきたのでは・・・。だが、家にある車のキーはこれ一つだけである。昨日ディーラーから息子が運転して持って来た時には元気に走ってきたのではないか。やはりエンジンの故障しか考えられない。

 そして、車を降りて前にまわり、フードを開けた。するとそこにあるはずのエンジンがないではないか。彼女は取り乱した。そんなバカなことはない。「そうだわ、盗まれたんだわ、この車は貴重だから、きっとエンジンだけ盗んで行ったに違いない」


 そこえ、都合よくパトロール中の警察官が通りかかった。婦人は興奮してその警官に声をかけ、事情を説明した。警官は事態がすぐに飲み込めたので、ゆっくりと車の後ろに回りこみ、無言で後ろのエンジンフードを開け、ニッコリと婦人の方を見た。婦人は警官のそばに駆け寄り、開いたエンジンルームの中を覗き込み、そして満面の笑みを浮かべながら、たいそう感心したようにこう言った。


「まー、予備のエンジンまであったなんて」

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フォルクスワーゲン ぼんぞう @hioki5963

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