ヴァンパイアと伯爵令嬢
朝姫 夢
ヴァンパイアと伯爵令嬢
「何を泣いているんだい?」
かけられた声に顔を上げると、揺れるカーテンの向こうに人影が見えた。
「………ノエルっ…」
そこにいたのは美しい青年。透き通るような白い肌も、光を反射する金の髪も。どんな貴族の貴婦人であろうと足元にも及ばない程の、圧倒的なその美しさ。それでいて、薄く赤い唇は緩く弧を描き、すっと通る鼻筋は優しく影を落としていた。
「僕の可愛いお姫様。一体何がそんなにも君を苛むのか…教えてくれないかい?」
ゆっくりと近付いてくる彼に嬉しさと苦しさを覚え、手許のシーツを胸元で握りしめる。それを見て、美しい青年はわずかに柳眉を顰めた。
「…何が、あったのかな?」
満月にほんの数日足りないだけの月に照らし出されて普段よりも明るい室内は、美しい彼の顔をしっかりと映し出していた。だからこそ気付いてしまった。何もかもを見透かすような、それでいて神秘的な透き通った青い瞳の奥で、僅かに光が揺れている事に。
「……っ!ちが、うっ…」
美しさと恐怖は紙一重、もしくは表裏一体であるという事を、彼等はよく知っていた。美しければ美しいほど、畏怖の念を抱くか、恐怖の対象となる。けれど…
「ちがう、の…わたし、は…!」
"彼"の事を怖いと思ったことは、一度もなかった。美しいとは思えど、恐怖を抱く理由などなにもなかったのだ。
「それなら何故…」
「私っ…」
彼の言葉を遮って、それでもまだ言い出すのを躊躇ってしまう。何度か口を開いたり閉じたりを繰り返す。けれどその瞳が哀しそうに揺れているのを、いつまでも見続けてはいられなかった。
「わた、し………婚約、しました……」
「……ぇ…?」
まるで時が止まったかのような沈黙が流れた。ほんの数秒がとても長く感じるほどの、不気味なまでの静けさが辺りを支配する。揺れる木の葉の音すら聞こえないほどの静寂。
それを先に破ったのは、青年の方だった。
「……婚約って…サーシャ、が…?」
「…はい…」
「まだ、舞踏会にもデビューしていないのに…?」
「……はい…」
幼い頃から体が弱く、貴族の令嬢としての役目が果たせるかも分からなかったため、今まで婚約者どころかまともに友人すら出来なかったのだ。そのため十八になった今でも社交界にすら出た事がない。ダンスなど、もっての外だった。
「確かに、他の方に比べて体の弱い私は、嫁いでも健康な子供を産める確証がありません。けれど…」
「それでも構わないと言う貴族が、現れたんだね?」
「……はい…」
『同じ伯爵位だが、あちらは古くから国王に仕える文官の血筋だ。家名も地位も、申し分ないと思うぞ』
『あちらから是非にとお願いされたのですよ。大変名誉な事ではありませんか』
そう両親は喜んだ。当然と言えば当然だろう。どこにも嫁がせられないと思っていた娘が、まさかの金の卵になったのだから。
「本来ならば、私も喜ぶべきところなのは分かっているのです。でもっ…」
「あぁ、そこで本気で喜んでいたら、僕は君を許さないよ?」
「…っ!!」
長い指が顎にかかって、俯いていた顔を上げさせる。月明かりに照らされて、涙で濡れた瞳が儚く揺れながら煌めいていた。
「…君は、何か勘違いをしているみたいだね?」
「…?」
「"僕ら"は、一度決めた相手の事は何があっても離さないし、逃がさない」
「…っ!?」
「君は知っているだろう?"僕"が、何者なのか」
耳元で甘く囁かれた言葉は、その声色とは裏腹に、どこか愉しそうな響きを含んでいた。
「本当は今すぐにでも、君の喉元に噛みつきたいのに…」
「んっ…!」
首すじに柔らかな唇が触れる。その感触に、一瞬でも期待してしまった。このまま、連れ去ってくれるのではないか、と。
「それで…君はどうしたいんだい?」
「ぁ……わたし、は…」
「言っておくけれど、貴族の義務なんて理由は聞いていないからね?」
「っ!!」
言い淀んだ理由を言い当てられた驚きから、大きく目を見開いてノエルを凝視してしまう。青の瞳が交錯する中、絹のような髪をさらりと流してノエルは首を傾げた。
「当然でしょう?だって君には、貴族の令嬢としての義務を果たす理由がないんだから」
「な、にを…」
「だってそうでしょう?君が受けたのは、本当に最低限の教育だけ。ダンスのレッスンどころか、ドレスの一つも作ってもらえていないのに。それで令嬢の義務がどこに発生するんだい?」
「…っ!!」
体が弱いから、ダンスなんてできるわけがない。舞踏会に出られないから、着ることのないドレスなど作る必要なんてない。どこかに嫁げるのかも分からない上に体力もない娘に、必要以上に知識を与える必要なんてない。
一見優しく思えるような理由の裏にあるのは、使えない娘など世間体を気にして生かしておいているだけに過ぎないという、愛情のかけらもない家の方針。誰も口には出さなかったけれど、誰もがみな同じことを思っていたのだ。金と時間と労力の無駄だ、と。
真実だと分かっていても、あまり直視したくない現実であるという事に変わりはなくて。つい唇を強く噛みしめてしまう。
「あぁ、そんなに強く噛んだら血が出てしまうよ?ごめんね。そんな顔をさせたかった訳ではないんだ…」
俯きかけていた少女の顔を上げさせて、親指で優しく唇をなぞる。その仕草に噛みしめる力が緩んだのを見て、青年はふんわりと微笑んだ。
「僕はね、君自身の本心が聞きたいんだ。義務とか役割とか、そういう事は一切考えないで…君の純粋な気持ちが、知りたいんだ」
その真っ直ぐな言葉と瞳に、貴族として、令嬢として、本来言ってはいけない、思ってはいけないと押しとどめようとしていたものが、堰を切ったように溢れ出す。必要とされない場所とされる場所。必要としてくれない人としてくれる人。どんなに冷静に比べようとしたところで、結果はいつも変わらないのだから。義務も役割も除いてしまえば、残るものなど一つしかない。
「わ、たし…私、は……ノエルと、一緒にいたいっ…!他の人のところになんて、嫁ぎたくないっ…!!ずっと…!ずっと、ノエルと一緒にっ…!?」
最後まで言い切る前に、言葉ごと彼の唇に塞がれてしまった。そのまま啄むように数度優しく触れたかと思うと、ゆっくりと離れていく。その表情は、とても満足そうに微笑んでいた。
「やっと……やっと、言ってくれた…ずっとその言葉が聞きたかったんだ…」
そう言ってサーシャの体を優しく抱きしめる。そのまま耳元に唇を寄せて、ノエルはそっと囁いた。
「これでやっと、君を連れて行ける…」
「……ぇ…?」
突然の事に惚けたままついていけていなかった頭が、その言葉に反応して冷静になる。言葉も発せずに、ただただ目を見開いて見つめてくるサーシャの驚いたような表情を見て、青年はくすりと微笑った。
「君が僕と共に生きる決心をしてくれたら、いつでも連れて行ける準備はしていたんだよ?」
「え…?」
「だってこちら側に来てしまったら、きっと君は二度とここには戻って来られないだろうから」
「ぁ……」
それは、連れ去ってしまう彼にできる最大限のやさしさ。この場所に未練を残したまま、無理に攫ってしまうようなことをしたくないという。
彼女にとっては、どんなに必要とされていなかったとしてもここだけが家で、家族のいる場所なのだから。
「それとも、まだここを離れる決心はつかない?」
青年の言葉に、間髪入れずに首を横に振る。
「…どこに嫁いでも、きっと私は二度とここには戻って来られない。それなら…私はあなたと共に生きたい…」
「…っ…!あぁ…本当に、やっと…やっと君と一緒に生きられる…」
美しい顔を切なそうに歪めて、それでもなお、瞳の奥の熱だけは真っ直ぐにサーシャへと向かう。あついあついその熱に、いつか溶かされてしまうのではないかと錯覚してしまうほどの、それ。
けれどふと、今気付いたかのようにノエルが苦い顔をした。
「あぁ、そうか…ここからが、僕にとって本当の試練なんだね」
「…?」
「だって君は、魅了されてくれないでしょう?」
そう言うや否や、瞳の色を変化させる。それは全てを魅了する、紅い瞳。一度その瞳に魅入られてしまえば、彼の言葉一つで命さえ差し出してしまえるほどの強い力。
けれど――
「……きれい…」
「うん、そうだよね。君はいつも"この瞳"を綺麗だとは言ってくれるけれど、決して魅了されてはくれない」
苦笑して、光を宿したまま真っ直ぐに見つめてくるサーシャを見下ろす。虚ろにならない瞳は、自我を保ち続けている何よりの証拠。本来ならば光を失った瞳を向け、意のままに操られる人形と化すはず、なのだが…。
「君と一緒にいると、僕は本当にヴァンパイアとしての力を持っているのかどうか不安になるよ」
「…?ここまで誰にも見つからずに辿り着けるだけでも、十分力がある証拠では…?」
少なくとも、今のサーシャはこの家にとって金の卵。すんなりとこの部屋に入り込む事など、ただの人に出来る芸当ではないのだ。彼がヴァンパイアだからこそ、その力を使って侵入出来ているにすぎない。
「まぁ、ね…。でも今回ばかりは…魅了されてくれないかな?」
「そう、言われても……」
見つめ続けていても魅了されないのに、これ以上どうすればいいのか。困ったように見上げてくるサーシャに、ノエルも少し困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「瞳の奥に吸い込まれるようなイメージをしてみて?少しでも変化があったら、怖がらずに"それ"に従ってしまえばいいから」
「……どうしても、魅了されなければダメ…?」
「…人に、こちらの世界に繋がる道を教えてはいけない決まりになってる。たとえこれからこちら側の住人になるのだとしても、そこを通る時君はまだ人間だから」
「……どうしても、ダメだったら…?」
「その時は…目隠しでもしようか。音も極力聞こえないように工夫して…」
少し困ったような顔で答えたハイルの言葉は、苦肉の策としか言いようがないものだった。想像して……完全に全てを遮断することはできないだろうと早々に結論付ける。
「……私、眠っていた方がいいですね…」
「うん。だからそのためにも、魅了されて…?」
「……やってみます」
懇願にも近い言葉に、小さく頷いてみせて。その瞳のさらに奥を覗くように、じっと見つめ返す。暫くそうしていたら、眠りに落ちる瞬間にも似た瞼の重さが感じられるようになってきて。やがて徐々に瞳が虚ろになり始めてくる。そして完全に瞼が落ちる瞬間、サーシャの体が何の前触れもなく後ろへと傾いた。それを危な気なく片手で支えて、ノエルは優しく微笑む。
「…もう、大丈夫。君はもう、後ろめたさを感じなくていいんだ。何も心配しなくていいからね…」
呟いて、意識のない彼女の額にくちづけをひとつ。
「……ありがとう」
自分を選んでくれた事、決心してくれた事、そして何よりも、出会って受け入れてくれた事。彼女の存在そのものへの感謝と、敬愛の意味を込めて呟く。その表情は、ひたすらに愛に溢れていた。
「……さて、と。それじゃあ始めようか。最初で最後の大舞台を」
どこか台詞がかったようにそう言って、サーシャを抱きかかえたまま窓辺へと寄る。開け放たれた大きな窓から、遮るもののなくなった月光が惜しげもなく降り注ぐ。時折揺れるレースのカーテンが、より一層場面を彩っていた。
「さぁ、呼んで?君に出来る範囲でいいから。ほんの数言、僕を拒絶するように…誰か人を、呼んで?」
気を失ってはいても、サーシャが完全に魅了されている訳ではない事を分かっているノエルは、命令ではなく懇願する。その証拠に、彼女の唇はすぐには動かない。ゆっくりと、震えるように開いて。そこで数秒、止まってしまう。
「大丈夫。それが済めば、君は眠っているだけでいいから。ねぇ…サーシャ?」
甘く名前を呼んで、さらに懇願する。するとサーシャの閉じた瞳から、一筋の涙が伝う。後に彼女はこの涙について「嘘でもノエルを拒絶するなんて、簡単に出来るわけないでしょう…!?」と語った。もちろん直後に、破顔したノエルに抱きしめられるのだが。それはまた、別のお話。
しかし今はそんな事を知る由もないノエルは、場面に彩が加わったとしか思っていなかった。何故ならば、涙を流した直後にサーシャが声を発したからだ。
「だ、誰か…!誰かっ…!!ぃ、ゃ…いやぁっ…!!」
「お嬢様!?どうなさいました!?」
駆けつけたのは、サーシャ付きの侍女。体の弱い彼女に何かあってはいけないと、婚約が決まってからつけられた専属侍女である。
「お前、はっ……」
けれど駆け込んで来てすぐに見つけた影を見て、彼女の動きは止まってしまった。その瞳からは、完全に光が消えている。
「あぁ、先に"これ"を見てしまったのか…失敗したな」
くすくすと愉しそうに笑うノエルの瞳は、紅。人をいとも容易く魅了してしまう、その色。
「仕方が無いなぁ…」
呟いて、一度瞼を落とす。そして次に彼が目を開いた時、その瞳は月光を受けている時の比ではないほどに発光していた。
『君が駆け込んで来た時には、彼女は涙を流して既に気を失っていた。ヴァンパイアに無理やり連れ去られる姿を見て、君は急いで人を呼ぶ。いいね?』
「はい……」
そう、あくまでもサーシャは"無理やり連れ去られてしまった"のであり、そこに彼女の意思は存在しない。そういう設定でなければならないのだ。
「探しても無駄だから、諦めて」
最後に命令ではない言葉を残して、ノエルはサーシャを抱えたまま闇に消えて行った。
その後、両伯爵家による必死の捜索が行われたが、ヴァンパイアの言葉通り令嬢が見つかる事はなかった。
この出来後は伯爵家の悲劇として後世に残る事となり、またこれを題材にした本も多数出版されたのだが、今もこの事件の真相は明らかにされていない。
ヴァンパイアと伯爵令嬢 朝姫 夢 @asaki_yumemishi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます