病床の桃

「桃が欲しい、」


 とかすれた声でねだった君に、僕は桃を買ってきた。

 なるべく柔らかくて瑞々しい桃を、夏の果物屋さんの匂いごと届けるように、腕に抱えて君の待つ病室に帰ってきた。

 君は開け放たれた窓の向こうを見ていた。

 カーテンがひらひらとしなやかに、遠慮がちに踊っていた。

 そこから君は何を見るんだろう、ここにいる君にしかわからない、夏の、儚い色が君の瞳には映っているのだろうか。

 そんな君を邪魔しないように、僕はそっとベッドの横の丸椅子に腰掛けた。君は振り向かない。小さな果物ナイフを戸棚から取り出して、すうっと桃の表面に滑りこませた。切れ込みの先から、じく、と果汁が溢れだす。僕はそつなく桃の皮を剥き切り分ける、腕に果汁が滴った。

「剥いたよ」

 お皿に乗った桃に楊枝をぷつりと刺して、僕は声をかけた。

 君はゆっくりとこちらを振り向いた。髪の毛がさらりと頬から流れたのがあまりに美しくて、僕は小さく息を呑む。

 かさついた唇から、ありがとう、と小さな声が零れた。彼女に身体を起こす力はなかった。代わりに、ゆっくりと口を開けた。ガラス球のように透き通った目でじっと僕を見つめる。

 前にもまして透明感の増したような気がする君に、僕は一瞬だけ、ひどい不安を覚えた。


 ねえ、わかっていることじゃない。

 君の瞳は、ただ僕にそう伝えているような気がした。


 不安を隠すように、僕は慣れた手つきで君の口に桃を持っていった。君はほんの少しだけ首を僕の方に傾けて、汁の滴りそうな桃を口に含んだ。

 口の端から含みきれなかった果汁が溢れるのを僕は見逃さなかった。


 瞬間、僕は君の顔に唇を近づけ、溢れた果汁を舌で掬った。


「おいしい」

 僕が唇を離すと、君は微かに笑った。今日はじめての笑顔を見せた君に、「あまいね」と僕も答える。

 外では相変わらず蝉がじわじわと鳴いて暑さを演出しているのに、

 この病室だけ、

 君の周りだけ、


 夕暮れのように涼しいと思う。

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