小話あつめ

なとり

碧い獣

 あるところに、一匹の獣が住んでいた。

 かれは小さく細い身体で、ふかふかした尻尾を持っていた。

 かれの居るところは水色の空と、どこまでも続く広い大地と、あたたかな風と太陽と、明るい空気に満ちていた。花が咲き、蝶々が飛び交う場所だった。

 しかし獣は、それらに一切興味を示さなかった。明るく健やかな世界には、かれを惹きつけるものは何一つなかったのである。

 代わりに獣は、きらきらした眼で夜を歩いた。

 かれはいつも飢えていて、その牙を突き立てられる肉を探していた。

 ある時には虚空へ噛み付き、あるときは手を伸ばして花を手折った。


 いつの間にか獣の周りには、花が咲いていた。手折った花を弄び、枯らした結果、そこに種が芽吹いたからだ。

 花が枯れると今度はそこは淵になり、獣は水を湛えて鏡となった淵に、己自身を覗きこんだ。

 かれはむかしの、ある思想家の言葉を思い出した。

「深淵を覗きこむとき、お前もまた深淵に覗きこまれている。」


 獣はあるとき、淵へ飛び込んだ。底には何があるんだろうと気になったからである。

 とぷんと音を立てて、しなやかな己の身体は鏡のような水面へと滑りこんだ。

 けれど、獣はすぐにそれを後悔した。

 当たり一面の暗闇に、己の四肢すら見失った。こわくてこわくて、たまらなくなった。

 淵は深く終りが見えないし、水は冷たく身に沁みる。獣はかなしみに声を上げて哭いた。

 ぶくぶく。肺から出たのは、音でなく泡だった。


 獣はその水に身体を揺らし、孤独を知る。

 無邪気な花も、呼吸に足る空気もここには何もなかった。必死に水を掻き分けても、水面は遠くなるばかりである。

 獣は絶望し、諦めて眠るように目を瞑った。

 もう二度と目覚めなければいいと願いながら。







 どのくらい時間が経ったのか、四肢に確かな感触を得て、獣は再び目を開いた。

 音を聞いた。


 開いた五感全方向、さやかに草が風になびいて鳴っていた。

 どこか南の、外国の夕暮れのような深い藍色の空から、温かく湿った雨が降っていた。



 錆色の髪をした女の子が遠くを見つめて立っているのを、獣は見つけた。

 白く透き通ったワンピースの裾が、ひらひらと踊っていた。

 彼女はそれを気にも留めずどこか遠くを見つめたまま考え事をしているのか、こちらに気づかない様子であったので、久々に命を見つけたかれは彼女の暖かな首筋に食らいつこうとそっと後ろから忍び寄った。

 すると彼女は振り返り、ふわりと微笑み、「あなたも一人なの」と獣の目を見て呟いた。

 華奢な手で、そっとかれの毛並みを撫でると、腕を回して首元に顔を埋めた。

 まるで昨日までともだちであったかのような彼女の振る舞いに、獣は一瞬たじろいだ。

 けれどあまりに彼女の己を撫でる手が優しく、目を細めて慈しむので、かれの心はとても安らいだ。


 しとしととかれの背中や彼女の髪のに降り注ぐ穏やかな雨は、ふたりをこの世界に溶けこませようとしているようだった。


 いつの間にか、なんだか酷く眠気を覚えていた。

 音と光を遮断された世界の中で、目を閉じていたあの時、本当はずっと眠ってなどいなかったのだ。

 聞こえるはずのない音に耳を澄ませ、瞼の裏側で見えるはずのない光に目を凝らし、冷たい水に知らず涙が溶けて。

 今や雨で感覚の凪いだ身体を丸めて、獣はしっとりと濡れる草の上に横たわった。鼻先から肺に、涼やかなみどりの空気が通った。

 彼女は、くるりと巻かれたかれのふさふさの尻尾を枕にして、身体をかれに預けた。

「おやすみなさい」

 そう言って閉じた睫毛の先に光ったのは、雨の滴か彼女の涙か。

 彼女が呼吸するたび暖かな重みを感じて、それから獣は静かに意識を手放した。





 いつまでもいつまでも、草原はさらさらと鳴っていた。

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