第2話

 しょぼんとして謝る御藏密を慰めながら、緑とは伯母姪の間柄の高野たかのまいが、童女の様な顔を陰らせて静かに言った。

「あなたが謝る事じゃないわ。お婆さんに付き添って病院に行っている間に、緑は逮捕劇を繰り広げたんだから、止めようがなかった」

「だから、違うってばっ」

 水谷緑は、立ち上がって主張した。

「確かに、走って追いかけたけどっ」

「追いついたんでしょ?」

「確かに、追いついたけどっ」

 それも、信じられない話だが、緑の事だからあり得る。

「前には、立ちふさがってないのっ」

「でも、捕まった二人は、前に立ちふさがった奴が、二人まとめてラリアートかまして来たって、主張しているのよ?」

「だからー」

 ぶんぶんと拳を振り回しながら、少女は力説した。

「知らない学校の制服着た子が、立ち塞がって、捕まえちゃったのっ」

ブレザー制服ではなく、詰襟のついた黒い学生服だったと言う。

「どこかの、中学生ね」

 校章までは、遠過ぎて見えなかったと言う緑に、舞は少し考えて尋ねた。

「その、乗っていた原付。ほとんど無傷で横倒しになってなんだけど、もう一人いた?」

「いたわ。だから二人連れの、大小の中学生っ」

 どちらも緑より大きかったが、より大きい体格の少年が、走っている原付に乗る二人を、ラリアートでまとめてサドルから引きはがした。

 その後ろで無人になった原付を、小さい方の少年がハンドルとタイヤを手足で止め、エンジンを切ったのだ。

 横倒しにして去ったのは、警察が近づいて来るのに気づいたからのようだった。

「……」

「補導歴でも、あるのかも」

 この都市の中学生でないのなら、こちらに来ること自体が補導対象となる。

「だから、その二人を探し出して、証言させてよ。私が感謝される事じゃ、ないんだからっ」

 老婆の手提げ鞄は、無事に戻って来た。

 老婆の娘がわざわざ自宅までやって来て、自分に礼を言った。

 違うと主張しても、まあまあと取り合ってもらえなかったのだ。

「やってない事で感謝されるのって、何か違うでしょうっ?」

「ま、そうね。でも……被害者の証言が、一番信用されるのも、仕方ない事なのよね」

「そんなあ」

 テーブルに突っ伏す少女を、舞は呆れたように見守る。

「嫌味は聞き流すけど、やっていない事に対する嫌味は、納得できないよう」

「……」

 この件も、明日には学校の教師陣の元に届くだろう。

 担任は話が分かる男教師なのだが、副担任の女教師が昔堅気な考えをする一人だった。

 善行でも、暴力はまずいとか、そういう類の注意なら分かるが、全く別な考えで嫌味ったらしい注意をして来る。

「あのおばさん、また、私が男に色目を使うために、いいことしようとしたって、勘違いするわっ」

「だね。あの人の思考回路も、謎だよね。何で、男のひったくり二人をまとめて止める話が、色目を使う材料になると、考えられるんだろ」

 正義感が強い緑が動くたびに、その女教師と妬みから手を組んだ学校の女生徒たちは、男へのアピールだと判断する。

 確かに、草食系の男子はかっこいいと憧れ、肉食系の男子は苦笑交じりに見守っている傾向があるが、今迄の緑の活躍では、色よい話は浮かんでこないはずだった。

「殆ど、男相手の騒動だものね」

 その度に尻拭いしている女は、大きな溜息を吐いた。

「そう言えばあの先生、文科系の部活の担当なのに、緑さんを運動部に誘っていました」

「あ、それも、嫌味の一つだよ。力が余っているなら、運動部に入ったらって。そんなことしたら、大会出場停止処分が、私がいる間中、解けなくなりますよって、断ったけど」

 偶々近くにいた、柔道部に所属している兄弟のそうが鋭く反対したから、教師もその時は退散したが、柔道以外ならと運動部の担当を巻き込んで、勧誘する空気が未だにある。

「もう、三年生なんだけどっ」

「要は、体育の教師にでもなって欲しいんじゃないの? 運動部に入れておけば、推薦枠も狙えるかもしれないし」

「それも、今更じゃないっ」

 そうだが、少しは良心的に考えてやらないと、余りに悪印象なあの女教師を、徹底的に追い詰めたくなる程に、密は嫌いになりつつあった。

 余りに嫌ってしまうと、自分の中で呪いが生まれてしまいそうだ。

 自分に言い聞かせるように友人を宥めた密の顔を、緑は真顔で覗き込んだ。

「……何か、あのおばさんに言われた?」

「先生って呼ばなきゃ、駄目だよ」

「学校の外なら、只の四十過ぎのおばさんでしょ」

 すっぱりと言う少女は、完全にその教師を嫌っていた。

「何か言われたのは本当だけど、はた目から見たら、仕方ない話ではあるの」

 目立つ少女の隣にいる、地味な少女。

 自分が秀でていないと気が済まない人間は、大概扱いやすい者を見つけてすり寄り、やがて従えるようにして優越感に浸る。

 他の者より劣っていても、従えている者よりはましだと言う、小さな自衛本能だ。

 地味な密は、そのつき従わせる人間としては、格好の人材らしい。

 はた目から見ると、緑を支えて目立たせているのが、密らしい。

 緑が、密を虐げているように見えるらしい。

 らしい、としか語れないのは、密はそう感じていないからだ。

 麻痺していて、ではない。

 目立つ者に従わされて引き立て役にされ、虐げられてきた過去があるから、今の関係はそれでないと、断言できるのだ。

 あの時よりは息苦しくなく、楽しい学校生活を送れているのに、あの女教師はそう取らない。

 そして、同級生に話を聞き、密に話を持って来た。

「一年の時からの同級生が、グループに戻って来てもいいと言っているんだって。だから、早くあなたと縁を切りなさいって」

「あの、男と女で態度が違う、気持ち悪いグループの事? 入ってた事なんか、あった?」

「嫌ですって、答えたけど、目を覚ましなさいって言われたわ。私から見れば、目を覚まさないといけないのは、あの人の方だけど」

 最近目の肥えた子供も増えて来たが、まだまだ大人数の意見に流されてしまうのが、現実だ。

 その大勢の生徒に嫌われないように、面白く、生徒に寄り添う先生と言われる努力をしている教師、なのだが……。

「……私と話していると、壁と話している気分になるんだって」

「は?」

「話を聞いていないだろうって。聞いてたんだけど、何を言ってるんだって話でしょ?」

 言いながら思い出してしまった密は、やんわりと微笑んでいた。

「やっぱり、嫌いだわ、あの先生も」

「う、うん、嫌いなのは分かった。でも、呪いは駄目だよ。周囲にも害が行くから」

「分かってる。だから、自己暗示してたんじゃないの」

「ご、ごめん、悪いこと訊いちゃった」

 どうどうと、馬のように宥められてしまった。

 御蔵家は、密が高校生になった年に、この地に越して来た。

 知らない土地で知らない同級生に囲まれ、密は内心ほっとしていた。

 地味に一人で動く分には、勉強にも学校活動にも障らないので、そのまま友人は作らずに高校生活を送るつもりだったのだが、ある時期から妙に声高に、こちらに声をかけて来る同級生がいた。

 適当に相手をしながら、深く関わろうとしない密に業を煮やしたのかある日の下校の時、二人の同級生に立ちふさがれた。

 男子にしては少し小柄な二人だったが、その目は攻撃的な色を持っていた。

 その気配にすぐに気づき、密は全力で逃げたが、男子二人は笑いながら追いかけて来る。

 足の遅い女子に追いつくと、背中に拳を叩きつけ、二人で小突き回す。

 泣きそうな顔の女子の顔を見て、二人は更に小馬鹿にしたように笑い、更に追い回しながら自宅近くまで来ると、何故か二人は立ち止まり、走って逃げかえる密を見つめ続けた。

 背中にぶつかる笑い声を、二年経った今でも思い出す。

 過去にも同じことがあったから、どの土地に来ても同じなのかと、絶望した。

 またこんな脅しに屈して、同じような誘いを受けて、行きたくもない場所にたむろして、友人と言う名の何かとして、誰かの顔色を伺い続けなければならないのか。

 それは、嫌だなと、密は思った。

 だから翌日、家で作った物を鞄に忍ばせ、登校したのだった。

 結局、使う事はなかった。

 その日、下校の道連れを申し出て来たのは、水谷緑だったのだ。

「昨日、変な奴らに小づきまわされてたでしょ? 昨日は、追いつく前に逃げられて、助けられなかったんだ、御免ね」

 意外な謝罪を受けて目を瞬いた密は、緑の背後で例の同級生が睨んでいるのを見た。

「嫌だよね、この学校。ストーカーの候補生も育成してるのかしら? あんなことしたら、嫌われるのに」

 言いながら緑は、そのストーカー行為をした男子学生たちを、鋭く睨んだ。

 ひるむ生徒たちは、緑が誰の妹で、どういう家柄か承知していた。

 その時、密は知らなかったが。

 だから、微笑んで緑の申し出を断ったのだ。

「大丈夫だよ。今日、同じことが起きたら、攻撃してもいいって、家でも許しが出たから。私が作った物でも、黒幕さんとそのストーカーさんたちを、病院送りに出来るくらいの威力はあるから。心配しないで」

「は? 何言ってんの、この子」

 ぽつりと、緑の後ろの方で呟きが吐かれた。

 笑いながらのその呟きに目を上げ、何か言う前に緑が目を瞬いて問いかけた。

「そんな物騒な物を、持ち歩いてるの? 随分、目立たない物なんだね」

「うん」

 こうなれば徹底的に引かれて、静かな環境を取り戻そうと、密は正体をばらした。

「式神。河童のはっちゃん。この子、分裂できるから、何人かまとめて呪えるの」

 一枚の短冊状の紙を取り出してそう告げると、教室内が静まり返った。

「呪いの内容は、極優しいものだよ。体中の力がすぐにこの子に奪われるから、脱力症状が続くくらい。病院に入院するか、家で食べ続けるか。どちらにしても、学校に出て来る余裕は、無くなるでしょ? 誰かに取り憑いたら、このお札も消えるから、証拠もなく邪魔者は消せる」

 下校前のクラスメートは、殆どが教室にいた。

「余裕で、この人数まで分裂できるけど、試してみようか?」

 にっこりと笑った少女に、同級生たちは一斉に身を引いた。

 緑以外。

「じ、じゃあ、これ、本物の、お札っ?」

 緑は目を輝かせて、密の手の中の紙を覗きこんだ。

「はっちゃんって、どんな河童? 見れる?」

「見せようと思えば」

「見せてっ」

 何人かの小さな悲鳴が、教室に響いた。

 はったりと思っている者が多いようだが、少なからず信じてしまった者もいたようだ。

 だから、思わせぶりに答えた。

「ここでは駄目だよ。家なら、誰かに憑かせる事なく、見せられるけど……」

「今日、お邪魔してもいいっ?」

 ここまで食いつかれるとは思っていなかったしそれから三年、仲良くしてもらえるとも思っていなかった。

 河童のはっちゃんは、今でも鞄の中に防犯用で入っている。

 だから、呪いの道具として使うか否かは、密の心次第だった。

「あんな可愛い河童を、悪戯以外で使うのは、駄目だからね」

 そんな理由で心配する緑も、正義感が強すぎる友人の過剰な動きを制する密も、好きでこの関係を続けている。

「大丈夫だよ。もう少ししたら、別な防犯用の物の作り方を、教えてもらえるから」

 それなら、相手を脅かして怯んだすきに逃げられるはずだ。

 ある家の、ある式神の作り方を参照に、元祖が模索してくれている。

「その家も、術師の一つ?」

「そう。そこの式神は、お手軽なんだ。家にいる生き物を使える上に、何度でも使えるし、死なせる事もないんだって。しかも、効果は絶大で、嫌いじゃなくても大概の人が、悲鳴を上げて逃げるか失神するんですって」

 ついつい目を輝かせて答えてしまった密と、そんな友人にほっとした緑は、外から響いた文字通りの悲鳴を聞き、振り返った。

 水谷家のリビングに腰を落ち着けていた二人は、同じように悲鳴の方へと目を向けた舞を見る。

「……今の、ようじゃなかった?」

 舞の一人息子の葉の声だった。

 緑の従兄弟に当たる同年の少年は、父親が双子の兄弟だったためか、同年の草と姿かたちが似ている。

 だが、バリバリに体育会系になった草と比べて大人しく、大概の事には驚かない程に冷静な性格だ。

 その葉の珍しい悲鳴に驚いた三人は、声の聞こえた家の前の道路へと出てみる事にした。


 完全に、計算不足だった。

 この日、学校から帰ってから着替え、この都市にやって来たはいいが、道に迷ってしまった。

 いや、と古谷志門は考え直す。

 地図を手に目的地に向かおうとした時、下校途中の弟子仲間とその友人に会ってしまい、制服のままついて来ようとする二人を振り切ったのだが、撒くために見知らぬ土地をうろうろとし過ぎて、道に迷ってしまったのだ。

 本当なら、後輩達が一緒の方が心強かったのだが、今から行く家は、男嫌いの女性を元祖と仰ぐ家柄で、連れて行くのを躊躇ったのだ。

 その躊躇いのせいで、こんな事になっている。

 地図を見てみたが、この場所の番地が分からない。

 どこかに表示があるはずだと、ふらふらと歩いている所に、わざとらしくぶつかって来た者がいたのだ。

 全く無防備だった志門は、その勢いによろけて地面に倒れてしまった。

 すぐに身を起こして見上げると、ぶつかった高校生らしき少年は、大袈裟に肩を抑えた。

「いってえ。おい、ぶつかってきといて、わざとらしく倒れてんじゃねえよ」

「……はあ、それは、申し訳ありません」

 ここは、謝罪の場だろうかと、少しだけ疑問に思いながら、志門は謝って立ち上がる。

「前を見ていなかったものですから。このように広い道路で、人とぶつかるとは思わず、注意不足でした」

 深々と頭を下げた少年に、相手は顔を引き攣らせた。

「何だと、まさか、わざと、オレがぶつかったとでも、言いたいのかっ?」

 何で、そう取られるのだろうか。

 志門は目を丸くしながらも、慌てて首を振る。

「そうではありません。こちらの方は体を大きく揺らして歩くのを、旨く避けながらすれ違うのだと言うのを、知らなかったのです。私の注意不足で、その動作を避ける事が出来なかったのです。本当に申し訳ありませんでした」

「ほう、そう思うんだったら、慰謝料貰おうか?」

「え、肩を怪我されましたかっ? 病院に行きましょう。お金はありませんが、テレホンカードは持参しております。電話して、知り合いのお医者様に見てもらって下さい。大丈夫、折れていても、あの人ならすぐに、対処してくださいますっ」

 呆気にとられた少年の手を取り、すぐに動こうとする志門の前に、誰かが立ち塞がった。

 気づかなかったが、少年には二人の連れがいた。

「おい、金がねえのに、医者に掛からせる気か? 本当に持ってねえのか? 治療費だけで逃がしてやるのに?」

「そんな無責任な事、出来ません。怪我をさせてしまったのなら、病院へ行ったのち警察に被害届を出していただかねば。私は保護者と共に、改めて謝罪に伺いますが、まずは治療ですっ」

 言い切った志門は、胸倉を攫まれて睨まれた。

 それは肩を押さえて痛そうにしていたはずの少年で、その形相は先程とは一変していた。

「お前、ふざけてんのかっ? 医者にかかったら、こっちに金が行かねえだろうが」

「そ、そんな事はないですよ。ちゃんと、慰謝料はお支払する事になるはずです」

「医者にかかったら、怪我してねえって、ばれるだろうがっっ」

 志門は、目を瞬いた。

 まじまじと少年を見つめ、尋ねる。

「痛みは、ないのですか?」

「お前みたいなやわな奴に、オレの体が傷つくかっ。それ位、気づけよ」

「こいつ、馬鹿だ」

 少年の取り巻き二人も、一緒に笑いだす。

 その前で、志門はほっとしていた。

「良かった。引き取っていただいた手前、保護者の方々にご迷惑はかけられないので、大事に至らなくて幸いでした。では、失礼いたします」

「ちょっと、待ていっっ」

 頭を下げて立ち去りかけた志門を、少年が我に返って引き留める。

「こんにゃろ、こっちが大人しくしてりゃあ、いい気になりやがって……金を置いてけって言ってんのっ」

「先程も言いましたが、金銭の類は、持ち歩いておりません」

 寄り道は覚えたが、未だに買い食いまではしていない志門は、正直に答えたのだが、少年は納得しない。

「じゃあ、その場で飛んでみろ」

「飛ぶんですか?」

「おう、金持ってたら、音がするだろうが」

 志門は首を傾げた。

「音がするのは、小銭だけでは? その金額で満足なさるのでしたら、どこかでお手伝いをしてお駄賃を頂いた方が、早いのでは……」

「やかましいっ。さっさと飛べっ」

 その剣幕に目を丸くしながら、志門は素直にその場で飛んだ。

 勿論、金目の音はしない。

「……紙幣は、持ってんじゃねえのか?」

「残念ながら、持っているのは地図と、護身用の物だけで、紙幣は持ち合わせておりません」

「出して見ろっ」

 中々にしつこいなと、志門は思いながらも言われた通り、ポケットからそれを取り出した。

 手にしていた地図と、ポケットから出された物を見比べ、少年が怪訝な顔になる。

「何でこんなもん、ポケットに入れてんだ?」

「ですから、護身用です」

 志門の小指に、チョコンと乗っているのは、小さな黒い蜘蛛だった。

「女郎蜘蛛だと、流石に心臓の悪い方は命の危険があるとご指摘を受けまして、この蜘蛛を重宝するようになりました。女郎よりも家で見つけやすいので、助かっております」

「はっ、こんなちっこいのが、護衛って……おもちゃの間違いだろっ」

 言いながら、少年が蜘蛛を攫みとった。

 取り上げられて思わず声を上げた志門だが、その声は悲痛のものではない。

「駄目です、そんなに乱暴に扱っては……」

「は? こんな虫に噛まれても、痛くもかゆくも……」

 言いかけた少年の手の中が、急に膨らんだ。

 思わず手を開いたその中から、黒い塊が飛び出してその頭に飛び掛かる。

 ハンドボールと野球ボールがくっついたようなその塊には、糸が八つついている。

 それが少年の頭を攫んでいた。

「ひっ、ば、化け蜘蛛っっ」

 その様を見ていた二人の少年は、叫んで逃げてしまった。

 頭に蜘蛛をへばりつかせた少年は、立ち尽くしたまま動かない。

「あの、生きてらっしゃいます、よね?」

 近づいて蜘蛛を自分の手に戻し、顔を覗きこんで見たが、恐怖の顔のまま少年は固まっていた。

 が、息はしているようだ。

 良かったと息をつき、大きく見せているハエ取りグモの体を撫でていると、何かを取り落とす音が、後ろで聞こえた。

 振り返ると、そこに全く別な少年がいた。

 買い物帰りなのか、地面に落ちたマイバックからはネギが覗き、リンゴとミカンが地面に転がっている。

 眼鏡をかけたその少年は、志門の持つ蜘蛛を凝視して、顔を引き攣らせていた。

 しまった、と思った時には、大騒ぎになっていた。

 眼鏡の少年の引き攣った悲鳴を引き金に、前で固まっていた少年が泣きわめき始め、流石に驚いた近くの住民が、飛び出して来たのだった。


 買い物帰りの家の前で、わき目も振らずカツアゲする、この辺りの高校生。

 その高校の三年生の水谷葉は、それを見つけてつい溜息を吐いた。

 この都市では、生徒指導の教師の見回りも徹底しているが、その目をかいくぐった彼らの行いは、ほぼ見て見ぬ振りされているのが現状だ。

 下手に間に入ると、表向きは褒められるが、裏でどんな批評を受けるか分かったものではない、そんな都市だ。

 自分や緑が、その批評を躱せているのは、親世代のお蔭だ。

 内内でもめ事を治めてくれる男の親族たちを、敵に回したくないと考えてくれるから、部活に入っている草を除いて、好き勝手な動きが出来ている。

 だが、緑程正義感が疼かない葉は、余りにひどい状況でない限りは、自分から現場に飛び込まないようにしていた。

 今回は、家の前でのカツアゲで、どう考えても目に余る。

 ちんけな絡み方でカツアゲスタイルに入った少年たちを、葉はどうやって追い払うかと考えながら様子を見ていたのだが、絡まれている少年の様子が変だった。

 いや、その場の雰囲気の中で、落ち着きが過ぎておかしく見えるだけで、言っている事は妙に正論だ。

 自分と同じくらいか年下か、そんな少年が、大柄な少年に胸倉を攫まれても、殆ど動じない。

 つい、立ち尽くして様子を見ていた葉は、数秒後見てしまった。

 大柄な少年に覆いかぶさる、巨大化した蜘蛛の化け物を。

 一瞬、気を失っていたらしい。

 緑の呼びかけで目を開き、慌てて身を起こすと、いつの間にか道路の脇で母親に抱え込まれていた。

「大丈夫っ? どうしたのっ?」

 心配そうな母の後ろで、大柄な少年が大泣きしている。

 それを呆気に取られた顔の緑の友人が見上げ、その横に困った顔の少年がいた。

 視線に気づいたのかこちらに近づいた少年の全身を、葉は恐る恐る見まわしてみたが、先程の化け蜘蛛は消えている。

「……」

「急に悲鳴を上げて倒れてしまわれたので、驚きました。大丈夫ですか?」

 少年の心配そうな声に頷きながら、緑は後ろの泣き喚く少年を一瞥する。

「あっちは、お漏らしして泣いてるし。全然事情が分からないの」

 目を泳がせる従兄を見ながら、少女は面白そうに問いかけた。

「どうしたの? 大嫌いな蜘蛛の集団が、近くを通った?」

「いや……」

 躊躇いながら答えようとした葉の目に、何人かの表情の変化が見えた。

 一人は後ろの方で泣いていた少年で、ぶんぶんと首を振って答えた。

「く、蜘蛛の、化け物……」

 言いながら、空を仰いでしまっているカツアゲ被害者の少年を指さす。

「こいつが……」

「成程、夢見たのね」

 答えたのは、緑の問いを聞いて、空を仰ぐ少年をちらりと見た密だ。

「ち、違うっっ」

「そう言う事にしておいた方が、いいんじゃない? 手下二人に、お漏らしして泣いちゃったなんて、知られたくないでしょ?」

 笑いかける少女を睨み、カツアゲ加害者の少年は喚いた。

「お前だって、化け物使いだろうがっ。こいつ、お前の仲間かっ?」

「あれ、あの話、信じちゃったの? やだあ、あんな昔の話、今更出さないでよ。厄除けのお呪いみたいなもののつもりだったのに」

「何だとっ」

「はいはい、話は分かったわ。取りあえず、そのまま返す訳には行かないわね。どうして、そんな夢を見たのかは兎も角、あなた達、知り合いじゃないわよね?」

 舞が突っかかる少年を宥めて鋭い事を言ったが、その前にやはり被害者の少年を呆れ顔で一瞥した。

「はい、通りすがりの学生です。急にそちらの人が悲鳴を上げて、こちらの人まで泣き出してしまわれたので、どうしようかと困惑しておりました」

「そう。大変だったわね」

「……お袋?」

「何?」

 丁寧に答える少年に、優しくねぎらいの言葉をかける母に違和感を覚え、葉はつい声をかけていた。

「あのさ、オレも……」

「貧血、かしら?」

 強く遮られ、その目線に押されて、少年は思わず頷いてしまった。

「大変、早くうちで休みましょ。さ、あなたも着替えくらいは貸してあげるわ。その後で、話は聞かせてもらうわね。今日は、恥ずかしい思いをしたことに免じて、注意だけにしてあげるから、大人しくおいで」

 舞は葉を立ち上がらせて加害者少年を促すと、被害者少年を振り返った。

「あなた、この地には何か用があって来たの?」

「はい、人を訪ねて行く途中です」

「そう、場所は、分かる?」

「それが……あの、交番の場所だけ、教えていただけますか?」

 控えめな頼みに、女は微笑んで答えた。

「事情だけ聞いて、問題なければ、私が案内します。だから、一緒においで」

「……はい」

 ぞろぞろと水谷家に向かい、葉は家に落ち着いたのだが……。

 久し振りに店以外での客に、茶をふるまおうと台所に立った葉は、手伝いに立って来た緑と顔を見合わせた。

「ねえ、伯母さん、様子がおかしくなかった?」

 まだ先のショックが抜けていない少年は、黙ったまま頷いた。

 あの化け蜘蛛は衝撃的だったが、今は母の慎重な言い回しが気になっていた。

「あの、他校の学生、問題児なのかもな」

「うーん、そうは見えないけど。……御蔵も、ちょっとおかしいんだよね」

 何かを取り繕うように、全く思ってもいない事を言っていた。

「……蜘蛛の化け物は、本当にいたっ」

 小さく主張した従兄を、緑は笑わなかった。

「大群じゃなかったんだ」

 あの少年は何者なのか。

 その答えは、意外に早く分かった。

 加害者少年が風呂を使い、貸した服に着替えて出て来た時、店に出ていた父親が家の方に顔を出したのだ。

 店の方から自宅の方へ廊下伝いでやって来た葉太ようたが、妻を見つけて軽く挨拶をし、密を見つけて笑いかける。

「やっぱり来ていたか。お前さんの家に、用がある子らが、店に来ているんだが。こちらに連れて来てもいいか?」

「私に、ですか?」

「ああ。御蔵家に、用があるらしいんだ。何やら、真剣な話らしい。お前さんの兄さんへの、依頼じゃないか?」

 そう言う経路は、初めてだ。

 密が意外そうに目を瞬きながらも、頷いた。

「でも、そう言う事なら、私がそちらに行きます」

「いや、寛いでるところだろう? それに、もう連れて来た」

 動きが早い。

 驚く一同の前に、葉太は後ろを振り向いて、二人を手招きした。

たくみの奴が、裏の仕事の事ならうちに聞いた方がいいなんて抜かしたらしい。こんなガキどもに、何を教えてるんだか。ほら、知ってるだろ? 巧の女房の連れ子の一人と……」

「ああっっ、いたっっ」

 苦笑しながら紹介する男を、大きな少年が遮って、思わず指をさしてしまった。

 小さな方が窘める間もなく、さされた方角からも、同じような声が上がる。

「ああっ、この二人っっ」

 緑が、伯父の連れてきた少年を指さして、目を見開いていた。

「ひったくりを、捕まえた子たちだっっ」

 二人とも、一度着替えて出直して来たのか私服姿だったが、緑はその顔を覚えていた。

 驚いた二人の内の、大きな方が指さす先では、正体不明だった少年が観念したように、肩を落としていた。

「……そうでした、この二人には、伝手があったのでした」

 世間知らずな古谷志門では、行先を知られた時点で勝ち目はなかったのだった。

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