第2話
しょぼんとして謝る御藏密を慰めながら、緑とは伯母姪の間柄の
「あなたが謝る事じゃないわ。お婆さんに付き添って病院に行っている間に、緑は逮捕劇を繰り広げたんだから、止めようがなかった」
「だから、違うってばっ」
水谷緑は、立ち上がって主張した。
「確かに、走って追いかけたけどっ」
「追いついたんでしょ?」
「確かに、追いついたけどっ」
それも、信じられない話だが、緑の事だからあり得る。
「前には、立ちふさがってないのっ」
「でも、捕まった二人は、前に立ちふさがった奴が、二人まとめてラリアートかまして来たって、主張しているのよ?」
「だからー」
ぶんぶんと拳を振り回しながら、少女は力説した。
「知らない学校の制服着た子が、立ち塞がって、捕まえちゃったのっ」
ブレザー制服ではなく、詰襟のついた黒い学生服だったと言う。
「どこかの、中学生ね」
校章までは、遠過ぎて見えなかったと言う緑に、舞は少し考えて尋ねた。
「その、乗っていた原付。ほとんど無傷で横倒しになってなんだけど、もう一人いた?」
「いたわ。だから二人連れの、大小の中学生っ」
どちらも緑より大きかったが、より大きい体格の少年が、走っている原付に乗る二人を、ラリアートでまとめてサドルから引きはがした。
その後ろで無人になった原付を、小さい方の少年がハンドルとタイヤを手足で止め、エンジンを切ったのだ。
横倒しにして去ったのは、警察が近づいて来るのに気づいたからのようだった。
「……」
「補導歴でも、あるのかも」
この都市の中学生でないのなら、こちらに来ること自体が補導対象となる。
「だから、その二人を探し出して、証言させてよ。私が感謝される事じゃ、ないんだからっ」
老婆の手提げ鞄は、無事に戻って来た。
老婆の娘がわざわざ自宅までやって来て、自分に礼を言った。
違うと主張しても、まあまあと取り合ってもらえなかったのだ。
「やってない事で感謝されるのって、何か違うでしょうっ?」
「ま、そうね。でも……被害者の証言が、一番信用されるのも、仕方ない事なのよね」
「そんなあ」
テーブルに突っ伏す少女を、舞は呆れたように見守る。
「嫌味は聞き流すけど、やっていない事に対する嫌味は、納得できないよう」
「……」
この件も、明日には学校の教師陣の元に届くだろう。
担任は話が分かる男教師なのだが、副担任の女教師が昔堅気な考えをする一人だった。
善行でも、暴力はまずいとか、そういう類の注意なら分かるが、全く別な考えで嫌味ったらしい注意をして来る。
「あのおばさん、また、私が男に色目を使うために、いいことしようとしたって、勘違いするわっ」
「だね。あの人の思考回路も、謎だよね。何で、男のひったくり二人をまとめて止める話が、色目を使う材料になると、考えられるんだろ」
正義感が強い緑が動くたびに、その女教師と妬みから手を組んだ学校の女生徒たちは、男へのアピールだと判断する。
確かに、草食系の男子はかっこいいと憧れ、肉食系の男子は苦笑交じりに見守っている傾向があるが、今迄の緑の活躍では、色よい話は浮かんでこないはずだった。
「殆ど、男相手の騒動だものね」
その度に尻拭いしている女は、大きな溜息を吐いた。
「そう言えばあの先生、文科系の部活の担当なのに、緑さんを運動部に誘っていました」
「あ、それも、嫌味の一つだよ。力が余っているなら、運動部に入ったらって。そんなことしたら、大会出場停止処分が、私がいる間中、解けなくなりますよって、断ったけど」
偶々近くにいた、柔道部に所属している兄弟の
「もう、三年生なんだけどっ」
「要は、体育の教師にでもなって欲しいんじゃないの? 運動部に入れておけば、推薦枠も狙えるかもしれないし」
「それも、今更じゃないっ」
そうだが、少しは良心的に考えてやらないと、余りに悪印象なあの女教師を、徹底的に追い詰めたくなる程に、密は嫌いになりつつあった。
余りに嫌ってしまうと、自分の中で呪いが生まれてしまいそうだ。
自分に言い聞かせるように友人を宥めた密の顔を、緑は真顔で覗き込んだ。
「……何か、あのおばさんに言われた?」
「先生って呼ばなきゃ、駄目だよ」
「学校の外なら、只の四十過ぎのおばさんでしょ」
すっぱりと言う少女は、完全にその教師を嫌っていた。
「何か言われたのは本当だけど、はた目から見たら、仕方ない話ではあるの」
目立つ少女の隣にいる、地味な少女。
自分が秀でていないと気が済まない人間は、大概扱いやすい者を見つけてすり寄り、やがて従えるようにして優越感に浸る。
他の者より劣っていても、従えている者よりはましだと言う、小さな自衛本能だ。
地味な密は、そのつき従わせる人間としては、格好の人材らしい。
はた目から見ると、緑を支えて目立たせているのが、密らしい。
緑が、密を虐げているように見えるらしい。
らしい、としか語れないのは、密はそう感じていないからだ。
麻痺していて、ではない。
目立つ者に従わされて引き立て役にされ、虐げられてきた過去があるから、今の関係はそれでないと、断言できるのだ。
あの時よりは息苦しくなく、楽しい学校生活を送れているのに、あの女教師はそう取らない。
そして、同級生に話を聞き、密に話を持って来た。
「一年の時からの同級生が、グループに戻って来てもいいと言っているんだって。だから、早くあなたと縁を切りなさいって」
「あの、男と女で態度が違う、気持ち悪いグループの事? 入ってた事なんか、あった?」
「嫌ですって、答えたけど、目を覚ましなさいって言われたわ。私から見れば、目を覚まさないといけないのは、あの人の方だけど」
最近目の肥えた子供も増えて来たが、まだまだ大人数の意見に流されてしまうのが、現実だ。
その大勢の生徒に嫌われないように、面白く、生徒に寄り添う先生と言われる努力をしている教師、なのだが……。
「……私と話していると、壁と話している気分になるんだって」
「は?」
「話を聞いていないだろうって。聞いてたんだけど、何を言ってるんだって話でしょ?」
言いながら思い出してしまった密は、やんわりと微笑んでいた。
「やっぱり、嫌いだわ、あの先生も」
「う、うん、嫌いなのは分かった。でも、呪いは駄目だよ。周囲にも害が行くから」
「分かってる。だから、自己暗示してたんじゃないの」
「ご、ごめん、悪いこと訊いちゃった」
どうどうと、馬のように宥められてしまった。
御蔵家は、密が高校生になった年に、この地に越して来た。
知らない土地で知らない同級生に囲まれ、密は内心ほっとしていた。
地味に一人で動く分には、勉強にも学校活動にも障らないので、そのまま友人は作らずに高校生活を送るつもりだったのだが、ある時期から妙に声高に、こちらに声をかけて来る同級生がいた。
適当に相手をしながら、深く関わろうとしない密に業を煮やしたのかある日の下校の時、二人の同級生に立ちふさがれた。
男子にしては少し小柄な二人だったが、その目は攻撃的な色を持っていた。
その気配にすぐに気づき、密は全力で逃げたが、男子二人は笑いながら追いかけて来る。
足の遅い女子に追いつくと、背中に拳を叩きつけ、二人で小突き回す。
泣きそうな顔の女子の顔を見て、二人は更に小馬鹿にしたように笑い、更に追い回しながら自宅近くまで来ると、何故か二人は立ち止まり、走って逃げかえる密を見つめ続けた。
背中にぶつかる笑い声を、二年経った今でも思い出す。
過去にも同じことがあったから、どの土地に来ても同じなのかと、絶望した。
またこんな脅しに屈して、同じような誘いを受けて、行きたくもない場所にたむろして、友人と言う名の何かとして、誰かの顔色を伺い続けなければならないのか。
それは、嫌だなと、密は思った。
だから翌日、家で作った物を鞄に忍ばせ、登校したのだった。
結局、使う事はなかった。
その日、下校の道連れを申し出て来たのは、水谷緑だったのだ。
「昨日、変な奴らに小づきまわされてたでしょ? 昨日は、追いつく前に逃げられて、助けられなかったんだ、御免ね」
意外な謝罪を受けて目を瞬いた密は、緑の背後で例の同級生が睨んでいるのを見た。
「嫌だよね、この学校。ストーカーの候補生も育成してるのかしら? あんなことしたら、嫌われるのに」
言いながら緑は、そのストーカー行為をした男子学生たちを、鋭く睨んだ。
ひるむ生徒たちは、緑が誰の妹で、どういう家柄か承知していた。
その時、密は知らなかったが。
だから、微笑んで緑の申し出を断ったのだ。
「大丈夫だよ。今日、同じことが起きたら、攻撃してもいいって、家でも許しが出たから。私が作った物でも、黒幕さんとそのストーカーさんたちを、病院送りに出来るくらいの威力はあるから。心配しないで」
「は? 何言ってんの、この子」
ぽつりと、緑の後ろの方で呟きが吐かれた。
笑いながらのその呟きに目を上げ、何か言う前に緑が目を瞬いて問いかけた。
「そんな物騒な物を、持ち歩いてるの? 随分、目立たない物なんだね」
「うん」
こうなれば徹底的に引かれて、静かな環境を取り戻そうと、密は正体をばらした。
「式神。河童のはっちゃん。この子、分裂できるから、何人かまとめて呪えるの」
一枚の短冊状の紙を取り出してそう告げると、教室内が静まり返った。
「呪いの内容は、極優しいものだよ。体中の力がすぐにこの子に奪われるから、脱力症状が続くくらい。病院に入院するか、家で食べ続けるか。どちらにしても、学校に出て来る余裕は、無くなるでしょ? 誰かに取り憑いたら、このお札も消えるから、証拠もなく邪魔者は消せる」
下校前のクラスメートは、殆どが教室にいた。
「余裕で、この人数まで分裂できるけど、試してみようか?」
にっこりと笑った少女に、同級生たちは一斉に身を引いた。
緑以外。
「じ、じゃあ、これ、本物の、お札っ?」
緑は目を輝かせて、密の手の中の紙を覗きこんだ。
「はっちゃんって、どんな河童? 見れる?」
「見せようと思えば」
「見せてっ」
何人かの小さな悲鳴が、教室に響いた。
はったりと思っている者が多いようだが、少なからず信じてしまった者もいたようだ。
だから、思わせぶりに答えた。
「ここでは駄目だよ。家なら、誰かに憑かせる事なく、見せられるけど……」
「今日、お邪魔してもいいっ?」
ここまで食いつかれるとは思っていなかったしそれから三年、仲良くしてもらえるとも思っていなかった。
河童のはっちゃんは、今でも鞄の中に防犯用で入っている。
だから、呪いの道具として使うか否かは、密の心次第だった。
「あんな可愛い河童を、悪戯以外で使うのは、駄目だからね」
そんな理由で心配する緑も、正義感が強すぎる友人の過剰な動きを制する密も、好きでこの関係を続けている。
「大丈夫だよ。もう少ししたら、別な防犯用の物の作り方を、教えてもらえるから」
それなら、相手を脅かして怯んだすきに逃げられるはずだ。
ある家の、ある式神の作り方を参照に、元祖が模索してくれている。
「その家も、術師の一つ?」
「そう。そこの式神は、お手軽なんだ。家にいる生き物を使える上に、何度でも使えるし、死なせる事もないんだって。しかも、効果は絶大で、嫌いじゃなくても大概の人が、悲鳴を上げて逃げるか失神するんですって」
ついつい目を輝かせて答えてしまった密と、そんな友人にほっとした緑は、外から響いた文字通りの悲鳴を聞き、振り返った。
水谷家のリビングに腰を落ち着けていた二人は、同じように悲鳴の方へと目を向けた舞を見る。
「……今の、
舞の一人息子の葉の声だった。
緑の従兄弟に当たる同年の少年は、父親が双子の兄弟だったためか、同年の草と姿かたちが似ている。
だが、バリバリに体育会系になった草と比べて大人しく、大概の事には驚かない程に冷静な性格だ。
その葉の珍しい悲鳴に驚いた三人は、声の聞こえた家の前の道路へと出てみる事にした。
完全に、計算不足だった。
この日、学校から帰ってから着替え、この都市にやって来たはいいが、道に迷ってしまった。
いや、と古谷志門は考え直す。
地図を手に目的地に向かおうとした時、下校途中の弟子仲間とその友人に会ってしまい、制服のままついて来ようとする二人を振り切ったのだが、撒くために見知らぬ土地をうろうろとし過ぎて、道に迷ってしまったのだ。
本当なら、後輩達が一緒の方が心強かったのだが、今から行く家は、男嫌いの女性を元祖と仰ぐ家柄で、連れて行くのを躊躇ったのだ。
その躊躇いのせいで、こんな事になっている。
地図を見てみたが、この場所の番地が分からない。
どこかに表示があるはずだと、ふらふらと歩いている所に、わざとらしくぶつかって来た者がいたのだ。
全く無防備だった志門は、その勢いによろけて地面に倒れてしまった。
すぐに身を起こして見上げると、ぶつかった高校生らしき少年は、大袈裟に肩を抑えた。
「いってえ。おい、ぶつかってきといて、わざとらしく倒れてんじゃねえよ」
「……はあ、それは、申し訳ありません」
ここは、謝罪の場だろうかと、少しだけ疑問に思いながら、志門は謝って立ち上がる。
「前を見ていなかったものですから。このように広い道路で、人とぶつかるとは思わず、注意不足でした」
深々と頭を下げた少年に、相手は顔を引き攣らせた。
「何だと、まさか、わざと、オレがぶつかったとでも、言いたいのかっ?」
何で、そう取られるのだろうか。
志門は目を丸くしながらも、慌てて首を振る。
「そうではありません。こちらの方は体を大きく揺らして歩くのを、旨く避けながらすれ違うのだと言うのを、知らなかったのです。私の注意不足で、その動作を避ける事が出来なかったのです。本当に申し訳ありませんでした」
「ほう、そう思うんだったら、慰謝料貰おうか?」
「え、肩を怪我されましたかっ? 病院に行きましょう。お金はありませんが、テレホンカードは持参しております。電話して、知り合いのお医者様に見てもらって下さい。大丈夫、折れていても、あの人ならすぐに、対処してくださいますっ」
呆気にとられた少年の手を取り、すぐに動こうとする志門の前に、誰かが立ち塞がった。
気づかなかったが、少年には二人の連れがいた。
「おい、金がねえのに、医者に掛からせる気か? 本当に持ってねえのか? 治療費だけで逃がしてやるのに?」
「そんな無責任な事、出来ません。怪我をさせてしまったのなら、病院へ行ったのち警察に被害届を出していただかねば。私は保護者と共に、改めて謝罪に伺いますが、まずは治療ですっ」
言い切った志門は、胸倉を攫まれて睨まれた。
それは肩を押さえて痛そうにしていたはずの少年で、その形相は先程とは一変していた。
「お前、ふざけてんのかっ? 医者にかかったら、こっちに金が行かねえだろうが」
「そ、そんな事はないですよ。ちゃんと、慰謝料はお支払する事になるはずです」
「医者にかかったら、怪我してねえって、ばれるだろうがっっ」
志門は、目を瞬いた。
まじまじと少年を見つめ、尋ねる。
「痛みは、ないのですか?」
「お前みたいなやわな奴に、オレの体が傷つくかっ。それ位、気づけよ」
「こいつ、馬鹿だ」
少年の取り巻き二人も、一緒に笑いだす。
その前で、志門はほっとしていた。
「良かった。引き取っていただいた手前、保護者の方々にご迷惑はかけられないので、大事に至らなくて幸いでした。では、失礼いたします」
「ちょっと、待ていっっ」
頭を下げて立ち去りかけた志門を、少年が我に返って引き留める。
「こんにゃろ、こっちが大人しくしてりゃあ、いい気になりやがって……金を置いてけって言ってんのっ」
「先程も言いましたが、金銭の類は、持ち歩いておりません」
寄り道は覚えたが、未だに買い食いまではしていない志門は、正直に答えたのだが、少年は納得しない。
「じゃあ、その場で飛んでみろ」
「飛ぶんですか?」
「おう、金持ってたら、音がするだろうが」
志門は首を傾げた。
「音がするのは、小銭だけでは? その金額で満足なさるのでしたら、どこかでお手伝いをしてお駄賃を頂いた方が、早いのでは……」
「やかましいっ。さっさと飛べっ」
その剣幕に目を丸くしながら、志門は素直にその場で飛んだ。
勿論、金目の音はしない。
「……紙幣は、持ってんじゃねえのか?」
「残念ながら、持っているのは地図と、護身用の物だけで、紙幣は持ち合わせておりません」
「出して見ろっ」
中々にしつこいなと、志門は思いながらも言われた通り、ポケットからそれを取り出した。
手にしていた地図と、ポケットから出された物を見比べ、少年が怪訝な顔になる。
「何でこんなもん、ポケットに入れてんだ?」
「ですから、護身用です」
志門の小指に、チョコンと乗っているのは、小さな黒い蜘蛛だった。
「女郎蜘蛛だと、流石に心臓の悪い方は命の危険があるとご指摘を受けまして、この蜘蛛を重宝するようになりました。女郎よりも家で見つけやすいので、助かっております」
「はっ、こんなちっこいのが、護衛って……おもちゃの間違いだろっ」
言いながら、少年が蜘蛛を攫みとった。
取り上げられて思わず声を上げた志門だが、その声は悲痛のものではない。
「駄目です、そんなに乱暴に扱っては……」
「は? こんな虫に噛まれても、痛くもかゆくも……」
言いかけた少年の手の中が、急に膨らんだ。
思わず手を開いたその中から、黒い塊が飛び出してその頭に飛び掛かる。
ハンドボールと野球ボールがくっついたようなその塊には、糸が八つついている。
それが少年の頭を攫んでいた。
「ひっ、ば、化け蜘蛛っっ」
その様を見ていた二人の少年は、叫んで逃げてしまった。
頭に蜘蛛をへばりつかせた少年は、立ち尽くしたまま動かない。
「あの、生きてらっしゃいます、よね?」
近づいて蜘蛛を自分の手に戻し、顔を覗きこんで見たが、恐怖の顔のまま少年は固まっていた。
が、息はしているようだ。
良かったと息をつき、大きく見せているハエ取りグモの体を撫でていると、何かを取り落とす音が、後ろで聞こえた。
振り返ると、そこに全く別な少年がいた。
買い物帰りなのか、地面に落ちたマイバックからはネギが覗き、リンゴとミカンが地面に転がっている。
眼鏡をかけたその少年は、志門の持つ蜘蛛を凝視して、顔を引き攣らせていた。
しまった、と思った時には、大騒ぎになっていた。
眼鏡の少年の引き攣った悲鳴を引き金に、前で固まっていた少年が泣きわめき始め、流石に驚いた近くの住民が、飛び出して来たのだった。
買い物帰りの家の前で、わき目も振らずカツアゲする、この辺りの高校生。
その高校の三年生の水谷葉は、それを見つけてつい溜息を吐いた。
この都市では、生徒指導の教師の見回りも徹底しているが、その目をかいくぐった彼らの行いは、ほぼ見て見ぬ振りされているのが現状だ。
下手に間に入ると、表向きは褒められるが、裏でどんな批評を受けるか分かったものではない、そんな都市だ。
自分や緑が、その批評を躱せているのは、親世代のお蔭だ。
内内でもめ事を治めてくれる男の親族たちを、敵に回したくないと考えてくれるから、部活に入っている草を除いて、好き勝手な動きが出来ている。
だが、緑程正義感が疼かない葉は、余りにひどい状況でない限りは、自分から現場に飛び込まないようにしていた。
今回は、家の前でのカツアゲで、どう考えても目に余る。
ちんけな絡み方でカツアゲスタイルに入った少年たちを、葉はどうやって追い払うかと考えながら様子を見ていたのだが、絡まれている少年の様子が変だった。
いや、その場の雰囲気の中で、落ち着きが過ぎておかしく見えるだけで、言っている事は妙に正論だ。
自分と同じくらいか年下か、そんな少年が、大柄な少年に胸倉を攫まれても、殆ど動じない。
つい、立ち尽くして様子を見ていた葉は、数秒後見てしまった。
大柄な少年に覆いかぶさる、巨大化した蜘蛛の化け物を。
一瞬、気を失っていたらしい。
緑の呼びかけで目を開き、慌てて身を起こすと、いつの間にか道路の脇で母親に抱え込まれていた。
「大丈夫っ? どうしたのっ?」
心配そうな母の後ろで、大柄な少年が大泣きしている。
それを呆気に取られた顔の緑の友人が見上げ、その横に困った顔の少年がいた。
視線に気づいたのかこちらに近づいた少年の全身を、葉は恐る恐る見まわしてみたが、先程の化け蜘蛛は消えている。
「……」
「急に悲鳴を上げて倒れてしまわれたので、驚きました。大丈夫ですか?」
少年の心配そうな声に頷きながら、緑は後ろの泣き喚く少年を一瞥する。
「あっちは、お漏らしして泣いてるし。全然事情が分からないの」
目を泳がせる従兄を見ながら、少女は面白そうに問いかけた。
「どうしたの? 大嫌いな蜘蛛の集団が、近くを通った?」
「いや……」
躊躇いながら答えようとした葉の目に、何人かの表情の変化が見えた。
一人は後ろの方で泣いていた少年で、ぶんぶんと首を振って答えた。
「く、蜘蛛の、化け物……」
言いながら、空を仰いでしまっているカツアゲ被害者の少年を指さす。
「こいつが……」
「成程、夢見たのね」
答えたのは、緑の問いを聞いて、空を仰ぐ少年をちらりと見た密だ。
「ち、違うっっ」
「そう言う事にしておいた方が、いいんじゃない? 手下二人に、お漏らしして泣いちゃったなんて、知られたくないでしょ?」
笑いかける少女を睨み、カツアゲ加害者の少年は喚いた。
「お前だって、化け物使いだろうがっ。こいつ、お前の仲間かっ?」
「あれ、あの話、信じちゃったの? やだあ、あんな昔の話、今更出さないでよ。厄除けのお呪いみたいなもののつもりだったのに」
「何だとっ」
「はいはい、話は分かったわ。取りあえず、そのまま返す訳には行かないわね。どうして、そんな夢を見たのかは兎も角、あなた達、知り合いじゃないわよね?」
舞が突っかかる少年を宥めて鋭い事を言ったが、その前にやはり被害者の少年を呆れ顔で一瞥した。
「はい、通りすがりの学生です。急にそちらの人が悲鳴を上げて、こちらの人まで泣き出してしまわれたので、どうしようかと困惑しておりました」
「そう。大変だったわね」
「……お袋?」
「何?」
丁寧に答える少年に、優しくねぎらいの言葉をかける母に違和感を覚え、葉はつい声をかけていた。
「あのさ、オレも……」
「貧血、かしら?」
強く遮られ、その目線に押されて、少年は思わず頷いてしまった。
「大変、早くうちで休みましょ。さ、あなたも着替えくらいは貸してあげるわ。その後で、話は聞かせてもらうわね。今日は、恥ずかしい思いをしたことに免じて、注意だけにしてあげるから、大人しくおいで」
舞は葉を立ち上がらせて加害者少年を促すと、被害者少年を振り返った。
「あなた、この地には何か用があって来たの?」
「はい、人を訪ねて行く途中です」
「そう、場所は、分かる?」
「それが……あの、交番の場所だけ、教えていただけますか?」
控えめな頼みに、女は微笑んで答えた。
「事情だけ聞いて、問題なければ、私が案内します。だから、一緒においで」
「……はい」
ぞろぞろと水谷家に向かい、葉は家に落ち着いたのだが……。
久し振りに店以外での客に、茶をふるまおうと台所に立った葉は、手伝いに立って来た緑と顔を見合わせた。
「ねえ、伯母さん、様子がおかしくなかった?」
まだ先のショックが抜けていない少年は、黙ったまま頷いた。
あの化け蜘蛛は衝撃的だったが、今は母の慎重な言い回しが気になっていた。
「あの、他校の学生、問題児なのかもな」
「うーん、そうは見えないけど。……御蔵も、ちょっとおかしいんだよね」
何かを取り繕うように、全く思ってもいない事を言っていた。
「……蜘蛛の化け物は、本当にいたっ」
小さく主張した従兄を、緑は笑わなかった。
「大群じゃなかったんだ」
あの少年は何者なのか。
その答えは、意外に早く分かった。
加害者少年が風呂を使い、貸した服に着替えて出て来た時、店に出ていた父親が家の方に顔を出したのだ。
店の方から自宅の方へ廊下伝いでやって来た
「やっぱり来ていたか。お前さんの家に、用がある子らが、店に来ているんだが。こちらに連れて来てもいいか?」
「私に、ですか?」
「ああ。御蔵家に、用があるらしいんだ。何やら、真剣な話らしい。お前さんの兄さんへの、依頼じゃないか?」
そう言う経路は、初めてだ。
密が意外そうに目を瞬きながらも、頷いた。
「でも、そう言う事なら、私がそちらに行きます」
「いや、寛いでるところだろう? それに、もう連れて来た」
動きが早い。
驚く一同の前に、葉太は後ろを振り向いて、二人を手招きした。
「
「ああっっ、いたっっ」
苦笑しながら紹介する男を、大きな少年が遮って、思わず指をさしてしまった。
小さな方が窘める間もなく、さされた方角からも、同じような声が上がる。
「ああっ、この二人っっ」
緑が、伯父の連れてきた少年を指さして、目を見開いていた。
「ひったくりを、捕まえた子たちだっっ」
二人とも、一度着替えて出直して来たのか私服姿だったが、緑はその顔を覚えていた。
驚いた二人の内の、大きな方が指さす先では、正体不明だった少年が観念したように、肩を落としていた。
「……そうでした、この二人には、伝手があったのでした」
世間知らずな古谷志門では、行先を知られた時点で勝ち目はなかったのだった。
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