第8話
「宿移り」
川面を撫でて流れる風は、少しばかり町よりは涼しく、舟の屋根で遮られた陽射しも柔らかくなるので、船上の面々は思い思いに視線を川上やら、岸に向けて寛いでいた。
そんな中、近江屋の女中頭のおとめは少し肩を震わせながら、船尾の方にどうやら妖の類いがいる様なので、決して後ろを見ないように硬くなっている。それでも自ら発案した役割の白い細く切った布を、船縁から予定通り流すのを忘れはしなかった。
左からは心太も紐を流して、獺達が船を追って来られる目印して、白狐は笛の音で先導する。
なんとも不思議な巡り合わせで、近江屋の三人、妖の白狐に獺の主
、それにまさかの善右衛門迄がひとつ船に乗ることになろうとは、誰が予想できたろう。
時折獺の主が水の流れに入って小さな者たちを助けてやっているようだった。何故か船頭は主の姿を認めてはいるものの、舟を乗り降りする事には気付く様子がない。
どちらかの妖術にでもかかっているのだろうか。
どう細工したのか、主と白狐が船底に獺達が掴まれる棒をいくつか付けたそうだ。
疲れたり、速さに付いていけなくなると、それを器用に咬て付いてくる。
ご隠居様は、船頭にあれは何だとか、明日の花火がどうかとか、口を閉じる暇も無くあれこれ話しかけて、後ろから付いてくる獺の小さな頭を、気取られない様に気を散らした。
久しぶりの遠出ですっかり舞い上がった御隠居様に、黙って下さいともし頼んだとしてもそれは無理な話だったろうが。
獺達は妖では無いのでご隠居様ににも船頭にも見えてしまうのだ。
獺達は、二日前に寝ぐらから出立し、材木を運ぶ筏に張り付いて昨晩神田明神下迄やってきた。
その中には、途中疲れて脱落するものや、魚を追いかけて離れてしまったものがあったので、たどり着いたのは最初の三分のニ程になっていたが、それは仕方のない事だと、主は頓着しない声で白狐に言った。
それぞれが、争う事なく住処を見つけられたらそれは何処でも構わないのだからと。
掘割を何本か折れて大川に入ると途端に船が多くなる。
これからは、流れを遡上して綾瀬川に入っていくのだ。獺達は、屋根舟から離れない様に目印の布を追い掛けて器用に泳いでついて来ているのを、心太は他の船頭に気取られて何か言われはしないかと随分と気を揉んでいる様子だが、取り立てやれる事は、じっと目立たぬ様している他は無い。
江戸は幕府が置かれる前から何度も川の改修を繰り返しており、名前もよく変わる。
それに加えて掘割は行き止まりも多く、慣れた船頭でなければ西から東に通り抜けるのは至難の業で、千住に出るはずが、海を漂ってしまう羽目になり兼ねない。
舟を仕立てた訳はそんなところにもあった。
大川を遡上しながら、土手の葉桜が、青々としているのが見えて来た。明日はこの土手も花火の観客で埋め尽くすのだろう。
「柳の葉も随分青くなったねぇ。」と御隠居様が眩しそうに言った。
暫く遡上すると川幅が広くなり、魚も格段に多く泳いでいる。魚を追ってから他の舟に間違って戻ってしまうものや、広い土手に安心したのか暇も告げずに離れていってしまうものも出て船頭が、
「上げ潮が始まったのかぁ、やけに竿が軽くなりやがやった」と独り言を言っていた。
それから暫くは、広い本流を横切るまでは、無言で船を操っていた船頭が「ここからが綾瀬川でございやす。」とホッとした声で、告げた。
綾瀬川に合流して少しすると、獺の主は心太に低い声で
「世話になり申した。ここからはどうにか己たちで寝ぐらを探すでしょう。」深く頭を下げてから、音もなく水面へ消えた。
主の横に座っていた白狐が船縁から顔を出して、「達者でなぁ」と小さく声を掛けると、水面がくぅっと盛り上がって、大きな鯉がバシャリと跳ねるように舟に飛び込んで来た。次々と鯉やら鮒やらが飛び込んでくるものだから船頭は、吃驚して「なんだなんだ」と腰を抜かす勢いだ。
丸々と太った鯉を持って、おとめは里帰りをする事になった。
船頭も「こりゃ珍しい、なんの御利益だ。」と頭を掻きながら鯉や鮒に縄を通して吊るすと、笑いの止まらない顔をしていた。
御隠居様に、酒手も弾んでもらったので嬉しそうに「またご贔屓に」と声を弾ませて帰って行く。
白狐のことも獺の主のことも、別れ際に心太が、「世話になりました」と肩をポンと叩いた時に消し飛んでしまった。
乗せたのは、四人きりだと思っている。
「それで、上手くいったのかぇ」と、ご隠居様はおとめの実家の座敷で足に灸をすえて貰いながら、心太に聞く。
「へい、もう段取り通りに」と肩の荷が降りたとほっとした顔で応えた。
そして「これ、いかがいたしやしょう」と膝前に置いた懐紙の包を見つめる。
おとめの郷に着いてから、心太の袂にズシリと重い銭が入っているのに気付いたのだ。
船代などはご隠居様が
「もう払ってしまったものは引っ込めるわけにはいかないよ。」と江戸っ子の口振りで言って譲らない。困ったなぁと眉を下げていると、
「おとめと、心太、それに白狐とやらと山分けしたら良いじゃ無いか。あぁなんだか楽しかったねぇ。」とご隠居様は嬉しそうに言ってから、鼾をかいて眠ってしまった。
おとめは久しぶりの里帰りで鯉や鮒の他にも土産を沢山抱えて来たので、それを肴に家の者とお喋りに余念がない。
心太は、そっと縁側に出て江戸の街中より闇の濃い空の大きな満月を見上げながら、獺達は良い寝ぐらを見つけられただろうかと思わずにはいられなかった。
「嫌だねぇ人のいい。ここまで連れて来てやっただけでも、御の字さ。」と白狐はいつのまにか隣に座ってい笑うのだ。
「そりゃそうだ。」と相槌を打って横を見ると、ニヤリと白狐の口元が上がり、「ふふふ」と笑うと「それじゃまたね。心太」と甘やかに言ってその姿は消えてしまった。ふと見ると袂入れていた銭が半分無くなっていた。
そうそう、善右衛門殿はと言うと用心棒代を主に貰って懐が重くなったので、船頭に千住の宿まで送ってもらってそこから明日は花火見物に行くらしい。
その舟の後をすらり水面を揺らして獺の主が付いて行くのが見えたのは、心太だけだった。
飛脚屋心太 三の巻 「獺の宿移り」 小花 鹿Q 4 @shikaku4
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