第7話

お江戸川渡り


ひゅう、ひゅうと笛の鳴る音が川上から流れている。

「なんの曲ですかね。知ってらっしゃいますかい。」と心太が声を掛けると、駕籠の上で器用に寝ていたご隠居様が、ガバリと体を起こして、落ちそうになる。慌てて駕籠かきが駕籠を地面に着けてどうにかご隠居様を落とさずに済んだ。

「あちゃっ」すみませんとご隠居様と駕籠かきに言いながら、心太は、川上に顔を向ける。

川風が川下に向かって吹いているのに乗って笛の音は遠くまで届いてくる。


船宿の名前を言って駕籠をそこに着けてもらうと、船着場にはもう赤い着物を着た白狐が佇みひゅうと笛を吹いていた。

「よく風が鳴るね」と確かに白狐の方を見ながらご隠居様は呟く。

本当に見えないのか、心太は愕然とした思いでご隠居様と白狐を交互に見やった。

そこにおとめが、「あんなに袂をを揺らして、うら若き乙女が一人だなんて物騒だねぇ。」と笛を吹く白狐を見て言い放った。

ほぅ、おとめさんはどうやら白狐が見えるんだな。もしあれが妖だと言ったらおとめさんはどう思うのか。腰を抜かしちまうだろうか。と心太はひとりごちた。


心太は船宿に目を移して、暖簾を分けて「ごめんくださいまし、近江屋でございます。

連絡差し上げておりました、屋根船をお願い申し上げます。」と商家の奉公人の顔になって訪をする。

舟は、猪牙舟よりは一回り大きく屋形船よりは簡素な形した屋根船で、船頭を入れて十人ほどは乗れそうだ。屋根がある分雨や日差しを防いでくれるので、暑さは少し凌げるだろう。


船宿の者が案内をして、近江屋の面々が舟に乗り込んだ後、袂をからげて白狐が乗ってくるのを見やって、おとめが心太に「これは乗り合いかい。」と小声で問うてきたので、「いえ、借り上げで」と言うと「ひっ」と引きつった声を出して慌てて船首に近い席に移って行った。

「どうしたえ」とご隠居様がおとめの慌てぶりにびっくりして問いただすと、額に汗を浮かべて、

「いえ、なんでもございません。暑いので、風がよく吹くこちらにさせていただきます。」と平素を装うのがおかしかった。

にやにやしているとおとめにキッと睨まれて、今度は心太が汗をかく羽目になった。


驚いたことに何故か善右衛門がバタバタとやって来て、

「お待たせ致し申した。これは近江屋の仕立てで間違い無かろうな。」と額に汗を浮かて問いただした。

「へい、間違え御座いません。」と心太が応えると、「ほう、間に合った間に合った。」とバシャバシャと船を揺らして乗り込んで来て、船尾側の板に腰を下ろした。いつの間にか、獺の主が善右衛門の後ろの白狐の横に並んで端座している。

まさか、善右衛門殿妖になっちまったのかと疑い心太が目を白黒させていると、御隠居様が、

「こちらはどなただえ?」と小声で心太に聞いてきたので見えているのだなとホッと胸をなでおろして、

「以前騙りにあった、善右衛門様で御座います。」小さくと応えてから、

「お久しぶりで御座います。この度は、どうした訳でこの船に乗ることになったのでしょう。お聞かせ願ってもいいですか?」とやんわりと問うた。

善右衛門は、ニヤリと笑って「何、この御仁に頼まれて、用心棒代わりに再度の江戸見物と洒落込んだのさ。明日の川開きの花火は良い土産話になりそうじゃ。」とご満悦で、懐から出した握り飯を旨そうに頬張りながら、ガッハッハと豪快に笑った。

「この御仁?」と御隠居様が小首を傾げたので、心太は慌てて「旅は道連れと申します。どうか、宜しくお願い申し上げます。」と丁寧に善右衛門に挨拶をして、御隠居様の横に座り直した。


船宿の印半纏を羽織った鯔背に髷を結った船頭が最後に乗り込んで来て、

「お揃いですか。」と問うてきたのて主に目線を送ると大きく頷いたので、

「出してくだせい。」と心太が返事をする。船はゆっくりと岸を離れ、初夏の陽射しに屋根を光らせながら、獺達を先導し始めた。

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