第5話

御隠居様張り切る


善右衛門が突如現れて、飛脚屋角五の近江屋へ厄介ごとをもたらしたのは、沈丁花の香る頃だった。いつのまにか、桜も散り善右衛門も江戸に未練を残しながら田植えだからと郷里に戻って行った。それから、長い感謝の文が近江屋にも届いてからも随分と時が経った梅雨の明けた、晴天の日。

朝靄の中、小伝馬町の表通りに

「さぁご隠居様行きますよ。」と

おとめの張り切った声が響いた。


御隠居様が、ずんずんと表に出て行くと、

「お母さん本当に大丈夫なんですかぁ。」と眉を八の字にして女将さんが御隠居様の後を追いながら、

「何もこんな日に」と杖と水差しを手渡して、強い日差しに目をすがめる。

そんな心配をよそに、

「何言ってんだい、私が行かなきゃ始まらないのさ」といつもにも増して張った声を出す母親を見てやれやれと首を振りながら

「気を付けて下さいね。」と店前まで送って行った。

「心太、お願いしますよ」と懐から、懐紙に包んだ幾ばくかのお足を出しながら女将さんは、渡す手に力を込めた。

「分かりやした。」と懐紙を押し頂いて、タッタッタとご隠居様の後を追いながら、

「すいやせん」と心の中で心太は、頭を下げる。

女将さんは、御隠居様がおとめの久しぶりの里帰りに只々ついて行くとばかり思っているのである。


あれから何度も徳寿院に集まって額を寄せて話し合いをした。

今回は珍しくおとめが、その話し合いに割って入り張り切って案まで出していた。それは初めて獺の宿移りを相談に行った寺からの帰り道、川並の様子を見ながらご隠居様が、筏を使って獺達を川から掘割へ、そして新川へと遡上させる手を思いついたと言い。そうすれば、おとめの実家が新川の北へ上がった辺りにあるので、「心太だけではなくおとめや私も同行できるかもしれないねぇ」と御隠居様が言い出したからだ。

久しぶりの帰郷が余程楽しみなのか、怖さも忘れておとめが船から布を垂らしてはどうかなど、ああしたらどうだろう、こうした方がよくないかと話し合いに入るようになったのだ。


心太は、火除け地の稲荷に足を運んでは、徳寿院で練った案を白狐と獺の主に伝えた。獺達が下ってくる筏の後を追って来たら、御茶ノ水辺りで合流し、掘割を屋根船で先導しながら新川へと向かう手筈にすると。そして度々話し合いをして、川の中から船はどう見えるか、泳ぐ速度はどれくらいなのか、どの高さに有れば印の見分けがつけられるのか、心太達では分からない細かな点を聞き出して、手順を決めた。最後に時期は大川の川開きの前日に合流すると取り決めをしてから、主は仲間の寝ぐらへと帰って行った。


いつの間にかすっかり仲間の様になってしまった白狐が、ある時心太に

「お人好しだねぇ」と薄く笑って言ったことがある。

そういう白狐も今回の大作戦に、少なくない役割を担ってしまったのだがと、心太は不思議な気持ちになってフッと笑った。

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