第二章 憎むべき過去 [半人半獣編]
第13話 夢現 ユメ→
共和国の科学は、夢の診断なるものをとっくのとうに非科学的だと結論している。
夢の内容によってそれが今後を決定づける。
欲望や動機ぐらいならばとも考えるかもしれないが、そこに因果関係は見いだせないだろう。
前時代に無意識を発見した学者は夢の内容を性的な潜在的欲望に紐づけしたが、そんなことはもう誰も信じないし信じたくもない、共和国の末端の人間でもそう思うだろう。
だが、共和国の科学には説明することのできない、マナという神秘がある。
そんな神秘が、苦しい夢を彼らに見せているのなら?
抑制された感情を夢という媒体を通して、面白がって解放しているなら?
そう、あまりに『都合の良い夢』が彼らを安眠から遠ざけていた。
まるでこれから起こるように決定づけられた現実に、起こるように喚起されたシナリオに彼らを誘導するという確実な目的で、それを見せつけている。
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須佐時雨は悪夢を見ていた。
あまりに現代的ではない、汚らしい牢獄に彼女はいた。
ごつごつとした石の敷かれた地面に捨て置かれたカビだらけのパン、雑多な節足動物や虫のうごめく音、むせかえるような悪臭、目を凝らすことさえ憚られるような闇。
彼女は、そんな牢獄にふさわしくないきれいな銀の十字架を握り締め、額に当てて祈るように、ぶつぶつと何かを唱えている。
その祈りは自分からは止まらないような、何か出来事を待っているようなそんな頑ななものだった。
すると左の壁越しから声が聞こえる。
「『左』の声が聞こえないよ、お姉ちゃん。
小さな子から、小さな子から……
あれ?何人あそこにはいたのかな。
もう忘れちゃった。
リット、マニヒ、トオル………………」
「ムラクモ?ムラクモ!?もうやめるのだ!!」
「え?……
あ、そういえば。お父さんは?お父さんは?」
「お父さんじゃないよ。
だけど大丈夫なのだ。
必ずお姉ちゃんと抜け出すのだ。
必ず、必ず……約束……」
「本当?みんなに会えるの?
もう一度名前を聞かないと……もう、忘れちゃった。
でも会いたいな……」
「会ったら、きっと思い出せるのだ。
『師匠』がきっと思い出を守ってあげるのだ。」
彼女が絶望でちぐはぐに顔を歪めたまま、自分に言い聞かせるように丁寧に言葉を紡ぐ。
仰向けに寝転ぶ彼女は手に持っていた十字架を顔の上でぶら下げ、見つめていた。
そして弱り切った体を懸命に起し、鉄格子の間から『左』へ滑らせるように投げる。
「これは?お姉ちゃん、大事なものなのだから捨てちゃだめだよ‥‥」
「違うのだ。ムラクモが持っていて。
『師匠』とのつながり、約束の証なのだ。」
「約束、約束だよ‥‥‥。もう眠るね。」
「ああ、お休み」
二人は、壁越しに結ばれた弱いつながりを確かめ合った。
そしてまた眠る。
(明日も『左』から声が聞こえますように。)
(明日も『右』から声を聞けますように。)
ガシャン。
鉄格子が開く音とともに、『右』にいる彼女は短い眠りから覚めた。
「お休み」の言葉から三時間もたっていなかった。
(次はあたしの番か。)
眠い頭でそう考え彼女はゆっくりと顔を上げた。
しかし、うっすらと見える鉄格子の小さな扉が開いている様子はない。
ぞわっと背筋が凍えるような悪寒が彼女を襲う。
(そうだ、そうだ!『左』から‥‥『左』からなのだ!)
その決まりごとは今日も粛々と実行されている。
よく耳をすませば、『左』から鉄格子が開く音が聞こえていたのだ。
無情すぎるその短い音が鳴れば、どのような結末を迎えるか。
過程を知らない彼女でも、最後の最後の結末はいつも決まっていると知っていた。
(聞こえなくなる!!聞こえなくなるのだ!!!)
「やめろ!やめろ!お願いだ!お父さん!」
彼女はその叫びに、言葉通り全身全霊を賭けていた。
しかし、そこにいるだろう「お父さん」はまるで聞く耳を持っていない。
彼は狂った調子のオルゴールのように独り言をつぶやき続けている。
「ああ・・・・あと二人、なんとしても成功しなければ!
ヒヒッ!ヒヒヒッ!
だが残るは、シグレとムラクモだ‥‥。
必ずだ!!
必ず成功すればまた研究所に戻れる!
ヒヒッ!」
「ムラクモ!ムラクモ!」
必死に呼びかける。
だが、まともな反応は返ってこない。
一方的な言葉を二人して投げあっている。
「イヤァ!ヤダよ!ヤダよ!お父さんやめてよ!!!」
『左』の女の子が悲痛な叫びを上げる。
恨めしそうな、悲しそうな。
『右』の彼女に向かって、聞いたことのないようなひどく苦しい声で。
うめくような叫びを。
「お姉ちゃん!オ姉チャン!オネエチャン!!!
約束!!ヤクソク!!
ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァ!!」
断末魔そのものだった。
彼女にとってその女の子が最後の繋がりだったはずだったのにも関わらず、この叫びはひどく彼女を恐怖させた。
そう、この状況にではなく女の子に対してだ。
その女の子と繋いでいた手をグチャグチャに握りつぶされているような、爪を剥がされ食い込む指で手のひらを抉られるような激痛が彼女の全身を突き抜けた。
「イヤダ………………
イヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ!!!!!」
その拒絶は何に向けられたものなのかすらわからない。
『右』も『左』も無くなった闇の只中にいる彼女には、ただただわからなかった。
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知里友和は不可解な夢を見ていた。
彼はあの雪山にいた。
あたりはよく晴れていてが、雪は体を少しうずめるほどに高く降り積もっていた。
身に染みる冷気が現実味を持って伝わってくる。
体の熱がどんどんと吸収され彼の体は全体的に感覚を失いつつあった。
目の前には首の取れた大きなけむくじゃらの体と、横にコトンと倒れ片目から石油のように黒い血を流す頭が雪の中に置かれていた。
(あの雪猿だ。)
怨嗟の対象がすぐ目の前にいるのに、彼の心は凪のように静謐だった。
まるで雪猿に対して心動かされない。
ただ、死んでいることがあからさまに確認できるからではない。
落ちている死体にすら興味が向かなかった。
雪猿の目が何回か瞬きをすると、その『頭』はどこか聞いたことのある柔和な口調で人語を話し始める。
女の声だ。
「あなたは、私を撃ちましたね。」
「ああ。撃ったよ。」
「何故です?」
「母を殺されたからだ。」
『頭』は少しの間、黙り込む。
そして、なぜか同じ質問を繰り返した。
「何故です?」
「母を殺されたからだ。何度も言わせるな。」
「何故です?」
「なんだこれは?なんの意味がある?」
このふざけた状況に対しても、彼は未だ冷静だった。
というより、メトロノームみたいに揺れるそうになる情動を中心に固定されているような感覚だった。
始動をしようとエンジンを温めてはいるのに稼働はしない。
まだ『頭』が質問を続ける。
「何故です?」
「…………………………………………………」
「何故です?」
「………はぁ、母がお前に噛み殺されたからだ。
悲しかったからだ。
怒ったからだ。
憎んだからだ。」
この答えを言った直後、雪猿が見えない力で強制させられているかのように、無理矢理な笑顔を浮かべる。
魔獣が人語を話しているにもかかわらず、まるで頭を介して誰かが話しているような違和感が、そこでようやく生まれた。
引きずり込まれるように、彼の目がそちらを注視する。
「ふふっ…ふふふ!!!」
この笑顔を見た瞬間、堰を切ったかのように拒絶感が彼のうちに溢れ出る。
圧迫されるような感情の高ぶりによって言葉をうまく発せられない。
「やっと、やっと!!!正直になられましたね!!!」
まくしたてて『頭』が大声で喋り始める。
「そうですよ!!
憎み、怒り、悲しんだ!!
事実があなたを動かしたんじゃない!
彼は未だ口を開くことができない。
不可解な状況にようやく疑問を抱き始めたところなのだ。
(なんだこれ!?
何が起こってる!?
死んだはずだ!!
死んだはずだ!!!!)
「そう、あなたは呪われている!!!
憎しみに!怒りに!そもそも感情に!!!」
(こいつ何を言ってるんだ!?呪われている!?)
ようやく口がきけるようになった彼は何かを言いかけたが、『頭』の様子がおかしいことに気づくと自然と口をつぐむ。
彼に言うだけ言ったのか、『頭』はスイッチを切られたかのようにしゃべるのを急にやめたのだ。
しかし。
(……………………………ねぇ。)
次の瞬間、また「不可解」が起きる。
彼は自身の内側から声を聞いた。
その声は赤子をあやすような甘い声で、彼に話す。
(動かないんでしょう?思い通りに。
せっかく彼女と修行したのに。
相手を打ち倒す力を得たのに。
いいえ。その力を得たからこそそれを振るうのをためらっている。
なぜか?私にはわかる。あなたは意味を見いだせない。
人に、そもそも魔獣以外に剣を向ける意味があるのか?
だけど、それは確実にあるの。
魔獣と同じように。
でもね、それももうできるようになる。
力を向けられるようになるの。なぜって?)
そして声が一度止むと、聞き覚えのある声色が聞こえる。
須佐時雨。聞き馴染みある須佐時雨の無邪気で清い声が。
答えが当然決まっているかのように彼に質問を投げかける。
(………………友和、人を憎むことはあったか?)
その瞬間、彼はいつの間にか手の内にあった散弾銃をどうしようもない力に突き動かされ、目の前の頭に標準を合わせる。
そして。
「うわぁぁぁあああああああああああああああああくぁああああああああああああああああ!!!!!!」
撃ち放つ。
あの日と同じ轟音が鳴り響き、頭へ吸い込まれるように弾が命中する。
ビシャァアアアア!!
爆薬を込められてたかのように散弾を受けた頭が破裂する。
そしてその中身が真っ白な雪に、そばにいた彼に、際限なく降りかかる。
やけにどろどろした黒い血が彼の視界を覆い尽くす。
匂いも味もわからないが、彼は何も見えない黒の中へ誘われた。
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