第5話 極光
改暦1592年1月28日
友和が目を覚ましたのは転落から丸一日経ってからであった。木に打ち付けられ背中がひどく痛み、全身にも複数のあざがあった。体の力が抜け、もう碌に動けない状態であった。惨劇の後とは思えないほど胸のつかえがとれたような心持の友和は、気を失っていたことを自覚し、胸元にかけてあった懐中時計を開く。思ったよりも時間が経過していることを確認した。
そして、「どうにかしなくては」という曖昧なだけの切迫感が彼を襲う。
首もほとんど動かないほど痛めていたが、それでも彼は周りの様子をどうにか見渡してみる。
母の分まで背負っていたバックパックは背中から外れ、五メートルほど離れた場所で中身が散乱している。手に持っていたはずの散弾銃はもうその手の中にはなく、自衛の手段は食材を切るための小型ナイフしかなかった。
そして、一通り周りの状況が目に入ると首の鈍痛に耐えられなくなり、友和は顔を再び空へ向けた。
空は昨日と同じようにきれいに晴れている。快晴というやつだ。雲一つない、というとポジティブに思えてくるが、彼にはその純粋な水色が虚空に見えて仕方がない。前向きも後ろ向きもない、指向性のない虚空。
その虚空の中、黒く小さな影が友和の上を通り過ぎる。
「あ。」
ふと思い出すのだった。母を。母の腕を。
友和は朦朧とした意識の中に、どうしても母を感じざるを得なかった。しかし、実感のほとんどない母に対する悲しみは、彼の表情、情動を変化させるには至らなかった。
友和には理解のできない切迫感のなか、やはり生理的な現象には抵抗できないのだろうか。全身の痛みから、彼は眠っては起きてを繰り返してしまう。
そのサイクルを数回、完全に動けるときには日差しの暖かい昼頃になっていた。昼になってみると、痛みは少し楽になっており重い体を起こして行動を開始した。
まずは散乱している荷物を集めることにした。荷物のうちには食材がおよそ一日分と、魔法瓶のうちの水が少し。それとガラスの割れたランタンがあった。そして、バックパックの下に赤色のブランケットが落ちていた。
赤のブランケットを、荒々しく堅い毛が裁縫され、端がほつれている一枚の布を見たとき、友和は眼を見開いた。
母の大切にしているブランケットであった。
水色しかない彼の心に、ペンキをぶちまけたような鮮烈な赤が広がる。
何故?母が襲われなくてはいかなかったのか。
何故?母を一人にしてしまったのか。
何故?銃を母に渡しておかなかったのか。
何故?病弱な母をわざわざ連れ出してしまったのか。
何故?大切なブランケットを母に羽織らせてあげなかったのか。
ブランケットを見た瞬間、そんな悔恨が洪水のように押し寄せてくる。
そしてまた、自覚した。
母は死んだのだと。
それまでどうにか立てていた友和は、一気にひざの力が抜け地に伏す。
ブランケットに顔をうずめ自然と慟哭していた。
悲痛な叫びであった。弱冠8歳にして、母を目の前で失ったのだ。当然といえば当然だが、その当然の「悲しみ」の上に更なる凄惨な光景が、血みどろになった赤黒い雪が彼の脳裏に何度も何度もフラッシュバックし、まるで全身に焼き印を押し付けられているような痛みにさいなまれる。
「ウ…ゥ‥‥‥うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
涙の出ている目が乾きを覚えるほどに目を思い切り開き、力の限り叫んでいるはずなのに声が出ないほど喉を開き。
泣いていた。
泣き続けた。
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叫びに近い嗚咽は何か「限界」のようなものを迎え、友和はようやく落ち着いていた。
小一時間ほど泣き続けただろうか。ブランケットに零れ落ちていた涙もこびりついていた鼻水もすでに乾いて、赤の上に白く半透明になっていた。どうしようもないという絶望が彼を静かに押しつぶす。
しかし、そんな空っぽの心にもまだ寄り縋ることのできる細い糸が残っていた。
「.......父さんの墓参り行かなくちゃ。」
そうつぶやくと、彼は最低限の荷物だけまとめ、行く当てもなくただ山の麓に、と下り始めたのだった。
改暦1592年1月29日
もう友和は心身ともに限界を迎えていた。
軋む体では足元もおぼつかない。何度も何度も雪上を転げ落ち、追い打ちをかけるように傷が増す。雪の冷たさは、友和の体をじんじんと蝕み、足の指の感覚はほとんど麻痺していた。
心の摩耗ももう既に限界であった。どこにいるかわからないまま歩き続ける苦痛、母を殺してしまったという深い後悔、この二重苦によって彼の心ももうこの日の夕方頃には折れていた。
「お父さん……………ごめんなさい………」
これまでやっとのこと立ち続け、歩き続けていた彼はうつ伏せに、バタリと倒れ込む。
彼は、もう思考もままならないほどに疲弊していた。感情に揺さぶれることすら面倒に思えるほどに、だ。
倒れてから一時間はたった。あたりはほの暗く、雪から夕焼けの色が脱色し青白く光り始めていた。そんな時、雪を踏みしめる、耳にへばりついている大きな足音が友和の耳に届く。
模糊たる意識のうちでもそれが雪猿の足音であることをいやでも理解するのに、友和は時間を要さなかった。
またも、揺さぶられる。
ふとした怒りが彼の内に宿り、体を嬲るこの痛みも、母を殺した恨みもその怒りの内に還元される。どんどんとまっさらな平地に憤激の蓄えが為され、顔が強張り、歯ぎしりが止まらなくなる。しかしながら、体は言うことを聞かない。
「こんな獣に…………獣風情に………母さんは……っ!」
悔しさと自身に対する情けなさで、友和は怒りで心中を満たしながらも大粒の涙を頬に伝わせていた。
「こんな奴に殺されるくらいなら………」
地響きに近い足音は次第に迫ってくる。彼は口端でキッと声ならぬ声を発し、決心をする。
腿の横に差しておいた小型のナイフを強く握りしめ、それを抜いた。切っ先を自身の喉元に向け覚悟を見直すようにまた柄を強く握り直す。
しかし、というよりも、やはり、ナイフの先端が大きく震えている。「死ぬ」という恐怖、いまだ友和の中にはそれが残っていた。
だが、そ喉元に狙いを定めたはずの震える切っ先を窘めようと彼は深く呼吸した。
震えが収まる。
目を見開いた。
「やめろ。」
覚悟を成す寸前で、友和の背後から声が聞こえる。
粛々とした男の声だ。
「
じゃあ死ぬ価値もない。
お前が勝手に踏ん切り付けたその覚悟はせいぜい『風の前の塵』で終いだ。風があいつで、塵はお前だ。
じゃあどうするか?この理不尽な状況に対する『答え』を教えてやる。」
そう言い放つと、男はもう友和の50メートル目前まで来ていた雪猿の前に立ちふさがった。
そして小さく呟く。
「生体鋼外殻(アウター)、展開をしろ。」
肩に乗っていた蛇が男の背中に移動する。その刹那、雷が直撃したようなまばゆく激しい光が彼を覆い尽くす。
光で目が眩んだ友和が、恐る恐る目を開く。するとそこには、光沢のない鋼を全身に纏った男がいた。
そして、友和が図らずも口に出す。
「アウター………パイロット………?」
「そうだ、俺は機動士(パイロット)だ。地を這う竜機士(ドラグナー)だ。」
そう言うと、彼は鋼を被った目だけが光る表情のない顔をこちらに向け、親指を立てて友和に答えた。
友和には唯一、彼の生命(いのち)を感じる金色の光を漏らす彼の目が、暗い地底に落ちた彼の希望を照らす暖かい光に見えた。
(この人なら、この人なら‥‥‥)
一方。
対峙する隻眼の雪猿は、あまりの彼の変容ぶりに驚いたのか一瞬動きが止まっている。閃光もまた、雪猿が突進を思いとどまる原因になったのだろう。
一時の逡巡。だがやはり「ソレ」は魔獣であり、目や腕の損失に対する報復は何物にも代えられない。この報復に従順であることこそが「ソレ」が「ソレ」たるゆえんであるのだ。とどまっていた雪猿は今度こそひるまずに男に向かい駆け出してきた。
激突の予感を受け取った男もまた戦闘に身を構える。
「マナ回路、両足、右腕を解放。マナを回路に充填しろ。」
「了解。チャージ完了。」
男が指示を出し、アウターが答える。
その指示を実行すると、男の右腕と両足を覆う鋼の隙間から金色の光が漏れ出す。足元の雪が、彼が発する風圧によってしだいに抉り取られ、ついには地面をもむき出しにする。彼を中心に半球のくぼみができているような状態である。その威圧感たるや、なぜ雪猿が臆さないか不思議になるほどだ。
彼が慣れた口調で指示を続ける。
「そのまま各部位に強化魔法を。左腕、ブレード展開。」
「了解。強化魔法発動。<エンハンスボディ>
続けて左腕の神経融合状態を解除。
パージ。
ブレード展開。完了。」
すると、左腕の装甲が外れ、そのままその装甲がゆるく湾曲した片刃の剣に姿を変えた。男の左手にそれが収まると彼は向かってくる雪猿には目もくれず、中腰で斜向きに足を広げ、右手で刀の柄を握る。
「雷法、<雷電>」
そう彼が言うと、鍔の部分から魔法陣が広がり、そのまま魔法陣が刀を通り抜けたと思うと、抜き身の刃に青白い電撃がまとう。甲高い音が何度も、ジジッと森の中に響く。そして顔をようやく雪猿の方へ向けたと思うと、一歩のうちで男は雪猿との距離を詰め、雪猿が彼に気づいたころにはもうその懐にいた。
「遅いなぁ。」
彼が笑み交じりの声で雪猿に言う。雪猿は状況が呑み込めず、いや認識すらできていない。
柄を絞るように握る。
「剣技、<回天>」
かれはひとつ呼吸を整え、呟く。一瞬のうちで彼のちょうど頭上にある首元に一太刀を浴びせる。
雪猿は太刀を浴びたことに気づかないのか、バカにするように笑みを浮かべる。
だが。
「回天はなあ、気づかないうちに世界が逆さまになっちまうんだよ。」
そう彼が捨て台詞を吐いた瞬間、笑みを浮かべる雪猿の頭がその巨大な体からあっけなく外れ落ち、ポトリと真っ逆さまに雪の上に突き刺さった。
一瞬の攻撃。交戦というにはあまりに素っ気ない。
電撃によって切り口は焼き切られ、血は全くと言っていいほど流れていない。足元の雪はその青白さを保ち、輝き続けている。
その輝きが証明するのは、まぎれもない、圧倒的な「勝利」である。一太刀で、一撃で倒す男の剣技は美しいといっても過言ではなかった、友和でさえそう感じていた。
友和には一筋の金色の光が動いているようにしか見えないくらい一瞬の戦闘であり、少しの間呆然とせざるを得ない。しかし、戦闘の「結末」だけで、ほんの少し経過した「時間」だけで、彼の命だけではない何かが救われたような気がした。そして、男の言う『答え』に近づいた気がした。
「小僧!見てたか!」
雪猿の頭を片手に持った男が近づく。男の体は元の状態に戻り、肩に乗った蛇は戦闘以前のかわいらしい姿に戻っている。
男を愚直に見つめていた友和の元に、彼が歩み寄り声をかける。
「これが『答え』だ。
そして、あれが生き延び、逃げおおせたお前への祝福だ。
さあ、帰るぞ。親父に会いに行くんだろ。」
既に暗くなっていた空に男が指を差す。
そこには母とともに見るはずであったマナ・オーロラが見える。それは満天に広がり、星の浮かぶ夜空に極彩色の光を優しく放っていた。
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