先生の恋人は生徒『百合ぽい』

赤木入伽

先生の恋人は生徒

【第一話】


 雨が降りしきる放課後の教室のことです。


「睦美先生。私……私……」


 そう言って篠山春香は長谷川睦美の胸に飛び込み、その手を睦美の背に回してきました。


「は、春香さん――?」


 睦美は驚いて春香に声をかけますが、返事はありませんでした。


 ただ、春香はすぐに睦美から離れ、そのまま表情を見せずに頭を下げました。


「すみませんでした。今日は失礼します。さようなら」


 言うと、春香は急ぐように教室を出ていきました。


 睦美の教師人生はまだ三年ですが、生徒からの挨拶に返事できなかったのは、これが初めてでした。


 桜浜女学院は、いわゆるお嬢様学校です。


 そのため、どの生徒も古風ながらも清く正しく楚々としています。


 中でも春香という子は、成績優秀で部活動も生徒会活動も盛んにこなし、友人関係も良好で、また綺麗な顔立ちもあってか見知らぬ後輩からの人気も高いという、どこからどう見ても桜浜女学院を代表する生徒でありました。


 なのに突然のあんな行い――


 睦美の心臓は激しく音を鳴らしていました。


 明日、春香と会ったら何を話せば良いかと考えましたが、何も思いつきません。


 いま何が起きたのかと反芻するばかりです。


 そして、ふと春香が忘れていったリボンに気づきます。


 学校指定のリボンですが、春香のような清楚な子によく似合う赤いリボンです。


 睦美は、ついなんとなく、そのリボンを握りしめて――


 と、教室の扉が開かれる音がしました。


 睦美は肩をビクリと震わせて振り返ります。


 一瞬、春香が戻ってきたのかと思いましたが、そこにいたのは別の生徒でした。


「あ、万理沙さん? ど、どうかしたの?」


「スマホ忘れちゃったから」


 そこにいたのは佐藤万理沙という子でした。


「いやぁ、友達にLINEしようと思ったら、鞄のどこにもないんだもん。マジパニクったんだけど、そーいえば教室に置いてきたんだって思い出して、一安心してこむら返りしてきたの」


 万理沙はけらけら笑います。


 万理沙は、春香とは真逆の生徒でした。


 素行も成績も悪く、髪を染め、制服を着崩して学校指定のリボンもつけない、いわゆるギャルでした。


 この学校では珍しいタイプであり、それだけに睦美も初対面のときは少し緊張しました。


 ただ、一方の万理沙は常に明るい笑顔を振りまき、このお嬢様学校でもそれなりに楽しく生活しているようでした。


 実際、今も忘れ物をしたというのに笑顔です。


「睦美センセーこそ、教室で何やってんの?」


「え? ああ、さっきまで春香さんがいて、委員会のお話してたの」


 睦美は、小さな隠し事をしたことに若干の罪悪感を感じましたが、万理沙は「へー」と興味なさそうな相槌を打ちました。


 どうやら万理沙は先ほどのことを目にもせず、春香にも会わなかったようです。


 ただひたすらに中腰で自分の机をあさっていますが、置きっぱなしの教科書などが邪魔して、スマホが見つからないようです。


「貴重品の取り扱いには気をつけてね。スマホは高価だし、個人情報も入ってるんだからね」


 睦美は気を取り直し、教師らしい口調で言いました。


 それに万理沙は「はーい」と答えますが、「でもさ」と続けます。


「でもさ、睦美センセーも気をつけなよ。教室で生徒とハグなんて、教師の仕事じゃないっしょ?」


 万理沙の言葉に睦美は固まりました。


 顔から一気に血の気が引きます。


「え、あ――何を、言って――」


「何をって、こっちのセリフだし。スマホ取りに来たら、ヤバみたっぷりの雰囲気で二人がハグしてんだもん」


 万理沙はスマホを探しつつも、相変わらず笑っています。


 ただ、今はその笑顔が酷く怖いものに睦美には思えました。


「そ、それは――春香さんが急に抱きついてきて――」


「えー? それにしてはさ、春香さんのリボンを意味深に見てなかった?」


 万理沙の言葉に睦美は押し黙ります。


「これって、大事件じゃん? 校長センセーが知ったらどう思うかな?」


「いや、それは――何か――望みがあるの?」


 睦美の背中に嫌な汗が流れ出しました。


「えー? そんなふうに聞こえちゃった? マジ勘弁だし。映画みたいじゃん。別に私は、来週からテストだな、なんて考えてないし」


「さ、さすがにテスト内容は――」


「いや、だから、そんなことは考えてないし。私は睦美センセーにちょっと注意してるだけだし。――あ、スマホ見っけ」


 言うと万理沙は背を伸ばし、睦美に向き直りました。


 相変わらず笑顔のままで。


「マジで驚いたんだよ。だってさ、睦美センセーって美人で清楚で優しくて、マジみんなの人気者なのにさー、誰もいない教室で、自分の教え子と、人に見られちゃいけないことして――」


 万理沙は言葉を区切ります。


 つい、睦美も唾を呑み込みます。


 ですが冷や汗は止まらず、万理沙の言葉も続きました。


「しかも、私とも付き合ってるってことなんでしょ?」


「いや、だから、春香さんのことは誤解で――」


「センセーのくせに二股してんじゃん。マジサイテー」


 万理沙はニヤニヤ笑いながら言いました。


 はたしてそれは怒りの表れなのかは睦美には分かりませんでした。


 ただ、少なくとも、徹底的にイジメてやろうという意識ははっきりと見て取れました。






【第二話】


 放課後の学校と言えど、教え子に抱きつかれたところを恋人が覗き見していることもあるのです。


 なので長谷川睦美は、佐藤万理沙にひと気のない場所への移動だけはなんとか聞き入れてもらい、非常階段にやってきました。


 実はここ、虫が多いのであまり来たくはなかったのですが、背に腹は代えられません。


 それに問題は虫どころではなく、


「センセーのー、うーわきもーん。ふーたまたー。ねーこまたー」


 雨音を伴奏に、万理沙はリズミカルに歌いました。


 一見して陽気ですが、万理沙は怒っているときも笑顔でいることが多いので、睦美の緊張はまだ取れませんでした。


「心配させてごめんなさい。でも本当に浮気はしてないから。本当に春香さんが急に抱きついてきただけだから。今度はちゃんと注意するから。もしも告白してきたとしても、ちゃんと断るから。私の恋人は万理沙さんだけだから。ね?」


 睦美は手を合わせて言いますが、万理沙は「えー?」とまたニヤニヤしました。


「さっきの雰囲気、ちょっとマジ危なかったと思うのは私だけ? それに私が告ったときも、センセー、勢いに負けてたっしょ?」


「いやそれは――、でも一週間考えた結果、今も付き合ってるのよ?」


「それじゃ、もし春香さんが告ってきても一週間考えちゃわない? 一週間かけて悩んで、『三人仲良くって無理かな?』とかセンセーなら言いそうだけど?」


「う――」


 それはありえない、と言いたい睦美でしたが、そうとも言い切れませんでした。


 幼稚園児のころ、恋愛ごっこしていたときに、そう言った記憶がまさにありました。


「しかも、それが春香さんだけじゃなくってさ、それこそ他のセンセーに言い寄られたときもおんなじこと起こりそうだし」


「う――」


 それもありえない、とは言えませんでした。


「……それは、なんとか努力して……」


「努力しても無駄っしょ。センセーはそういう押しには絶対弱くなるタイプっしょ。センセーが恋愛経験ゼロってのは分かってるんだから」


「ぜ、ゼロって」


「ゼロっしょ。意味深に春香さんのリボンを持った時なんか、ちょっと心ときめいてたっしょ」


「う――」


 それもまた否定できませんでした。


 ちなみに春香のリボンは、なぜか万理沙が自分の首につけていました。


 これもイジメの一手段です。


 ただ、睦美は言います。


「……でも、いま愛しているのは万理沙さんだけだから。それだけは信じて――」


 睦美はまっすぐに万理沙を見つめました。


 すると万理沙は、


「ふふ。センセーったら可愛すぎなんだけど」


 万理沙はウェーブのかかった茶髪をくりくりと指でいじくりだします。


 そして「だったら」と言って、ニコリと笑って、


「体で証明して」


 突然、そう言いました。


 それに対し睦美は「え?」と口を開きますが、万理沙は可愛らしくニコニコ笑っています。


「な、何を言ってるの?」


 睦美は当然のことを問いますが、心臓はまたドキドキと強い鼓動を打ち出しました。


 しかし万理沙は吹き出します。


「ふふ。センセー超可愛い。何を言ってるの、って何を思ったの?」


「え? いや、その……」


「体って言えば、順番から言って、まずここでしょ」


 そう言う万理沙は、自分の唇を指差しました。


 そういうことか、と睦美は納得しましたが、すぐにかぶりを振ります。


「で、でも、そういうことは万理沙さんが卒業するまでは――」


 それは万理沙に告白されて、睦美が一週間考えたときに決めたルールの一つでした。


 自分の教え子と恋人関係になるのなら、最低限の分別が必要だと思ったのです。


 例えば、キスのように少しでも性的と言える行為はしないという一線を。


 だから睦美と万理沙は付き合い始めて数ヶ月が経ちますが、未だキスに至っていなかったのです。


 しかし、万理沙は言います。


「いや別にホテル行こ、なんて言ってないし。キスくらいしてもいいじゃん。だいたいキスもなしで愛を信じてって、無理あるくない? あとウチのクラスでも、キス経験者だったらそれなりにいるよ?」


「え? 本当?」


 睦美は大人の自分ですら未経験なのに、お嬢様学校の生徒が経験済みであることにショックを受けました。


「それにさ、キスしてくれるだけで私はアンシンカンを得られるんだからさ。ね? ね? ねー?」


 万理沙は言って、舌をぺろりと出しました。


 その口元は、お嬢様学校にしてはありえない赤味と艶が強い口紅が塗られていました。


 そして、それは確かにまだ睦美と触れ合ったことのない部位でした。


 しかし、


「それは――」


 超えてはならない一線と決めたものを超えてしまっては、他のものも超えてしまいかねません。


 万理沙は未成年である以上、門限もありますし、使えるお小遣いの額だって決まっています。


 それを睦美が勝手に破ってしまっては、いずれ後ろめたい気持ちを抱えたままで万理沙の親御さんにご挨拶することになるでしょう。


 それは、できれば回避したいことでした。


 しかし万理沙は、そんなふうに悩む睦美を見て、大きな溜息をつきました。


「マジでカタブツ。センセーって、校則破ったこととかないんじゃない?」


「え? それは、当然でしょ?」


 睦美は言いますが、万理沙はまるで天然記念物を見たかのような目をしました。


 そして少し悩む素振りを見せ、「それじゃ、しょうがないか」と言い――


「な、なにしてるの?」


 睦美は驚きました。


「別に。ちょっとシャツのボタン開けてるだけだしー。女同士だから、恋人じゃなくても気にしないしー」


「でも――、え――えっと――?」


 万理沙は突然服を脱ぎだしました。


 いえ、正確に言えば本人の言う通り、シャツのボタンを開けているだけでした。


 しかし胸元はもちろん、ブラジャーだって完全にあらわになっていました。


「ちょ――駄目よ。恋人同士だからって、急に、そんな――」


「センセーのそういう処女っぽいところ好きだけどさ、今回ばっかは私も引けないっつーか。だから、センセーに選択肢をプレゼント・フォー・ユー」


「ぷ、プレゼント? 選択肢を?」


 睦美は、もはや何が起こっているのかわかりませんでした。


「そ。選択肢」


 万理沙はやはり恥ずかしいのか、わずかに頬を染めつつ言い、指を一本立てました。


「選択肢、その一。私と別れる」


「え!?」


 睦美は目を見開きますが、すぐに万理沙は二本目の指を立てました。


「選択肢、その二。私とキスする」


 言われて、睦美は選択肢の内容を理解しました。


 つまり万理沙は、いつも陽気な様子を見せてくれますが、愛を証明してくれないと別れると言うほど不安なのでしょう。


 ここまで言われてはさすがの睦美も真剣に考えざるを――


 万理沙が指を三本立てました。


「選択肢、その三。私がいやらしい大声を出す」


「――」


 睦美も真剣に考えざるを――と考えたところで、その思考は止まりました。


 いま万理沙が言ったことは、睦美も聞き取れました。


 文章の意味もわかりました。


 しかし、意図がまるでわかりませんでした。


「三番目の選択肢って、どういうこと?」


 睦美はそう聞こうとしましたが、途端、さっきまで三本立っていた万理沙の指が、睦美の唇に止まりました。


「静かに、ね」


 万理沙はイタズラっぽくウィンクしました。


 まるで漫画みたいなその仕草に、睦美はドキリとしました。


 ですが、


「はぁー、まったく」


 突然、非常階段の階下から声がして、睦美はさらにドキリとしました。


 しかも、


「教頭のやつ、ほんとに腹が立つわね。理事長の推薦があったから教頭にしてやったけど、まるで使えないじゃない。しかもあの態度――。私が校長だって分かっているのかしら」


 その声の主が校長先生であることが判明し、睦美はまたさらに一段と大きくドキリとし、恐ろしいまでの緊張に襲われました。


「そんじゃセンセーにもう一回、三番目の選択肢をプレゼント・フォー・ユー。私が、いやらしい大声を出す。今、ここで、この格好で。……そんな選択肢はいかが?」


 万理沙は、そう囁きました。


 ただ、小声になった分だけ、万理沙の胸元は睦美に触れるほど近くに寄り、またその声はどこか色っぽく聞こえました。


 睦美はもう自分が何でドキドキしているのか分からなくなりました。






【第三話】


 場所は学校の非常階段。


 人物は教師の長谷川睦美と生徒の佐藤万理沙。


 それだけなら秘密の相談、指導などと言い訳もできるでしょう。


 しかし万理沙の胸元は開け放たれ、その素肌と下着があらわになっていました。


 そして階下にいるのは校長先生。


 タバコ休憩をしているらしく、咳き込みたくなる煙が漂ってきます。


 ただ、今は咳き込むだけでもアウト。


 睦美は、ともかく門前の問題に立ち向かいます。


「ま、万理沙さん。じょ、冗談は――」


「静かにしなきゃ、校長センセーにバレちゃうぞー」


 万理沙はこれ以上ないニコニコ顔で言います。


 確かに今の睦美の声は少し大きなものだったので、睦美はまたまたドキリとしますが、幸い校長先生は気づかなかったようです。


 睦美は、すっかり引っ込んでいた冷や汗をまた背中に感じてきました。


 ただ、そうやって頭まで冷やされたのか、睦美の頭にある考えがよぎりました。


「万理沙さん、あなた、まさか、ここに校長先生が来るってわかって――」


 言うと万理沙は、クスクスと笑いをこらえるようにし、親指と人差し指で丸を作りました。


「大セーカイ。私が授業とか委員会サボってると、校長センセーもここに来るんだよね。特に、雨の日は絶対。今どき校長センセーが生徒の前でタバコなんて吸えないし、センセーも大変だと思うよ」


 それはそうでした。


 一般の学校はともかく、この学校はお嬢様学校です。


 理事長も古風で伝統的な女性らしさ持つようにという教育方針を掲げています。


 そんな中、校長がタバコを吸っていたなんて理事長にバレれば、激しい一喝が校長を襲うでしょう。


 けれど、


「けど、いくら校長センセーでも、タバコを怒られたくないからって、教師と生徒のヤバみたっぷりの関係は見逃さないっしょ。睦美センセー、怒られちゃうよー」


 万理沙は再び舌をぺろりと出しました。


 それはまた可愛くも色っぽい仕草でしたが、ことは怒られるだけで済むはずがありません。


「でも、それじゃあなたも退学処分――良くても謹慎処分に――」


 それに睦美も当然ながら懲戒処分となるでしょう。


 しかも、いくら教師が足らないというご時世とはいえ、不祥事を起こした職員を採用したがる学校は多くありません。


 ――露頭に迷う睦美。


 ――それを見限る万理沙。


 そんな未来が、睦美には見えました。


 しかし万理沙は言います。


「でもでもー、それでセンセーと私の関係がみんなに知れれば、春香さんも手を引くだろうし、私的にはアリだし、お金に困ったら私がバイトするし」


 万理沙は相変わらず無邪気な笑みを見せます。


 睦美にはちょっと愛が重く感じられましたが――。


 ただ、それだけに睦美はもう止まりません。


「さあセンセー。一番、二番、三番、どれ選ぶ?」


 万理沙は再び指を立たせましたが、その数は三本ではなく五本でした。


 となると、それが意味するのは、


「制限時間は五秒。答えなかったら、自動的に三番目ってことになるから。……五……」


 カウントダウンが始まりました。


 もはや睦美は、選択肢のいずれかを選ばなければなりませんでした。


「四」


 教師としての道徳心を取るなら一番目の選択肢をとるべき。


「三」


 二番目の選択肢は魅力が多いけれど、これをしたら後には戻れない。


「二」


 三番目の選択肢は絶対に論外。


「一」


 となれば――、


「ゼロ」


 万理沙は言って、息を吸います。


 もはや、いやらしい声が出るまで、一瞬の猶予もありません。


 が、その一瞬のうちに、万理沙の開いた口を睦美は止めました。


 自分の口で。


 それはただ優しく重ねただけでしたが、万理沙は呼吸を止め、何も口には出しませんでした。


 表情こそはっきりとは分かりませんが、万理沙は睦美をそのまま受け入れ続けました。


 そしてそれは睦美も同じでした。


 本当ならそれは一秒で終わってもいいことでしたが、睦美はずっとそのままでいたいと思いました。


 しかし、


「んん――」


 万理沙の声が漏れました。


 睦美は慌てて万理沙の頭を抱え、唇を強く押し当てました。


 ですがその声は、


「誰かいるの?」


 校長先生が気づくほどの声量でした。


 少し間を置いて、カツンと音がしました。


 校長先生が階段を登り始めたのです。


 しかし今の睦美と万理沙はキスしたまま。


 もし唇を離せば声が一気に漏れてしまいそうで、二人は動けませんでした。


 当然、万理沙の胸元も開け放たれたままです。


 校長先生は一段、二段、三段と近づいてきます。


 あと六段も登れば、睦美たちが見える位置に来ます。


 あるいは校長先生に声を聞かれたときに、服装を正せば良かったのかもしれません。


 ですが、もう遅いです。


 万理沙が睦美の手を握りました。


 そして、


「やだ!」


 校長先生が悲鳴地味た声をあげます。


 そして、


「いや! ムカデ! なんでこんなところに! もう、いや! 近寄らないで――って言ってるのに! いや! もう!」


 そんなセリフの残し、足音は遠ざかっていきました。


 あとに残る音は、雨と風、それと体育館のほうからわずかに聞こえる運動部の掛け声のみで、


「っぷは――、マジあぶねー。緊張したー」


 睦美が口を離すなり、万理沙はそう言って笑いました。


 しかし睦美は少し恨めしい目で万理沙を見ます。


「――もう、万理沙さん。せっかくキスしたんだから声にしちゃ駄目じゃない」


 これは約束違反だ、と睦美は万理沙を詰問します。


 もっとも、こういうときの万理沙は「マジごめーん」と適当に笑うのですが――、


 ところが今の万理沙は、口元こそ笑みの形になっていましたが、目をそこらかしこに泳がせていました。


 睦美は、いったいどうしたんだろう、と思いましたが、万理沙はやがて足元に焦点を定め、小さく呟きます。


「だって――――――――」


「え?」


 万理沙は何かを言いましたが、睦美はそれをまるで聞き取れませんでした。


 校長先生はもう遠くに行ったのに、万理沙の声は酷く小さかったのです。


「万理沙さん、もう一度」


 睦美は促します。


 すると万理沙は、睦美を睨みつけてきました。


 顔を真っ赤にさせて。


 ニコニコもせずに。


「だって、口にするんだもん!」


 万理沙は怒鳴るように言いました。


 それはこの静かな空間に突然響き渡り、睦美はわずかに身を震わせ、「え?」とだけ口を開き、目を見開き、そのまま固まってしまいました。


 しかし万理沙は怒鳴り続けます。


「睦美センセーのことだから、ほっぺとかで済ますんだろうなって思ってたのに――、だけど私的にはそれでも満足だったから――、それに口のキスはもっとロマンチックな雰囲気でやりたかったし――! 私もファーストキスだったのに――!」


 万理沙は睦美の肩をバシバシ叩きながら言いました。


「なのに急に口にするんだもん! しかも途中からすっごくしっかりしたキスになるんだもん! 睦美センセーのくせに! なにそれ!」


 万理沙はまるで小さな子供のようで、睦美はこんな万理沙を見たことがありませんでした。


 ただ、だからでしょうか。


 睦美は思いました。


 そしてそれを心の内に留めることなく、口にしました。


「ねえ、もう一度キスしていい?」


「え?」


 今度は万理沙が呆気にとられたような顔をします。


 ですが、睦美は止まりません。


 一線を踏み越えてしまえば、もう戻ることはできないのです。


「ちょっと、睦美センセー、待っ――」

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