第6話 漂流者

 デビーは呆れた顔でジョナサンを見る。

「夢を叶えた? 笑わせないで。まだ出航しただけよ」

「いいんだよ。それくらい嬉しいんだからさ」

 とは、言ったものの、二人は顔を見合わせて、水平線を見て、空を見上げる。

 次の島まではまだかかる。

「話、終わったけどまだつかねえな」

「なんかおもしろいことないかしら……」

 ジョナサンはもう一度、海を見た。

 あんなにも焦がれていた外海が、もう見飽きたものになりつつある。

「ん?」

 その中に、異物を見つけた。

「なあ、デビー。あれも海の生き物か?」

 なにかが波間に漂っている。目をこらすと、それは大きな樽であることがわかった。そして、その樽にはなにか生き物がしがみついている。

「人間だわ。漂流してるみたいね」

「なんだって! 大変じゃないか!」

 ジョナサンは大慌てで船の進路を変え、樽の方へと船を進める。

「おい! 大丈夫か!? 今助けてやるからな!」

「よかった。これでまた退屈しのぎができるわ。新しいおもちゃはどんな人かしら」

 デビーは、値踏みするように漂流者を見る。

 どうやら身分の高い人間らしい。若い男だ。仕立ての良い服を着ている。海水で顔に張り付いているシルバーブロンドの髪は、この有様でもよく手入れされているのが見て取れる。

 漂流者は甲板に引き上げられると、息も絶え絶えになりながら言った。

「なんだ、このぼろっちい船は! だめだ! こんな船はすぐに沈むに決まってる! ああ! 今度こそもうおしまいだ!」

「なんですって? この私が選んだ船にケチをつけようって言うの?」

 デビーの声に険が宿る。

 彼女が指を鳴らすと、水面を割って蛸の触手が現れた。

「わー! ダメダメ! なにしようとしてんだ!」

 ジョナサンが慌てて止めに入る。デビーは冷淡に、漂流者を見下ろしている。

「止めなくても大丈夫よ。ちょっと私の船を侮辱するとどうなるのか教えてあげるだけ」

「ステイステイステイ。オーケー。確かにこの船はボロい漁船だけど、いつかもっといい船に乗せてやるから。な?」

「なにを言ってるの? いつ私がそんなこと望んだのかしら? 私が乗ってる船が海でいちばんいい船に決まってるでしょ? 胸を張って誇りなさい」

「わーお、ありがたきお言葉! って、ダメだってば! デビー!」

 ジョナサンの制止を物ともせず、デビーは指を鳴らして蛸の触手に命令を下す。

 触手はゆっくりと漂流者に近づき、その体に絡みついた。

 まず手足の動きを封じ、服の隙間から足を差し込んでその脇腹や背中を撫でる。ぬるついた感触に、漂流者は眉をひそめた。

「ヒィ、な、なにをするんだ! この僕にそんな真似してタダで済むと……っ」

 抵抗しようとする男の口に触手が突っ込まれ、言葉がそこで途切れる。

「んー! んーっ!?」

「小うるさい口は塞いでしまいましょうね。うーん、でも困ったわ。これじゃあせっかくの悲鳴が聞こえない。ねえジョナサン、なにかいい案はないかしら?」

 ジョナサンは引いた。この女、さっきまでの退屈そうな顔とは打って変わって、ものすごく生き生きしている。

「俺を妙な遊びに巻き込むのはやめてくれ」

「うふふふふ、やっぱり生意気な人間を恥かしめるのは楽しいわ!」

「んー!」

 男は目を見開いて首を横に振り、手足をばたつかせて抵抗を試みるが、拘束が緩くなる気配はない。

「とりあえず口だけでも離してやろう? な? 苦しそうだ。このままだと息ができずに死んじまう!」

「仕方ないわね。今回だけジョナサンに免じて口をきくことを許してあげるわ」

 蛸の触手が男の口から抜き取られる。男は、激しく咳き込んで空気を必死で取り込んでから、弱々しい声で言った。

「とんでもない船に乗ってしまった」

「いや、誤解しないでもらいたいんだけど、普段はもうちょっと平和っていうか、平和すぎて暇っていうか……」

「嘘をつくんじゃない! 乗せたばかりの僕をこんな目に合わせるような船が平和であってたまるか! くそ! 離せー!」

 再び暴れ始めた男を見て、デビーは口角を上げる。

「あら。まだそんなに暴れる元気があるのね。そういうことなら手加減は必要ないかしら?」

 再び蛸の足が蠢き始め、男は悲鳴をあげた。

「ひっ! やめろー! 僕をどうする気だ!」

「うふふふふ。私はね、あなたみたいな元気で生意気な人間をじっくりいたぶって、その反抗的な目が曇っていく様を見るのがとっても好きなの。日が沈む頃には、きっと泣きながら私に忠誠を誓うことになるわ」

「ヒィィ……」

「で、具体的にはなにをするんだ?」

 ジョナサンの質問に、デビーは即座に答えた。

「くすぐるわ」

 次の瞬間、男は引き連れた悲鳴のような笑い声をあげて体をよじり始めた。

「ヒー! やめろー!」

 こちょこちょとくすぐられて、不本意ながらもヒーヒー笑っている男を見て、ジョナサンは拍子抜けした。

「あんなことやそんなことするわけじゃないんだな?」

「どんなことをするっていうの? 生かさず殺さず人間に苦痛を与えるのに、これ以上にいい方法があるのかしら?」

 ジョナサンはニコニコ笑ってデビーの頭を撫でる。

「ないない。ないよー。デビーちゃんにはまだちょっと早かったなー。あー、よかった」

「いいわけあるかー! 助けっ、ひぃ、あははははは!」

「今後二度と、この私に逆らわないと誓うかしら?」

「ぐぬぬぬぬ、そんな、屈辱的な……、ぎゃはははは!」

「そう。日が沈むまで続けて欲しいってことね?」

「くっ……、くそっ……、ヒーっ!」

 このままだと本当に日暮れまで続きそうだと、ジョナサンはため息をついた。

「おいアンタ。早いとこごめんなさいしといたほうがいいぞ? だいたい、こんないい天気で、いい風が吹いてるってのに、なんで船が沈むなんて言うんだよ」

 デビーが指を鳴らすと、蛸が動きを止めた。

「ジョナサンの質問に答えなさい」

 呼吸を整えると、男は矢継ぎ早にまくし立て始める。

「だ、だって! お前たちはわかってないんだ! 命が惜しければ、今すぐ僕を海に戻すがいい! できれば水と食料と一緒にな! 僕はデビー・ジョーンズに呪われてるんだ! 海に出たのが間違いだった!」

 ジョナサンとデビーは顔を見合わせた。

「呪ってるのか?」

「いいえ。全く心当たりがないわ」

 デビーは再び指を鳴らす。

 蛸足に囚われていた男が甲板に投げ出された。

「どういう事情か話しなさい」

「話してどうする。お前たちにどうこうできる問題じゃないんだよ」

「勘違いしないで。あなたの話を聞いたところで、なにかしてあげるなんてそんなわけないでしょう。これはただの余興。長い航海のわずかな楽しみよ」

 ジョナサンは船倉に潜り、水と酒と干した果物を持って二人のところに戻った。

「まあ、座れよ。なにを怖がってるのか知らねえけどさ。なんとかなると思うぜ? なんせこの船は海の悪魔が守ってくれてるからな」

 男は驚いて目を見開いて、小さく悲鳴をあげると、大慌てで海に飛び込んだ。

 即座にデビーが指を鳴らすと、蛸の足が男を掴んで吊るし上げ、甲板に投げ戻す。

 男は、震える指でデビーを指して「デビー・ジョーンズ?」と聞いた。

「そうよ」

「俺はジョナサン。この船の船長だ。あんたは?」

「とんでもない船に乗ってしまった」

「ちょっと。質問にくらい答えなさいよ」

「もうダメだー! おしまいだー!」

「またくすぐられたいの?」

「ぎゃー!」

 男は、今度は船の反対側から海に飛び降りる。

 しかし即座に蛸に捕まり、甲板に戻された。

「もったいぶるんじゃないわよ。早く話しなさい」

 男は腰を抜かしてその場に崩れ落ちてしまった。ジョナサンは、デビーと男の間に割って入り、「まあまあ」とデビーをなだめた。

「そう急かすなよ。時間はたっぷりあるんだからさ」

 それから、酒の瓶を男の口元に持っていく。

「きつけ酒だ。飲むと落ち着く。落ち着いたら話してくれよ。あんたの話、気になってきちまった」

 男は酒を一口飲みこむと、軽く咳き込んでから深呼吸をした。

「強すぎやしないか、この酒」

「そうか? こんなもんだろ?」

「まあいい。……礼を言う。少し落ち着いた」

 もう一度深く息を吸ってから、男は話を始めた。

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